「戦災孤児」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 戦災孤児とは

2015-11-17

anond:20151024023259

時期をはずした気がするが、さきほどハーモニー読了したので書く。

16歳未満の子どもには、WatchMeがインストールされていない。WatchMeを入れられたくないからこそ、ミァハたちは16歳になる前に心中しようとしたはずだ。

まり、16歳未満の子どもはハーモニクスすることが物理的に不可能である

にもかかわらず、エピローグでは、全人類意識ハーモニクスされたように書かれている。作中の設定どおりなら、こんなことはあり得ないのだ。

この作者は、自分が書いた設定を忘れている!

上記について、脳血液関門の件を読んでいてもなお本文の記述をそのまま設定であると受けとめるのは少々ナイーブなのではないだろうか。(伊藤計劃が設定を忘れているかはさておく)

個人的には、16歳までWatchMeがインストールされないというのはあくまで表向きだと考える。新生児は出生時に(あるいは臍帯を通して母から子へある種の『感染』をしているかもしれない)インストールされ、戦災孤児場合保護された段階でインストールされているという考えだ。いざというときに「16歳未満の人類ハーモニーからはずされました」というのは大災禍への偏執さを感じさせた老人達にしては杜撰な気がする。

話は変わるが、すでにWatchMeがインストールされているとして冒頭のミャハの言動を読むと1回目とはまた違った感慨があるな。

2014-09-17

時は未来戦国

時は未来戦国

徒手空拳戦場を闊歩するある乱波の一族があった。

登場人物は父、息子2人。

息子の名はシンとレツ

レツは物心つくまえに父に拾われた戦災孤児である

レツとシンは孤児という立場による確執があったが、

父と共に死線をくぐることで、切っても切れない絆ができていった。

血はつながっておらずとも、彼らは兄弟でありライバルであった。

ある戦場で3人は3人の強敵出会う。

戦いは苛烈を極め、2人の息子が今にも止めを刺されそうになるとき

父はある決断を迎える

突然、呼吸を整え、立ち止まり、息子たちに戦闘の指示を出すことのみに専念しだした。

指示の甲斐があり、ついに二人は各々の敵を撃破するが、

父には深々と敵の刃が突き刺さる。

「息子たちよ。恐れるな。恨むな。恐れは拳を鈍らせる。」

「これから、最終奥義を伝授する。皆目せよ」

血だらけの体を奮い起こし、奥義の構えをとる父。

満身創痍ながらもその構えは巨岩と錯覚させる堅牢さであった。

ただ一人残る異形の敵はその様子を静かに伺う

強敵(とも)よ、受けてくれるか。。。」

異形の敵はすっと構えをとる。

伸ばした拳の先には老練のしたかさを感じた。

「.....来い!」

まるで再開した兄弟のように歩み寄る。

あと数間の間合いでピタリと歩みを止めた。

「ハアアアアアアア!剛健流奥義ぃぃぃい」

「崩山天落けぇええええん!」

「ぐわあああああ」

異形の敵の腕がはぜた。

「見たか。。。息子たち。。これが、奥義だ。。。」

父はその場にどうっと倒れ、息子たちの腕のなかで息絶えた。

「ははははは!剛健流奥義と言えど、我を倒すにはあたはずか!」

「くやしいか剛健の息子たちよ!」

異形の敵に走り出すケン

必死に止めるシン。

「はなせ!なぜ止めるシン!」

「よせ!今の俺たちではアイツにかてない!」

「今はこの戦場から生きて帰ることを優先しろ!」

異形の敵は彼らを見据えた。

「3年だ!3年までに我を倒せるまで強くなれ!ふははは」

そう言い残し、異形は飛び去っていった。

で、そのあと彼らの前に剛健分派の達人ジークが現れて、

3年間みっちり修行して、宿敵の異形を倒せるまでに成長するんだが、

実はジークの正体は異形の敵ガイザーで、打ち倒したあとに父の手記からそれが発覚する。

実はジークと父は元親友で、すべては敵の親玉サイターンを倒すための超奥義「双龍崩山天落拳」を習得するために本当の愛と悲しみを乗り越えさせるために仕組んだことだった。

