はてなキーワード: 野麦峠とは
イエズス会による侵略を察知した日本は鎖国へ向かう。西洋人たちは地球を破壊しながら技術力を付け、ついに日本を開国させる。日本人の知的水準の高さや、労働者としての素質を知っていた彼らは、植民化する代わりに、富国強兵殖産興業によって日本から利益を得ることを選ぶ(野麦峠、蟹工船、足尾銅山の公害などをもたらしたのは西洋人)。日露戦争の勝利もまた国際金融家たちの胸先三寸で決まったこと。支那事変(日中戦争)では、国民党に資金を提供して戦いを長引かせることで利益を得、真珠湾には使い古しの戦艦を再配備してほとんど実質的な損害なしに、日本を叩けという世論を盛り上げる、実際の歴史を知ってみれば、西洋人たちのやり方は、まさに「汚い」の一言。それにも関らず、学校教育とマスコミは真実を見えなくさせ、日本人に罪悪感を植え付ける。
ついでにいえば、法による支配は、国際金融家たちの都合に合わせてできている。そのせいで、私たちは私たちの土地を守ることを違法とされ、(外資系)企業による開発活動を否応なく受け入れさせられている。そんな世界に順応させるのが、このスレの学校のような場所なのだ。
何もしない、が正解。
なんてしたら、自殺者や暴動が増加するだろ。当時は自決なんて文化が残っているんだから。
危機管理時に、エジプトのような暴動を起こさないためにも、ストレスのはけ口としての、わかりやすい敵は必要だし、
憎しみを外に向けさせる行為としての竹槍は必要。
増田は敗戦ムード一色で暴動が起きるかも知れません。自害が起きるかも知れません。って言われて、部下に 何もしないが正解。なんて言うの?
2つの論点を同時に扱うと、どんな問題も解決困難になるよ。
ここは、現実なので、政治の話題になった場合は、もともと税金は政治の話題だし
ありとあらゆる議論を同時にして、最も多くの問題を解決できて、もっとも副作用の少ない方法をとるというのが常道であって
そのためには、いくつかの議論に取っては、よくない解決方法もとらなくてはいけない。(そしてその問題には、補助的案を出すが、主たる案に取っては最悪の選択も許容する。)
1つだけに絞って、それに対する最適解を選択する。というのは、机上の空論で当て現実的な議論ではない。
で、その、ありとあらゆる問題を同時に解決していくから、上に立つというのは大変だ。能力がいるという話になって
政治家が心労で死んだりするんだろ。
「消えるような役立ち方も、集めればそれなりになるはず…」という幻想が、管理する側の現実逃避的を生み、消えるような役立ち方をさせられる側の労力をドブに捨てさせることになる。
わかり易い例で言えば、製薬会社の物の作り方。何万通りも薬を作って、できるのは1つだけ。莫大な消えるような役立ち方の上に成り立つものなんだよね。
だから、労力をドブに捨てさせることは必ずしも、マクロ視点では悪ではない。そして政治の話はマクロ視点なのでこれは悪ではない。
国家運営の視点でといってるのは増田も同じなんだから、個人の努力がドブにすてられるなどというミクロ視点は捨てて欲しい。
個人の視点というミクロ視点にたってもいいが、そしたら今度は、税金の話など国家元首視点は捨てて欲しい。
増田がお嫌いな日本の敗戦だって、結果として今の日本に繋がっている。戦わなければ、植民地になっていたかもわからんわけだ。こればっかりはわからない。
しかし、不幸な結果を含めて、今現在を作ってきたのは過去の人達であり、すくなくともGDP2位というのは誇れる結果の1つではある。
野麦峠なんかもふくめて、不幸な事例はあるので、ミクロ視点で見れば成功かどうかは言えないが
マクロ視点で見れば、すくなくとも現時点では成功なんだよね。日本の政策は。
これについては、同意するけど。
「消えるような役立ち方も、集めればそれなりになるはず…」という幻想 については、さっきも言ったようにマクロ視点では、モラル管理も重要だし
実際問題 計画的に消えるような役立ち方 を集めればそれは有効だし
