はてなキーワード: ばずるとは
コンテストで選考側を経験した。経験して選ばれないことは絶望することではないという気持ちなので記したい。
→今、業界って人を育てることをしていない。できない。が正解かもしれない。
育て方がわからないからある程度できる人が欲しいと考えている。
赤・アドバイスはするが、媒体の方向性など「わかってるよね?」という暗黙の了解で成り立っていると感じる。
選考会でも
「うちの弱さはここだよね」という感じで選考している。
なので、本や媒体に合わせた成果物を出すよりかは、「お宅の足りていないジャンルはこれですよ」という感じで応募した方がいいかもしれない。
そういうのはその雑誌や媒体が好きなら自然とわかってきますよね。
雑誌や媒体に新たな新人(型破り的)が入った時に「自分が求めてたことはコレなんだよ!」と思ったことはないですか。
それ。
本当にタイミング。こちらが「こういうジャンルが欲しい」と思った時にハマるかハマらないか。まじでタイミング。運。落ち込まないで欲しい。
→勢いがある人や界隈で有名な人は結構チェックしている。
声をかけることはあるっちゃあるけど、勢いがある人のコンテスト応募ほど強いものはない。
界隈で有名だったり勢いがあるとその人も応募を告知している。
その人を採用しないのは、その雑誌や媒体のセンスがないことになるので採用する。
そもそも、勢いがある人は勢いがあるし実際実力もあるので落とす理由が見つかりません。
①の理由で落としたとしても、後で個別に声をかける時があります。
すると、落としたことにより怒った信者(言い方が悪くてすみません)も納得する。そう、ずるいと言えばずるい。
→コンテストといいつつ、裏では「うちには足りない何か」を探している状態のところが多いと感じる。
今は必要じゃないけど、才能がありすぎるからうちでどうにか確保しておきたい。というものがある。
才能がありすぎると、結局別の媒体でデビューしたりどこかでものすごく有名になるケースがある。
それで持て余しをくらい、潰れた人を見てきたので媒体選びってマジで重要。
→③に関連すること。無名は本当に何か光るものがないと厳しい。
①で育てる気がない。と書いたが、その媒体が引いているボーダーラインにも達していないのが無名には多く感じる(たまにプロが野良を演じることがあるがそれは除外)
Web媒体は、拡散力を期待している場合がある。何かに応募したかったら少なくともSNSに3000フォロワーくらいいた方が、同じようなレベルの作品を比べた時に選ばれやすい。
フォロワーが少なくとも何か光るものがあれば別。そういう人は放っておいてもいつの間にか万単位のフォロワーになっている。
当たり前だろ。と思う人もいるかもしれないが、わかってない応募者が多く感じる。
素人からしたら、コンテストにプロが出てくるのは理不尽と感じるかもしれない。自分もそう思うが、選考側になると背に腹は変えられない。
俺が好きだったアーティストが薬物中毒で摘発された時の心境を思い出した。
まず、激しい嫌悪感。
絶対に手を出してはいけない薬物なのに、なぜやったんだろうかと本当にそいつが大っ嫌いになった。
TVにたまにでてるけど、正直な気持ちとしては表舞台に出て欲しくない。
そして、そんな薬物中毒なやつがつくった楽曲を何も知らずにCD買って、全部が好きなわけじゃないけど、まあいい曲もあるよねと買い続けた俺ってなんてバカなんだ。
好きな曲全部が薬物中毒の時に書いたのかわからないけれど、そんな曲だったとしたら自分で自分が嫌になる。
ファンがCD買って、その売り上げた金で買った薬物をアーティストが使うとしたら、つまりはファンはヤクザの売り上げに貢献してたってことだろう?