超奥義を習得したシンとケンはサイターンを倒すために最後の戦いに挑む。

サイターンを打ち倒した2人。

母国に帰ると、国王からサイターンを倒した功績をたたえられる。

しかし、彼らに残るのはただただ虚しさのみであった。

父の教えである恨まないことを守ろうとするシンであったが、

ケンは第二のサイターンとなり、王国を相手に宣戦布告をする。

シンはケンを止める為の戦いの旅にでるのであった。。。

という話を頭でシミュレートして、我ながら熱い展開に電車のなかで涙してしまった。

2014-08-24

ハリウッドゴジラについて

遅ればせながらゴジラを見てきた。作品感想は事前の期待が大きかったせいもあるがイマイチ。その理由自分なりに一晩考えて出た結論が「人間にとって都合のいい存在としてゴジラを描いてしまっているから」。1954年に公開された初代ゴジラは明確な反戦反核メッセージを含んだ作品であり、水爆実験でよみがえったゴジラは、人間コントロールできない「核兵器」という科学技術を使うことへの批判として描かれている。

以下が簡単な初代ゴジラストーリー

人類調子こいて水爆実験連発。その衝撃によりゴジラが目覚める。

ゴジラ日本列島に襲来して壊滅的なダメージ

ゴジラを殺せる可能性のある、水中の酸素破壊するオキシジェンデストロイヤーという化学兵器若い科学者発明

しか博士はその兵器戦争に使われることを恐れ、使用を拒否。

ゴジラをぶっ殺すか? 強靱な生命力研究対象にするべく生かすのか? 議論割れる。

結局、オキシジェンデストロイヤーゴジラ死亡。博士兵器悪用を恐れ設計図を破棄し、自らの命を絶つ。

ゴジラは60年前から反戦反核メッセージとともに、際限のない科学への信頼に対する警鐘も鳴らし続けている。しかし、ラストゴジラを倒すのは核兵器よりも強力な化学兵器であり、これは結局諸刃の剣である科学呪縛から逃れられない人類象徴的に描いている。「人類核実験を続ける限り、第二第三のゴジラが現れるだろう」という最後セリフは今もって有効だ。これがハリウッド映画であれば、「核兵器でも死なない大怪獣を倒した科学技術は素晴らしい! 人類の叡智バンザイ!」的なハッピーエンドになるはず。

ネタバレになってしまうので詳細は避けるが、なにが言いたいのかというとゴジラは大自然神様といった人間にとってアンタッチャブル概念の具現化であり、人類のために戦うヒーローになってしまっては興ざめということ。この辺はおそらく、神様世界人類想像したというキリスト教的な欧米世界観では理解しにくい存在なのかもしれない。それらの文化圏では神様とはこの世界スタートとゴールを設定した絶対者であり、人類を正しい方向に教え導く役割を担っているのだから、試練を与えつつも最後にはハッピーエンド人間にとって都合のいい)が約束されていなければならない。

その点、日本では不可侵存在としての神様を描くのが得意なようで、例えば「もののけ姫」のシシ神さま。あれなんかは完全に、人類もののけ人智を超えた存在として描かれている。シシ神さまにとっては森を守るアシタカも森を開発しようと企むエボシ御前も関係なく、ただ目の前の者に死と生命を分け与えるだけ。間違っても「お前は森を大切にしているから褒美として寿命10年延ばしてやろう」とも「お前は森を破壊した罰として寿命マイナス10年!」とも言わない。人間の都合ももののけの都合も一切勘案に入れず、己の職務に忠実なだけだ。それは、どんなに弱者や善人が住んでいても地震台風が発生するとき容赦なく発生するのと同じこと。つまり本来自然神様人類の都合など考えない、極めて不条理存在であるわけだ。

もうひとつの例としては、「ドラゴンボールZ神と神」のビルスさまも同じ。「プリンが食べられないから地球破壊」「寿司がまずかったら地球破壊」「ジャンケンに負けたら地球破壊」といったセリフオンパレードは、神様不条理な一面をこれ以上ないくらいよく表している。初代ゴジラにとっては自衛隊であろうと戦災孤児であろうと自らの進路に存在する者は容赦なく踏みつぶすだけだ。

そんな人類の都合など考えないゴジラを期待して見に行った自分からすれば、なぜ98年のエミリッヒ版ゴジラがあんなにも酷評されているのかよくわからない。今作では日本原発事故を絡めてはいるが、それもイマイチ批評性に欠け(というか単なる方便)、中途半端社会派作品に堕してしまっている。

