まぁ、それは置いとくとして、フライヤーの油の多さによる種投入時の温度低下の小ささ。
それによって素早く高温になりカラッと揚がるんじゃよー(ファー様風
奴らは「イスラム国という名前の組織」だけじゃなくて、領土もあって国民もいる「国家」を作ると称しているのだから
黙っていたって認められるわけないだろバカ。
障害によって中絶された胎児とその次に生まれる人は違う人だろうけど、
生む側は前者を生んで育てなかったからこそ
後者に感情移入する人は現実には存在していない(ってことでいいんだよな)。
障害だけを取り除けるようになればいいんだろうけど。
教師が採点の上で付ける「×」は「数学上の絶対的な×」ではなくて「正しいとされている回答とは違います」くらいのものなのでは(教師じゃないから断言できないけど)。
もちろん、教師が何の説明もなく問題を出して、不正解にしたあとでも何の説明もしないのなら、それは批判されるべきだと思うよ。
でも教師は、授業でも、テストの答え合わせでも、ちゃんと解説しているはずなんだよ(というかそれが仕事だよね)。
こういう理由でこうなります、こういうふうに解いてください、次からはこう考えてみてください、とかね。
それをテスト用紙だけみて「前後を入れ替えても正しいはずだ!」って批判するのは違うよね。
「前提無く問題を出す」とか「間違った生徒をフォローしない」とかは、よっぽど職務放棄している教師でないかぎりありえないよね。
通りすがりの人に見ず知らずの異性が「あなたはセクシーだから家で私と性交しましょう」と誘う実験で、女の大半がきつい調子で断ったのに対して、男の大半がついていったという結果を見て「危機管理能力ないんかい、男はどぐされビッチやなぁ」と思ったのだが、男にビッチを使うのは何か違う気がする。
さりとてこの実験結果に「男はやりちんやなぁ」と言うのも何か違う気がする。
男は股がゆるいなぁ、これも何か女性的な感じだ。
何て表現すればいいのか。
つーかこの結果を見るにホモの世界ではリアルに通りすがりで「やらないか」とかあるんやろな、それでやりまくってるホモは何となくビッチって表現がなじむ。
安くしても売れる部数が変わらないというのは森博嗣先生が実際に試しておられましたね。実際安くても何も反響(売り上げ、感想)がなかったとか。
明らかに負けてるのに負けを認めないで「バンザイ」と叫びながら突撃してきたり、
なんかよく知らんけどメガネと髭のおっさんを「神様」と教えられるらしかったり、、
妙に性能のいい戦闘機つくってみたり、
深い背景なぞ知らずに新聞読んだりラジオ聞いたりしてたアメリカ人にとっちゃ
昔の日本ってさぞや怖かったんだろうなあ・・・などとIS関連のニュースを見ながら、つらつら考える。
しかし、徹底的に戦って、空爆して都市を焼き払って、原爆落として無条件降伏に追い込む・・・
というわけにもなかなかいかないだろうし、
これからどうなるんですかね?
というのが自明じゃないんだよなぁ。
そこを説明するためにわざわざIf文/Switch文に置き換えているんだよ。
掛け算足し算の順序の入れ替えは(暗黙的に)交換法則を用いることで行われるんだから、
交換法則を教えていない段階で、勝手に使ってはイカン、というのは解る。教えた内容で回答して欲しいというのも解る。
だから、「不正解」にするというのが判らん。間違っている、ということなんだろ?
