はてなキーワード: 占いとは
自分がどっちに行きたいんだろう?ってときにたまに占い行く。年1行くか行かないかくらい。
占い師さんにこっちのほうがいいよ!って言われて
「いやでも別のほうがいいな」と思ったら自分の思ったほう行くし、
「それもそうだな」と思ったら占い師さんの言う方向に行く。
自分の大雑把な方向性決めるときにはちょうどいいなって思ってるよ。
別に当たらなかったらそりゃそうだだし、当たれば当たったなーってくらい。
占いっていうとあれなんだけど、
占い師さんも占いじゃなく人生経験に基づいたアドバイスしてくる人もいるし、
関係のない第三者にお金を払って話を聞いてもらって頭整理する感じ。
占いしないと何も決められない!ってほど盲信しなきゃ使いようだと思うんだよ。
朝やってる星占いとかはまた別物と思ってみてる
当たる当たらないとかでなく気分上げるためのアレ。
娘「ねえパパ…これ嘘だよね? これで願い叶うわけないよね」
俺「そうだね。魔法使いごっこみたいなもんだよ。娘ちゃんはどんな願い叶えたいの?」
俺「あのねそもそもコロナウイルスっていうのはごくごく一般的なタイプのウイルスで風邪もコロナの一種だし現実的に考えるとコロナ自体がなくなることはないんだよねまあでも娘ちゃんが言ってるのは新型コロナのことだよね新型コロナはただの風邪って言ってる人いるでしょママもそうだよねママのツイッター見ると古い論文のグラフや海外ドキュメンタリーに字幕がついたスクショがいっぱい貼ってあってちょっと怖いよねパパブロックしちゃったまあでもある意味彼らは正しいんだよねだた風邪は風邪でもワクチンの安全性や効果が確認されてなくて特効薬がまだ普及してないから問題になってるんだよね逆に言うとそのへんが整備されてくれば新型コロナがなくなったつまり陳腐化して大きな脅威ではなくなったと言えるかもしれないね早くそういう日が来るといいね!」
俺「おっいいぞ〜。それ終わったらミニトマトにお水やりな」
俺「OK」
俺が重たい如雨露を傾けると乾いたプランターの土はごくごくと飲み干すように水を吸った
真夏めいてきた強い日差しを受け上の方の葉は我先にと競うように豊かに伸びている
昨日まで蕾の名残しか見えなかったところに今日は小さな果実が実っているのに気づく
遠からず美しく赤く色づきもぎ取られてしまう青い果実を愛おしいと思った
ああ
夏よ
うん。自分でもたまに占って普通に幸せだよ。占いで考えが広がって、自分の納得感のある判断ができているから、僕は幸せだと思う。あなたの幸せの定義はわからないけど。
でも自分で占うことなんて、年に数回あるかないか。僕の生活や仕事の課題なんて、だいたい論理的に考えればかたがつくかな。論理的に考えて煮詰まったり、答えが論理的に導き出せないときに、カードを引いて頭を違う角度から整理する。それで新しい観点を見つけて、また考えて決定する。それだけかな。未来は自分で決めてる。
そうしないと全部でまかせだよね
そもそも僕は幸せだからこれは回答する必要がない気はするけど、一応幸せの定義が違った場合のために書くね。
未来予測をしない、ただひらめきを得るための占いはでまかせでいいと思うんだよな。未来予測をして壺を買わせるのはダメだと思うよ。でも僕の占いは、最初に言ってるとおり未来予測はしないし、考えを整理するためのただの材料集めだったり、付箋を並べてひらめき得てるのと一緒なんだよな。リーディングしてるときと会議やブレストのファシリテーションをしているときの感覚は近い。
自分の中で占いは、誰かに決めてもらうためもの(主導権は他人)ではなくて、自分の行動や思考を定めるためのひらめきの材料集め(主導権は自分)なんだけど、世の中での占いの受け取り方が前者みたい。
僕にとっての占いは決めつけるものじゃないって、こう本文にも書いたつもりなんだけど、もらうレスが「占いは決めつけてくるもの(=世間のイメージ)」前提のレスばっかりなのは、あんまりちゃんと読んでくれてないからなのかな。
ワイはずっと理系で文化人類学や社会学、宗教も幅広く知ってるが、そんな簡単なものではない。試しにアウグスティヌスの「告白」でも読んでみるとええ。増田よりも遙かに頭のいい古代人が、増田が一生かかっても思いつかないようなキリスト教批判をしている。(その上でキリスト教となんやで)「占いや宗教を笑い飛ばす僕」ってアイデンティティで、視野が狭く教養のなさをカバーしようとしてる増田みたいなのはMARCHレベルでよく見かける印象やが、夫婦そろってそうだとさぞかし浅い、自足的な会話が繰り広げられてるんやろうな。
最近占い等が話題になっているが、個人的に前々から思うところがあったので吐き出しておく。
占い、宗教、おまもり、願掛け、ジンクス…そのあたりの「科学的根拠のない代物」について、他人がどう考えてるかが気になって仕方ない。
懐疑派:根拠がないので、基本信じない
娯楽派:根拠はないと思うが、娯楽として信じる(ことがある)
盲信派:完全に信じている(ことがある)
ただ盲信派も存在しているようで、この2つは一見区別がつかない。
そして私は盲信派が怖くて仕方ない。不気味なのだ…。
「几帳面だからA型だと思った」みたいな話題はいまだに出ると思う。
ここで内心「とはいえ血液型占いなんて何の根拠もないけど」と思ってるならいい。
ただ少し話しただけでは区別がつかない。本当に信じてるかもしれない。怖い。
お坊さんがお経を唱え、参列客が数珠を握って祈ったりする。
「あの人は天国に行ける」だの、死後の世界についての話題が出たりもする。
言うまでもなく、本質的には無意味である。故人に対して何の影響も与えない。無に帰しているので。
ここで内心「死後の世界なんてあるかわからんけど、生きてる人向けのイベントとしてはありだわ」などと思ってるならいい。
怖いのだ。他人の考えが。
というか一番は盲信派を装った娯楽派に困ってる。
心から信じている風を装わないでくれ。怖いだろうが。私を怖がらせるな。
ま、私もさすがに葬式の最中に「あの世? たぶんないが??」などという発言はしないけども。
その中にあまりにも堂々と占いのコーナーがあるもんだから、「この占いも何か根拠があるのだろう」って思いかねない。
私も実際小さい頃そう思っていて、「嘘っぱちじゃん」て気づいて失望した覚えがある。
それならでかい字で「妄想です」って書いてくれ。本気かと思うだろ。
怖いんだよ。とにかく。
同じようなことは考えたけど「10円玉投げて落ちた時に表か裏かで判断」って結局占いと同じなので、それでいいと思うなら占いでもいいだろ。どっちを選ぶかは個人の判断。9万円の財布を使うか10万円の財布を使うかの判断みたいなもん