絶対に嫌だ、ばかばかしくてマジで反吐が出そうになった。なんでcdを買ってしまったのかという嫌悪感がぬぐえない。
反社会勢力にわずかでも力を貸さないというきっちりとした対応なんだと思う。
当時はここまでしか思わなかったが今は、その先があると思う。
復帰ぜんぜんオッケー!などとしてしまうのは非常に危うい。
たとえば、たまたまヤクでキめてた曲がヒットした曲や、曲をかけなくなったが薬物で曲をかけた、となれば、アーティストは薬物を使わないと作品を作れなくなるという恐怖にかられるんではないか。
それを世間が許してしまうと、「アーティストは薬物中毒になりながら作曲するのが当たり前な社会」になってしまう。
個人的には今回のピエール滝の映画とかドラマはどうでもいいんだが、これは許してしまうことの余波、リスクが恐ろしいと思う。
「あーやばいクスリに手を出しても世間はゆるゆるなんだ」ということは非常によろしくない。
今「作品に罪は無い」と声高にいうのは非常に危ない(例えば、”実は反社会勢力の人では?”という疑いのまなざしを向けられる可能性はゼロではない)し、「ではリスクの責任は誰になるのか」をキッチリ考えねばならない。
真面目にやってる周りは本当に迷惑だよね。
薬物中毒の人がいるせいで余計な仕事やコストが増えて、本当に辞めてくれって思うだろうよ。
今後、ドラマや映画の撮影は誰が抜けてもCG対応や、それこそvtuberが代理でやってくれる時代になったりするのかな・・・
成人済み女。
数人のお付き合い経験あり。
ただ、セックスするのがどうしてもこわい。
コンドームやピルでほぼ避妊できるといっても100パーセントじゃないんでしょ。
このままうっかり子供ができておろすにしても産むにしても信じられないくらいの責任が圧し掛かってくるようで、いやらしい気持ちが一気に冷めてしまう。
性欲はないわけじゃない。一人でなら時々するし。正直、(子供ができないから)おもちゃとかなら興味ある。
でもどうしても生身と最後まではこわい。
いれるのがこわい、ではなく、その後の責任がとてもとてもこわくて。
まだ自立もしっかりしていない、向こうと結婚する予定も覚悟もないのに、もしも子供ができたら。
結局いつもBどまりで、それが原因で別れたことはないけれど、周りの友人や世間の風潮を見ていると私はおかしいのかと思ってしまう。
もしセックスする時が来るなら、結婚して、子供を産む覚悟ができた時にようやくかな、とは思っているけれど、やっぱり異常なのかな。
追記(1/6)
お返事などありがとうございます。チラ裏の愚痴で書いたのですが、レスポンスもらえると嬉しいですね。
この話がおっさんの妄想作品ってのはいいなと思った。女が女らしい愚痴を書いておっさんに擬態するってのはちょっと面白いです。
あと、パートナーできたら変わるよって意見をいただいて、実は少し前に知人に同じことをいわれていたので、短期間に二回同じことを言われたためか「私、変わるかも…!」みたいなポジティブな気持ちになりました。
以下にみなさんのお返事をみて思ったことを。
ひとつ、難しいと思ったのはセックス(合体あり)がコミュニケーションツールってこと。
生まれてから今までセックスでコミュニケーションしたことないためか、そういう作用を知っていても、本当の理解というか実感がわかないので、いまいちぴんとこない。
「いやいやいやそんなリスクのあるコミュニケーションはちょっと無理」ってなってしまう。
上で書いたことと一緒だけど、
うっかりコミュニケーションしたばかりに、自分の中に新しい命が生まれて十月十日たてばずるりと登場、二十数年かけてこの社会の中ひとりで生きていけるように仕上げなければいけないって、ちょっとこわすぎないか。
精神的にも経済的にも自立していて、ハーイいつでもベイビーオッケーよみたいな感じならいざしらず、覚悟も下積みもない今、そんなことにでもなったら多分この世の終わりと言わんばかりに泣き伏しその上ぎりぎりまで中絶か出産か迷ってどっちに転んでもげっそりと消耗する自分が見えてこわい。
ただ、「だからセックスしない!いや、こわい!!」じゃなくて、最終形態までいかないセックスなら全然したいと思います。
凹と凸をそれぞれ所持する者同士、合体までいかないとセックスって感じじゃないのかな。
ここまで来るとすごいアブノーマルなセックスになりそうだけど、でもそうすればコミュニケーションできてしかもリスクはなくなるのではないでしょうか!
っていうのが、上記の「Bまで」なんだけど、それだとセックスってことにはならないのか?
セックスの醍醐味ってやっぱり合体だとも思うので、「それは本当のセックスじゃ、本当のコミュニケーションじゃねーよ!」ってなるんですかね…。
「新しい命を育む神聖な行為を共に行おう」じゃなくて「一緒にやらしくて気持ちいいことしちゃおーよ!」ってことになると逆に抵抗できるんでしょうか。不謹慎とか不潔とか、そういう感じになっちゃうの?
こう言っててもそんな沢山の経験があるわけでもなし、書いてるうちにだんだんよく分からなくなってしまいました。
最終的には「合体しないならいやらしいことしたいけど、それってやっぱり他の人は抵抗あるの?」に行きつきましたが、一体どうなんでしょう。
自分は未成年でお酒を飲んだ時にああこの世界は本音と建前が違っているんだな
と思いました。そしておおっぴらにしなければ大きく制裁を受けることもまあないんだな、とも。
そう思ってから割と自分は世界が開けてそのあとなんとなしに楽しく過ごせましたね。
ある程度の曖昧さはあってもいいんだな、と。
でも貴方のように法律を遵守するのはホントは正しいとは思うし、貴方が生きづらいのでなければ
いいんじゃないかと思います。ただ、まあ、あれですよ。ネット上に上げなければ良かったっていうのは
割とその通りだと思いますよ。もっと小さいコミュニティでばれたならちょっとしたお咎めですんだでしょうね。