禁止する(switch文を使わずに、if文で回答せよ)は、解る。禁止してもいいか?なら、してもいいと思う。
それを不正解にしても良いか?なら、イカンだろ。間違ってないのだから。
☓にするなら、「switch文では、if文と同じことは出来ない」と宣言していることになる。不正解にするなら。
だから、switch文で回答した生徒に対して、△にして、「実行はできるし結果は同じになるが、if文で回答しましょう」とコメントするのはアリだと思う。
(繰り返しになるが、「if文で回答せよ」と問題文に入っていて、switchを使ったら☓にして良いと思う。)
特に前提無く最初の問題出して、switch文で回答した生徒に☓つけたら、プログラマーなら総ツッコミだと思うが。使って欲しいという出題側の願望とか知らねえし。百歩譲っても問題文がクソだろ。
そうそう。
究極の目的ってつまり、宗の(一番大事な)教え、な訳だから、人生について一番大事なものはなにか考えたことがある人が宗教性を持たないはずがないよね。
それが宗教性だと認識できるかどうかは予備知識がいるだけで、すべからず信仰にもとづく宗教性はどんな無神論者でも持っているはず。
宗教から生まれる弊害って、知性の足りなさが原因なだけだし、知性の乏しさによる愚行は宗教性関係なく起こっているのには皆気づいていないんだよなぁ。
宗教団体や宗教者による害悪も沢山あるのだけど、皆が宗教のせいだと思っている多くは宗教そのものではなく個人の貧弱な精神(理性)からもたらされる害悪にすぎない。
みたいな考えに同意しない人が多いってことだろう。
まず全世界で起きている、テロや軍事衝突で亡くなってしまった方たちに哀悼の意を捧げたい。
個人的には、軍人と民間人とで命の重さが違うとは思えないので、全ての人に捧げたい。
それで、増田にしか書けないことを書こうと思う。増田なのは、怖いからだ。
フランスのテロでご家族を亡くされた方が、それでも恨んだり怒ったりはしないと言っている記事を読んだ。
とても尊くて、たぶん自分には真似できない決意だと思う。それを公開することも尊敬する。
それでもなお、足りないと思った。
あなたたちが誰なのかは知らないし、知りたくもないが、あなたちの魂が死んでいることはわかる。
あなたたちが盲信的にその名の下に殺戮を行っている神が、(後略)
https://medium.com/@dominickchen/あなたたちは私の憎しみを得ることはできない-b2ac0cdcc69a#.v4x4ctbg3
家族を殺されて、恨まないということは、自分にはきっと出来ない。
テロに屈しない、恐怖したり反発したりしないということは、出来そうにない。
そんな人でも、相手を誰か知ろうとしないし、相手は魂が死んでいると思っているし、盲信的に殺戮に及んでいると思っている。
きっとそれは公平に見ればその通りなのだと思う。
でもそれだと「そうかまだ無視するのか。じゃあもっと殺さないとな」となるんじゃないか。
欧州からシリアやイラクの「イスラム国(IS)」に参加した外国人戦士の数(推定)は、人口100万人に対する割合では(後略)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20151119-00051597/
「イスラム国」(IS)の外国人戦士の数は継続して増えている。減らない。
はてなブログも、他のブログも、テロ実行犯に対して言葉を濁している。差別に加担しない思慮深い態度だと思う。
本当に例えばだけど、失業していて、政治的な集会に参加している、20台後半のある地域に住んでいる人が、潜在的なテロリストだと言ったとする。
たぶん、過去の事例からそれは事実なんだけど、言葉にした時点で、単なる「仕事を得たくても得られなくて鬱屈としていた青年」はテロ予備軍になる。
なにもしていないのにテロ予備軍と呼ばれた、じゃあテロ予備軍になってやろう。
なにが言いたいかというと、テロリストになる前に止められないのか、という事。
彼らが誰か知りたくもないし、テロリストの心情を慮る必要は無いし、どんな心情でどんな信仰を持って、どういう理路で持って自爆テロに及んだのか、理解する必要はない、というのも態度の一つだとは思う。
ある社会の中に相容れない「異常者」は、どうしても一定数出るだろうし、サイコパス、みたいな言葉もある。理解する努力が無駄な人は間違いなくいるのだろう。
でも、少なくとも今回フランスで起きたテロや、今後起きるかもしれないテロは、理解する努力が必要なのじゃないか。
彼らが何故過激な思想に寄り、なぜ実際に行動を起こすに至ったのか。
でも、テロリストになる前の人達は、話しあえば思いとどまって貰えるんじゃないだろうか。
「イスラム国」(IS)に合流し外国人戦士になってしまう前に。共感してテロを実行してしまう前に。
最初から熱狂的な信者であるとか、洗脳されたとか教化されたとか、そういう自爆テロ実行犯に思えない。
社会が混乱し、社会が分断され、猜疑心が広がって差別が増えるのがテロリストたちの狙いなのだと思う。
テロリストたちとはわかりあえない、テロ予備軍も検挙されるべきだ、理解も対話も必要ないという態度は、
テロ予備軍でない単なる無職の若者をテロ予備軍に変え、テロ予備軍だった集団の最後の一線を超えさせるように思えて仕方が無い。
犠牲者を追悼したいから、大声を出さないでくれと言っている人の映像をニュースで見た。
イスラム教徒は来るなとなじる人に、激高して大声で反論している人に対してだ。
黙れと言っているように見えた。論争は聞きたくないと言っているように見えた。
今必要なのは、不満を持つ人を、追悼するからと黙らせることじゃないと思った。
犠牲者を追悼し、国家を斉唱し、一致団結してテロに対して毅然たる態度を取る集団に、入れない人達が大勢いるように思う。
彼らの大多数は間違いなく善良な市民だし、テロリストには絶対にならないだろう。
それを止めるのは、理解じゃないか。
同質で無いから排除するというやり方では、うまくいかないのではないか。
相手の思想や信条は、テロ以外の方法で行動に移せるのだという説得は、理解から始まるのではないか。