といっても、嫁はただアプリに並ぶ記事を読むだけでブコメは愚かブクマすらしないROM専だが。
そんな中、先日料理を振る舞ったのだが、それを見た嫁の一言目は「これ増田でみたやつだー!」だった。
「へー、ほんとにおいしいね。」などといいながらももぐもぐと食べ続けている妻には知られていない事実が一つある。
それだけじゃない。
先日笑ってくれたそのネタも、世の中に対する憤りに共感してくれたそのネタも、おれの書いた増田だ。
ところでわがやのセックスレスを題材にした増田を、君は読んでくれただろうか。
あれだけ伸びた増田を読んでないとは言わせないよ。
ねぇ。だったら今夜久しぶりにどうだい?
もしこの増田を読んだら、今夜はいつものよりも少し値段の張るあのハイボールを出しておくれ。それが合図だ。
時間を忘れるくらいに熱くまぐわろう。
そうして無事にせいこうできたら、それをネタにまた増田を書くんだ。
私がどれだけお前を愛しているか思いの丈を熱く書き連ねるよ。
そしてそれをみたはてなー男子は、今夜妻を抱いてそれを増田に書くのだ!
もしボクがダメでも、増田がせいこうできたことをはてなーに思い知らせてやるんだ!
You are not the 増田 but You are a 増田.
I am not that 増田 but I am the 増田.
because we are 増田!
増田 we are!増田 we are!増田 we are!
増田 we are!増田 we are!増田 we are!
増田 we are!増田 we are!増田 we are!
めんどくせー
項目の意味を知ろうとするのは姿勢として良いことなんだろうけど
教えたばっかりの時点でなんでもかんでも質問すんな変更しようとすんな
とりあえずやれよ、調べろ
ひとまず教えられた通りにして意味がわかってきてから質問なり改善なりしろ
時間ねえつってんだろ
自分の気に入らない物に対して、すぐ死ねだの殺すだの言うはてなの連中に、そういう言葉は相手を傷つけるからどうこうとか言って欲しく無い。
先日来各所で絶賛されているのを見て小馬鹿にするつもりで映画館に足を運んだ。
馬鹿にするつもりと言ったらなんだが、聞けば主人公は高校生でラブストーリーらしい。良い歳のおっさんが感情移入出来る気はしない。
己の高校時代のことを思い出してみても、当時好きだった子の事など遠い記憶の彼方であるし、今思えばあの頃の自分は他人の事など本当には好きではなかった。ただ己の欲望と願望を他人にぶつけようと踠いていただけだ。大体の高校生はそんなものだろう。
そんな未成熟な感情の発露を崇高なもののように扱われて感情移入出来るわけがない。
実際に鑑賞した感想としても、主人公の瀧くんとヒロインの三葉ちゃんがお互いをなぜ好きになるのかさっぱり理解できなかったし、そもそも二人のパーソナリティもあまり掴めないままだった。喧嘩っ早い、都会に憧れているなど、所謂どこにでもいそうな少年少女と言う程度の描写を逸脱するようなものは皆無。そんな二人がファンタジックな要素による出会いと別れを経て、ずっと想い続けていた、しかし記憶もおぼろげな名前も忘れてしまった相手に五年も経ってから再会を果たすと言う展開になるのだが、高校生時代の好いた惚れたを五年も引き摺る人の気持ちは正直さっぱりである。あと主人公が序盤密かに想いを寄せていたイケてる(死後の世界)お姉さんのイケっぷりも非常に幼稚に思えた。これ見よがしに婚約指輪をチラ見せさせながら「貴方も幸せになりなさいよ」とか就活中のガキに言い出す女、「アイタタタタタ」。
とまあ、実にこんな具合だったのだが、しかし凄く感動させられた。何故か?
主人公たちの相手への想いが茫洋として定かではなく、別れねばならぬ理由も状況に由来するもので、しかし逢いたいという気持ちだけは残っており、ついに巡り会える。この構造により見ている俺は己の人生に於いて別れてしまったがしかし逢いたい気持ちの残っている誰かのことを想起させられてしまった、この映画を見て感動している人の多くは似たような感覚があるのではなかろうか?瀧くんも三葉ちゃんも感情移入しやすいキャラではない、実際俺は先述のように全く感情移入していない。だがこの作品の重要なモチーフになっている組紐が表している"縁"というものは、つまり出会いと別れの結びは、誰もが心に抱えているもので、おっさんおばさんこそ特に思い当たる節がある類の事柄だと思う。
あまりフィクションを見ている時に自分の体験が想起させられることはない、飽くまでフィクションとして、作者の狙いや他の物事と照らし合わせてその作品が持つ意味を読解するのが常だが、今作では見事にしてやられてしまった。
これは作り手の狙い通りなのだろうか?
そして投稿の内容が、馬場さん家の隣に横馬場さんという人が引っ越してきたというネタだった
それだけなのだが、なぜか妙にツボにはまった
誇張ではなく笑い転げた
誇張ではなく息ができなかった
笑い過ぎて親に怒られた
そんな昔のツボネタを急に思い出し、今冷静に考えてみる
非常に面白い
馬場さんはそこまで珍しい名字ではないが、横馬場さんは非常に珍しいだろう
思ったよりはいた
そして漫画家もいるらしい
とにかくその奇跡と、馬場・横馬場の名前の響きが非常に面白かった
考えてみてもほしい
自宅の隣に、自分の名字の上に「横」がついた人が引っ越してきた時のことを
面白いだろう
鈴木さんの横に横鈴木さん、田中さんの横に横田中さん、横山さんの隣に横横山さん
横馬場さんは元気でやっているだろうか
その理屈でいうと人間が存在しうるような宇宙が誕生した確率がどれだけ低いのかという話になるんだが。
今見えている世界自身がランダム性の中で人間その存在を許す宇宙へと指向性を持って状態を変えてきたと
観測することで原因と結果両者が集約するんだからそれまでの道程に指向性がなく完全ランダムと言い切るほうが不自然だろ。
完全ランダムなら観測した後でも結果はランダムであり続けなければならない。
死んだ猫と生きた猫の両方の状態を維持しないといけない。
そうならないのは世界がどちらを選ぶのかを任意的に選択し続けているからだ。
このまとめを見ての感想
もっともらしく語ってるけど、どんな人か調べてみたらWEB小説投稿サイトからデビューして3年そこらの新人さんじゃん。
WEb出身は今の時代ままあるからいいとして、デビューして三年の新人がこれを語るのかよ。
俺はいっとき何人かの人気漫画家のアシスタントをやってたことがあるけど、彼らのような大物でさえやれ新人賞の取り方がどうのなんてドヤ顔はしてなかったぞ。
で、Twitterで検索してみるとこの手の創作論を大上段から語ってるラノベ作家さんってわりといるのな。それもだいたいデビュー3年以内の新人さん。
実績のある人ほど特に何も語らず、大して実績のない新人が創作論を語ってる姿って正直滑稽だよね。
デビューして3年の漫画家がこんなのやってたら周りから天狗呼ばわり必須だぞ。
どうしてこういう人が少なくないのだろうと考えてみると、たぶん先輩作家に対するリスペクトが足りないんだろうね。もしかしたら先輩作家の背中を見る機会がラノベ作家さんにはないのかもしれない。