はてなキーワード: 男色とは
じゃあ、男色の経歴は?
二次元性愛とかフィクトセクシュアルとか、何と呼ぶのかわからない人々とか、とにかく様々なマイノリティを包摂するアンブレラタームとしての「オタク」の権利
の話をしていることがご理解いただけていないようで残念です。とりわけ、私個人はフィクトセクシュアルの当事者ですので、「フィクトセクシュアルの権利」の話をしていると解釈してもらっても構わないのですが。どうやら「オタク」の定義が根本から食い違っているようです。
「オタク(あるいはフィクトセクシュアル)」のセクシュアリティが原因で逮捕・拘留されるという事案は、少なくとも海外では現実に起こっていることです。妄想でも仮定の話でもありません。事実です。
https://wired.jp/2012/03/19/manga-is-not-a-crime/
https://afee.jp/2015/12/21/6917/
https://gigazine.net/news/20201030-australia-banned-japanese-hentai/
そして日本でもそれに追従する動きが一部にあるということもまた事実です。
日本は元々「男色」のような文化に寛容でしたが、近代化にあたり「欧米を見習って」、明治5年から明治15年までの10年間、肛門性交が禁止された時期がありました。
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20150917-OYTEW55199/
その現実を写す瞳を携え、認識の母体となる小脳を懐き、クオリアの器たる大脳を宿す己の肉体をこそまず第一に穢れと信じるのだ。
故に、女の肉体を憎み、男根に夢を持ち、男色へと思いを馳せる。
穢れなき二次元の男根であろうと、それが一度女性器へと呑み込まれれば現実の体感より穢れが流れ込む。
故に、非実在のアナル、人糞を宿さず、男同士の間で新たな生命さえ宿す幻のアナルを幻視するのだ。
アナルとは尻穴にあらず。
二次元の男色とは穢れなき二次元のアナルへと穢れなき二次元の男根を滑り込ませるものなり。
薄汚い三次元男同士がクソまみれになり踊り狂う妥協と性欲を交えた狂乱とは限りなく違う。
アナルとは、非実在のBLの非実在性を裏付けるための非実在の性器なのだ。
♂の変態アニメオタクが艦これやアイマスのキャラでシコシコするときに使うような「出すはずの穴に入れるという行為により変態性の発露と抑圧された肛門期からの開放のメタファー」などとは限りなく別物なのだ。
胸を揺らすのが気持ち悪いのではない。
じゃあ、かつて「チンポをしゃぶったことのある」男はどうなったかということを、これから書いていこうと思う。
女性やゲイといった、具体例がわかない人には【大島薫】という人の人生を読んてほしい。俺は彼ではないけど、男なのにチンポをしゃぶって、しゃぶられて、彼女だけをつくって、ちんぽでアクメして、されて、女とだけと結婚して、自分の子供が欲しいし、射精と前立腺の快楽を享受したかった、ということを書く。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E8%96%AB
いきなりカミング・アウトすると、俺は「中年童貞で、益田界隈では(KKO)で結婚してはいけない、社会最下層のヘテロセクシャルなオッサン」である。それでも、かつてはバイ・セクシャルだったし、性の究極点を求めていたのだ。それが、なぜにヘテロ・セクシャルに落ち着いたのかを、つらつら書いていくことにする。今となっては、増田の「毛の生えたちんぽを舐めたい」なんて反吐が出るし、つまりはゲイ野郎も大嫌いだし、エロは「女に当然に中出し、漫画に至っては受精シーン」を要求する。それでも「中1までに男と女にセックスをして、ついでに男に掘られて前立腺刺激からの射精で気持ちよくなる」ということができなかった人生は後悔しているのだ。だから、元バイ・セクシャルの懺悔を書いていこうと思う。
ところで、俺もちんぽをしゃぶったことある。12歳ぐらいのときに、日能研に通っていた同期の男の子のペニスをしゃぶってみたんだよ。理由は思い出せないけど、受験で疲れていたからだと思う。彼はまだ毛が生えてなかった。その時は、包茎ちんぽを剥いて勃起させてハードにジュポジュポしてみて、途中で「ヤバいのがくる」からやめろって言われて、ストップさせられたから彼を精通させられなかったけどね。今となっては、もったいないことをしたと思う。当時はちょっと塩っぽい、カウパー腺の分泌液をもってして、他人のチンポってこんな感じか、と思ったものよ。いまとなっては、そこを超えれば精通させてあげれたし、他人の精液ってこんな味かと知る機会を失った。そして、増田の言うとおりチンポの感触は忘れられないのも、事実だ。
ただ、自分は当時、プラトニックな関係の彼女がいたのだ。それで、チンポをしゃぶったあとで後ろめたさはあった。ただ、匿名でこんなことを言うのはあれだけど、神に誓っても良い。チンポをしゃぶったことがあるのは、本当にこのときの1回限りだ。