一つ興味深い点を挙げれば、人類ゴジラを「撃退」もせず「征服」もせずに「共存」の道を選んだこと。(続編のためにはゴジラ人類撃退、征服されてしまっては元も子もないのだが)。これまでどんな凶悪宇宙人自然災害撃退して乗り越えてきたハリウッド映画、これまで世界の警察自称して世界中西欧価値観を広げてきたアメリカ。そんな、アメリカという国家共存の道を選んだこのラスト、実はなかなかにレアなのではないかと考えている。メインキャストで唯一の東洋である渡辺謙が発した「愚かな人間自然を征服できると思っているが、そんなことはできない」というセリフは、「自然子ども管理されるべき」といったキリスト教の教えとは180度異なる。今回のハリウッドゴジラ反戦反核メッセージを含む初代ゴジラとは異なり、アメリカ外交の変化とリンクした作品として捉えるとまた違った一面が見えてくる。

2011-06-14

ガンダムシリーズ最新作 「機動戦士ガンダム LEVEL5」

ガンダム新作が発表されて、「ガンダムじゃない」感をひしひしと感じた。

今後の発表や本放送で感想が大いに変わることはありえるが、ひとまず現時点では、ガンダムである必要性を全く感じられない。

なぜか。

まりにも「レベルファイブ」すぎるからだ。

等身の低い丸っこいキャラデザ、三世代に渡るストーリー展開、オモチャしか見えないガンダムデザイン

全てレベルファイブの作品で見たことがある、というかもうぶっちゃけこれ、イナズマイレブンベースダンボール戦機メカ要素取り込んだだけだろ!としか思えない。

全てにおいて突っ込みどころ満載だが、個人的には、三世代ネタを出してきたところが最も気になった。

そもそもガンダムの主人公は、親子、というか家族概念希薄な人が多い。

アムロカミーユは親が仕事優先で放置されがちな少年時代だし、ロランやヒイロは出自不明。

ガロードとシンは戦災孤児、親を殺して自発的に孤児になった刹那というガンダム

キラには親がいるが、全くストーリーには絡んでこない、かなりの透明度。ウッソのところは…他が濃すぎて……

とりあえず、ガンダムの主人公はそのほとんどが、帰るべき家・家族を持たない「孤独少年である

ただ、自分の知る限り唯一、孤独少年じゃない主人公のガンダムがある。

Gガンダム」だ。

ガンダムファンの高年齢化問題」と「小学生層の取り込み」を実現させるために、設定を大きく変え、「機動戦士ですらなくなったガンダム

ガンダムAGEは、Gガンで挑戦し、一定の効果を得たこの課題に、再挑戦する意思が見える。

そして今のタイミングでこの課題に挑戦するにあたって、こども向けのゲームタイトルで躍進するレベルファイブが関わるのは、ある意味当然のことのようにも思える。

そこまではよかった。

問題は、日野社長が自らシナリオを手がけること。

日野社長経営者として優秀であることは間違いない。

そして、脚本家としてもダメなわけではない。

(王道設定の再構築で成り立ってるから地雷を踏みにくい)

だが、彼はあくまで、レベルファイブ社長

ガンダムに関わっている間、それを捨てて「ガンダムの」ストーリー作家になれるか?

多分無理、絶対無理。

いくら「これまでのファンも大事にします」と言ったところで、既にゲーム発売も予定されている。

そんな状況で、ゲームの都合でストーリーを変えることができる立ち位置社長自らが腰を据えるわけだ。

信用するのは難しい。

何せ日野社長って、会社経営方針的に、ドラクエ二ノ国、そして今回のガンダムと、ブランド力への執着心が半端ない。

そこにきてガンダムAGEは、イナズマイレブンでやり尽くした感が否めない「三世代」ネタを主軸に置くときた。

まり、このガンダムが成功すれば、日野社長は「家族ネタに定評のある構成作家」の地位を確立し、それはそのままレベルファイブブランド力になるのだろう、ということ。

それを前提とすると、先日の発表会は、

「新作ガンダムは、2011年秋までのレベルファイブ作品紹介プレゼン動画です!1年かけて放映するからよろしく!」

…と言っているようにしか見えなくなってくるので、今非常に困っている。

最近ガンダムは文句言いながらもそれ自体も結構楽しめてたけど、今回ばかりは不安100%で楽しめる自信が全くない。




誰か一番いい論破を頼む。切実に。

こんなくだらないことでガンダムを嫌いになりたくない。

2007-02-02

落第忍者乱太郎

そういえば、しんべエは親が金持ち、乱太郎は親が足軽、きり丸は戦災孤児だという設定だったな。

http://anond.hatelabo.jp/20070202154636

http://anond.hatelabo.jp/20070202153942

それをふまえると25歳しんべエはニート説はあながち間違ってないかも。

逆に、きり丸は高卒正社員というより、中卒起業みたいな気がする。

その起業がうまくいってるかどうかは別にして。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん