(修正)
相手の都合のいいようにしか愛されなかった生の間は輪廻転生されつづけたけど、
ありのままの自分を承認してくれるメス猫と出会った瞬間にその因果が切れてしまうんだから。
愛は人を活かすけど、同時に愛が人を殺すこともあるんだな、って思ったよ。
自分至上主義というか、メス白猫と遭うまでは、出会う相手も主人公ネコをありのままには受け入れないやつらばっかだったんだよ。
相手も自己中で、主人公ネコも鏡のように自己中だった。メス猫は主人公を受け入れた。だから主人公も相手を受け入れることができた。これは自分を受け入れることと同じだった。
そして相手を想う気持ちが生まれた。そうしてはじめて死を悲しむ気持ちが生まれて、皮肉にもその感情が主人公ネコの「人生なんてどうでもいい」という殻を破ってしまった。
だって、生きるのがどうでも良いなら、死ぬのもどうでもいいし、その逆もまた然り。
人間には大別して批判されたり挑発されてやる気を出すマゾな人と、評価されて励まされてやる気出す甘えん坊タイプがいる。日本人はマゾ気質な人が多いからやる気出させようとしてそうやってダメ出しするやつ多いけど、ポジ出ししてやった方が伸びるやつもいるんだよ。自分は管理職やっていくうちにそれに気づいた。叩いて伸びるやつと、励まして伸びるやつね。
足を露出した美脚のお姉ちゃん。(自慢のおみ足をアピールしてる感)
ウェストが細くてふくらはぎの形のきれいなお姉ちゃんが膝下のタイトスカートにハイヒールを履いている姿。
きれいな色を着こなすおしゃれなおばあちゃん。
ガニ股で歩くお姉ちゃん。
髪にワックスの塊が残っているお兄ちゃん。
自分至上主義で他人のことになんて興味ないと完結していたものが、自分以外の者を必要になってしまったら、もう自分本位な世界では生きていけなくなってしまう
そういう内心の変化の話だと思ったよ
>男性でも、不細工なのにモテる人ってのはスペック以外にも自分に厳しい一面があるんです。
>たったそれだけの違いになんで気づかないかなあ。
かなり努力してもまったくモテない男ってのがいてね。。悲しいことに、それが本当に現実なんだ。
その努力している間に傷つきまくって、次第に女嫌いになっていくのはある意味自然なこと。酸っぱい葡萄の論理というやつ。
あなただって、恋愛には序列があるって認めてるじゃん。どうしようもないことって世の中にあるんだと思う。
>女は低スペック扱いされやすいし、それを回避できないんですよ。(もちろん例外もいるけど)
>容姿で絶対的な地位がきまる不条理の中、低スペ扱いされまくってるから、
>何らかの努力はみんなしてる。(不器用で方法は間違っててもね)
恋愛においては男はどんなに努力しても報われないことがある。それが現実。
女性は多くの点で社会的に抑圧されているけど、こと恋愛に関しては努力が容易に認められやすい。
男はその逆パターン。
努力して努力して努力して、それでもまったく相手にされない奴なんて俺の回りにもたくさんいる。
増田にもときどき出没するよね。数年で100人以上と出会ったけど、彼女ができない、なんてやつ。
男性社会で女性がどんなに努力しても低スペ扱い受けるのと似てる。
隣の席で彼は悲壮な顔をしてこのままでは仕事が終わらないと言う
努めて明るく振る舞いフォローもするが、彼の陰鬱な空気は変わらない
一日が終わる頃、こちらもすっかり気分が落ちてしまっている
何か自分が湿気とりか臭い取りの備長炭にでもなったかのような気分になる
ネガティブを吸って気分も頭も重い
気晴らしが見つからない
風俗嬢とプレイ前のトークを切り上げるときに、「じゃあ、そろそろ仲良くしようか」というと実にスムーズに事が運ぶので、かなり便利な言葉だと思う。
「じゃあ、スケベしようか」って言ったら塩対応されそう。
元増田の言い様にどうも納得がいかないので一席ぶたせてもらう。
なお、個々人が作品から何を見出すかは千差万別であることは認識しているので、この記事を読んで意見を変えろなんて言うつもりはない。
ズートピア世界は、理性によって被食-捕食関係が終わり、共存できるようになったからこそ成立している。
理性の存在は、動物が喋る/二足歩行する/服を着る/文明化してる/etc.と同レベルの、物語における大前提である。
理性/野生の対立軸は本編前にもう終わっているのだ。
もちろん、これは「過去」として本編中でも言及はされるし、“偏見”の大本にもなっているが、この過去そのものが本編中に蘇ったりはしない。
では、元増田が見出した“野生”というのは何か?― それは“偏見”である。
「肉食動物は凶暴で草食動物を襲って食べたがっている」という偏見だ。
そしてこれはズートピアにおいて一貫して存在している、理性/偏見という対立軸の一部なのだ。
「肉食動物は凶暴」なんて、「ウサギは臆病」「キツネはずる賢い」と同種の偏見と言えば分りやすいんじゃないかな。
― 当然さ!でもそれは“野生(という名の「肉食動物への」偏見)”とは別物なんだ。
草食動物だって「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろうって?
― 当然さ!まさに黒幕がそうだったろう?
― あれは薬物による凶暴化さ。野生とは関係ないよ (薬物中毒の人間が暴れてるの見て「野生だ」って言う?)。
「理性は必ずしも野生より優れてはいない」、「理性が善、野生が悪とは限らない」、「理性ばかり肯定的に扱うな。野生にも光を!」。
しかしズートピア世界においては、過去に克服された野生にしろ、偏見としての“野生”にしろ、内容的には「共に暮らす隣人(隣獣?)を襲う」というものだ。
なに? 野生は自然だから善?それは自然主義の誤謬と言うのだ。
元増田は言う。
「ズートピアはユートピアを意識しているはずなのに、ユートピア文学等を踏まえた批判/論評が盛り込まれていない!つまらん!」
さて思い出してほしい。ズートピアはユートピア/ディストピア的な世界だっただろうか?
初期案(肉食動物に電気ショック首輪等々)であれば、これはなるほどユートピア/ディストピア的世界だと言えよう。
映画があって道路があって、スマホもあるし、屋台、車、電車、etc。職業だって警官からお役人、詐欺師もいれば泥棒だっている。
では、我々の世界はユートピア/ディストピア的だろうか?―もちろん答えは「いいえ」だ。
単に、ズートピアは作品の名前であり、都市の名前であり、ZooとUtopiaの合成語である。
ユートピアの俗語的な意味、すなわち“理想郷”的な意味合いは持たせているだろうが、それだけだ。
ぱっと見、理想郷にも思えるような、動物たちの共存する大都市ズートピア。
そこにも現実の、我々人間の世界と同じように偏見があり、差別がある。そういう世界。
タイトルがユートピアのもじりだからって、ユートピア的世界観なわけでなし、なんでわざわざ関係ない批評を盛り込む必要があるのか。(もちろん盛り込んでも良いが)
ズートピアはZooという単語も含んでいるわけだが、動物学(Zoology)の観点からの批評とか盛り込むべきだと思う?私は思わない。それと同じさ。
以下のブログ記事では「野生」の原語(Biology, Biological)について示してある。(全部ではない?)