そんで、中学受験の果に、中学に入って、当時はオナニーを知らなかったから、同期(♂)にオナニーの方法を「手コキされて」教えてもらって、あまつさえ別の同期(♂)に「フェラされて」抜いてもらったことある。いま思い出すと、キツネ目で女顔の中1男子に「いま、イッタでしょ?」ってニヤニヤしながら「手からドロっと滴るマイ精子をみせつけられたシーン」とか懐かしいし、そいつの無理やりシコシコする手コキは痛かったし、さらに別のヤツに「いきそう!」といった瞬間に激しくなったフェラは下手くそだったけど、おっさんとなったいま思うと、青春だったと思う。当時の「オイラのペニスはでかい」っていう噂を聞きつけて、何人かの男子にマイ・チンポを手コキかフェラで「抜いて」もらうイベントが発生した。概ね、施設か公園の多目的トイレに入って、まずはチンポをフルボッキさせるのね、お互いに。オイラのちんぽは中1で 14cm あって、しかも太くて、長さと太さで負けたことはなかった。なんだったかな、チンポはオナニーすると腹側が伸びるから、努力しろってアドバイスもらったけ?そんなこんなで、かぶと合わせしたり、触らせてー、舐めてみても良い?、となって手コキかフェラでシコシコしてもらって、オイラが射精したら、お開きというのがルーティンだったかな。そんなときに限って「あっ///」みたいな、こもった声が出ちゃうのだ。自分でシコるときには声が出ないのにね。そんなこんなで、男に手コキとフェラで抜いてもらう経験を、1年間で 6人に 10回ぐらいやってもらったのだった。
もちろん、抜いてもらった瞬間はすごく気持ちが良かったが、当然にイジメの対象になった。たしか、ちんぽデカ夫、とか言われたっけ? それで辛くて、『性』が嫌いになったよね。チンコがでかくて、ホモが近づいてくる、そんなヤバイやつというのが当時の俺の評判だった。女にも「ちんこでかいの?」「誰に抜いてもらったの?」と聞かれたっけ。どいつもこいつも「私(女)とセックスしよう」というやつはいなかったが。そんでもって、未だに童貞であるし、そのことに不満はないが、それでも後悔しているのが、男の同期にちんぽを尻穴に突っ込むか、突っ込んでもらって男色の世界を知ろうとするチャンスをロストしたことだと思う。当時は、絶頂の果てに罪悪感がマックスになっていただろうが、性欲マックスのあの頃にしかできないであろう、男のケツで射精するのはこんな感じであるとか、他人のチンポを穴に入れられると気持ちいいとか、あのときに知っておきたかった。当時は性欲でホモになるのが怖かったし、自分の子供ができるのも怖かった。エレクチオン・バトルしたあとに、自分の射精を終えたあとで「お礼に」ケツ穴を差し出せば良かったのだろうか。中高を通してヤリ目的の彼女はできそうだったが、ヤった後で振る方法がわかんなくて、デートが続かなかった。ヘテロなセックスは子供ができるのが、どうしても怖かったのだ。それに、小6のときの本当に好きだったあの娘と橋の下でキスしたあとに、無理やり押し倒してセックスをやれば脱童貞の果に、子供ができたとしても良かったのだろうか、という気持ちが「女に対する性欲」を打ち消してくれたのは、自覚的だった。俺は、今もあの娘のことが好きだ。消息は知らないし、今の俺に彼女を幸せにできる余裕はないが、彼女の笑窪はどうしても忘れられない。
中1までに性欲の向けた先の限界を知れば、のこりの中高5年間を勉強に突っ走り、その後の人生は安泰だったのかもしれなかったが、もはや KKO になってしまったので過去はどうでも良い。童貞ではあるけど、風俗店なんかに絶対に行かないのは、小6・中1のときの自分に戻って「タダで男と女にセックスできる」可能性が「自分にはあった」ので満足しているし、オッサンとなった今では「子供がほしいから女とセックスしたい」という気持ちだけが残ってしまったので、おそらく『今は』ヘテロ・セクシャルだろう。だから、増田のように「成人男子のチンポをしゃぶりたい」というのはわかんないけど、俺のような「若い頃はちんぽをシャブリ、シャブられた果に、ヘテロセクシャルなオッサンができあがるよ」というのは教えてあげたいと思ったのだ。だから、この駄文を書いている。
これからは、ヘテロ・セクシャルなおっさんが、男色に無関心となっていく理由を書いていこうと思う。今は、男性器が嫌いというか、少なくとも舐めたいとすら思わない。要は、他人のちんぽにそそられる理由が、年齢と比例して低下する根拠を書く。それなのに、相変わらずマンコは舐めたいし、ペニスでワギナに射精はしたいのだ。これはどういうことなのか?はやい話が、オッサンになったのだ、この俺が。
確かに、俺は小6のときに「毛の生えていない包茎ちんぽを無理やり剥いてフェラして、あと少しで射精できただろうという経験」は忘れられないが、今は全然に興味が無い。少なくとも、無料で、無罪で、日本がアフガンみたいな世界になっても「絶対にしない」と思う。なんというか、「あのときに」新品のチンポを舐めたという記憶が、性体験として自分の中では至高であっても、「ガキのチンポ?、全く興味ないよ」って言える。何故か?
たとえば、覚醒剤中毒者が「至高のエクスタシー」を知っているかもしれない。俺も、若いときには「それを知ってみたかった」のだ。だって、これだけ批判されるのに、彼らは消えないからね。ただし、逮捕は嫌だったから絶対に手を出さなかったが。でも、アナルなら逮捕されないらしいので、試してみることにした。芸能人にホモだから追放された人は、少ないからね。
それで、結果として、ゲイの連中も覚醒剤中毒者が主張するような、前立腺という「肛門性交は中毒性があって、ノンケであってもハマるし、知ってしまえばマンコはアナルに劣る」という主張が、無理だったことに気がついちゃったのよ。主に2つの理由で。
ひとつめの理由は、ホモになる努力、たとえば前立腺で絶頂することに投資してみたけど、巷で言われるほど気持ち良い体験が得られなかったのだ。デイルドーで突いてみたけど、ウンコと血が混じったものが出てきて、そりゃゲイは HIV にかかるわー、とすら思った。そして、受け側のゲイでも全員が肛門性交で絶頂できていないことが 5-MeO-DIPT という「ホモ御用達」の薬物が違法化された事件で明らかになった。つまり、被挿入されるゲイの連中は、実は全員が絶頂できていないことに、俺は衝撃を受けたのだ。ホモは嘘つき、ってね。
ふたつめの根拠は、俺はどう頑張ってもマンコが大好き人間で、マンコが気持ちいいだけでなく、次世代を生み出す「ゲイには絶対に提供できない」偉大さに気がついてしまったのだ。マンコは偉大。なんと言っても、男の俺が持ち得ない子どもを提供してくれるからだ。どうしても、ホモは妊娠できないからね。
まぁ、なんだ、自分が「ホモでは無い」ことは死ぬまでわからんと思うよ。俺もわかないし。俺も「ちんぽを舐めたい」と思ったのは、小6から中1までだもん。個人的には、冒頭のように「誰かを射精させて、精子を飲んでみたかった」時期がありました、ってことは事実だし、実際にやった過去はありました。今はヘテロ・セクシャルを自覚してるし、当時はチンポを舐めると「歓んでくれる」人が周りにいただけで、本当は「チンポが好きじゃなかった」ということに今はしている。それに、俺には、もう「チンポを舐めると歓ぶ」人がいないだよ。なぜかというと、俺はオッサンになって、もうチンポを舐める価値があると思える人は、誰かのものになってしまって、奪うと確実に「恨まれちゃう」年齢になってしまったのだ。それで、おっさんになった俺が「こいつのチンポをしゃぶりたい!」ってヤツと、俺に「こいつならチンポをしゃぶらせよう!」ってやつもいなくなったのよ。つまり、バイ・セクシャルの「男☓男」「女☓男」は、前者の方が早期にマッチしなくなるのだと気がついたのは、おっさんになってからでした。あ~あ。
というわけで、おっさんからみたら、「マンコ」が好きな男は、若いうちは「チンポ」が好きでも問題ない。そんでもって、おっさんになっても超越した性的経験で「オーバーライドされて、ホモセクシャル化」されることは、すくなくとも俺はなかったし、ネットではみかけないし、大丈夫なんじゃないかと思う。仮にホモになっても、子供がほしけりゃ、精巣に注射して、静止を取りだして顕微鏡で受精卵を作って、子宮に戻せば良いだけだ。ただし、産んでくれる相手がいたらな。
... 以上、つらつらとオッサンの後悔を書いてきたわけだが、結語として「もし俺が小6に戻れたとしたら、どう生きるか?」ということを書く。まぁ、そりゃ、小6のときにコンドームを薬局の自販機で手に入れて、あの日に橋の下でキスした後に好きだったあの娘を押し倒してセックス漬けの日々を過ごし、それと同時に塾では「浮気して」チンポを貪り食い、中学に入ったら小学校の関係を捨て、更にはアナルでイクことを教えてもらって、中高大はマンコするだけの彼女をつくってヤりたい時にマンコしつつ、その一方で発展場でアナルの皆楽を貪り、資格をとって社会的に安定を獲得し、ちょうど『バイ』な性欲が両立できなくなった頃に「子供がほしいから」という理由で『ヘテロ』セクシャルに転換し、若くて美人で貞淑な女性を娶る、って人生になったわけだ。それは、それで地獄だな、って書いていて思う。そして、そんなことしてたら愛の無い子供をつくるか、H*V 拡散者になってただろうから、しなくて KKO と言われても全く恥ずかしくない。でも、いま小6に戻れたら「男に与えられた、前立腺の歓び」と「男に与えられた、射精の悦び」と「男に与えられた、孕ませる喜び」の3つを全力で獲得しにいく。絶対にだ。
結論。男においては「男好き」と「女好き」は両立する。それに、「男好き」の対義語は「女好き」ではない。それだけは、理解してほしい。あとは、自分で考えろ。そして、後悔しない行動をとれ。なんと言っても、時間は巻き戻せない。
自分は男性で異性愛者とされているけれど、男性を決して愛せないかと言われたら、そんなことはない気がしています。
これまで人生で強烈に憧れた男性や、(友人として)好きでたまらない男性はいました。彼らへの愛が恋愛ではなかったか、恋愛として成立しなかったか、あるいは進行しえなかったかと言われると、自信をもって違うとは答えられません。
自分が異性愛者なのは、まず生物的に男女の間でしか子作りができないというのがあって、その上に社会的な多数派というのがあって、無意識に男女片方を選ぶなら女性、というのがデフォルト化してるだけのような気もします。他の異性愛者もだいたいそうだと思っています。
とりあえず異性愛者であると仮に置いておいて、それに違和感のない間は異性愛者、あれ?自分はなんか違うなって思ったら同性愛者かもって初めて考える。みたいな。
でもそのなんか違うなってのは人を好きになってみないとわからなくないですか?
仮に、
として、
というのが合わさると、自然と人は異性愛者になると思うんです。同性愛は自認しづらく、異性愛はそれが恋愛だと認識しやすいという点において。
でも結局誰を好きになったかじゃないんですか?
異性愛者だって異性なら誰でも好きになるわけじゃないし、同性愛者も同性ならだれでも愛するわけじゃない。
じゃあ相手が異性か同性かじゃなくて、特定の誰々愛者だという話に過ぎないのでは?
じゃあたまたま歳上を好きになった人は歳上愛者と呼ばれるのでしょうか。なんかそういう違和感をいだきます。
男色に夢中だった過去の偉人だって普通に妻がいますよね。どっちも愛せるというのがそう珍しいことじゃなかったのではないかと思うんです。
で、トランスジェンダー。これが最もわかりません。トランスジェンダーの定義ってなんですか?性愛対象の話とは切り離されているので、自分が男だ女だってのはそれ以外の何かで認識するんですよね。
でもそれって具体的に何で認識するんですか?
自分は男性ですが、自ら自分を男だと確信したことなんてありません。
いやお前は身体は男でも心は女だよ、女々しいから。とか適当なこと言われたら、そうかな、肯定も否定もできないな、としか言えない気がします。
基本的には女性を愛しますが、それって関係ない話ですからね。トランスジェンダー・レズビアンかもしれないので。お前の恋愛対象は異性だからトランスジェンダーじゃないだろっていう反論は成立しえません。
で、男性である私が心まで男性であると強く確信することができないのに、トランスジェンダーの方は自分の心の性別というのをどうして強く確信することができているのか、何の根拠を得ることでそう思えるに至ったのか不思議でなりません。
記事とか体験談を読むとたとえばトランスジェンダー女性なら「ピンクが好きだった」とか「スカートが履きたかった」とかで自認に至る人が多いようなのですが、それこそ不思議なのです。それが「ピンクを好きなだけの男性」「スカートを履きたいだけの男性」とどう違うのかをこそ教えて欲しいのです。
服装というのは文化の産物に他ならないと思います。スカートが男性の衣装である国だって実際あります。ピンクが男性の象徴に当てはめられる文化だって(実際あるかは知りませんが)あっておかしくないでしょう。
そういう国では彼らはどうなるのでしょう。その国では逆に「男性の衣装であるスカートに違和感があり、だから、自分は女性だ」という風になるのでしょうか。
異性装という言葉があります。異性装を好む人はトランスジェンダーとは限りません。要するに服装の話もやはり心の性別の話とは切り離されているということです。
それならば結局、心の性別とは何なのですか?煽りじゃなくて教えてほしいのです。
自分はあくまで今のところですが、心に性別はないと思っています。そして、誰もが誰もを好きになりうると思っています。だからLGBTがよくわかりません。LもGもBもTもよくわかりません。どれも普通の人間で私と何一つ違うところはないと思っています。