ぶっちゃけ、FaceBookのように偶然芽が出ることもよくあるしねぇ。
幻想が現実逃避的を生む、こともあるだろうが、 成功を生むことも歴史上の事実として存在している。
それこそ、増田の大好きな戦略・戦術でいえば、 個人がどうなろうとも、全体を生かすのが戦略であって、個人を活かすのが戦術。
当然、戦略の中には、無駄に見えることをさせる。というのも含まれているし、実際無駄に終わることもある。しかし、それが戦略的に無駄かどうか?というのは個人視点とは別。
そもそも、戦略というものは、完全な戦略はなく、一定数の無駄は出る物。間違いも起こす物。間違っても次に直せばいいという物だから、一定数の個人の犠牲は発生する。
発生することを吉とするのではなく、それは0にしたいけど、0にはならん。
というわけでも、もし増田が国家元首目線ならば、そういう戦略の苦しさはよく理解しているはずなんで、労力が無駄になるとか、ならないとか、そういうミクロな事は言い出さないはずだ。
現時点で、いいか悪いかはおいておいても、前に進んでいる部分もある。
犠牲が出ながらも、前に進んでいるならば、すくなくとも失敗とはいいずらいよ。戦略的には。
世の中には、もっとひどい国がいくらでもあるなんて、当たり前の事例言うまでもないだろうし。増田には。
いや、欲しければ買えばいいと思うが?
欲しくて買っても5万ぐらいなんだから、悲観することもないだろって話をもともとしているわけで。
昔はよかったとかいう人もいるけど、昔だって野麦峠もあれば、炭鉱で死ぬ人もいたし、ついバブル期を含め最近まででも、ずっと高卒で肉体労働コースで事故して・・・という生活をしているひとがいないととでも思ってるのだろうか?
というか、ベクトルがオカシイって話だよ。
なんで、XXを買うぞってのがモチベーションになっているのかと。いや、わかるんだけど。
XXを作るぞ ってのが、本来のモチベーションだと思うんだよね。
それこそ、ビルを作るぞでも、作品作るぞでも、あたらしい食品を作るぞ、薬を作るぞ、なんでもいいけど、
もともと仕事って その仕事がしたい、先生になりたい、消防士になりたい、芸術家になりたい、という仕事について、その仕事をすることそのものがモチベーションなのに
仕事で金をもらって、何かを買うことがモチベーションじゃ、そら、続かねぇなぁと
まぁ、いいんだけどさぁ、昨今の買いたいものがないっては、物がないわけで、やっぱり、そういう作り手としてのモチベーションが無い人が多い社会なんだからじゃないかみたいなことは、たまに思うわけだよ。
というわけで、元に戻って、あんまり、何を買うのか?というベクターじゃなくて、自分が何を作りたいのか?というベクターで選んで、そこでお金稼いで、余暇として物を買えばいいと思うんだよね。金を稼ぐために働くから、モチベーションが下がるし、伸びないから収入も下がるんだろうと
32インチの液晶テレビが5万で買えるこの時代に、金がそんなにいるのか?
昔
http://utatane-sugi.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300228758-1
今
http://jukenkan.com/modules/zox/index.php?main_page=popup_image&pID=534&PHPSESSID=87e85f4f2e18f113080a6b7df09748af
技術革新ナメんなよと
昔より良い物が昔より安いんだよ。
給料の額面じゃなくて、1万円で何ができるかを考えろよ。どんだけ、20年でどんだけ進歩したと思ってるんだ。
昔の100万より、今の10万ってのがゴロゴロしてんだぞ?
それとも 給料の水準が40代になるかわりに、昭和の時代で生きてみるか? 結構、アレだぞ?携帯電話とかねーぞ?テレビも一家に一台だぞ?いいのか?それで。
自分で解決しようと思ってできるなら、野麦峠は起きていないと思うし・・・
昔は、自分で解決できない=死亡だったりしたわけじゃん。労災とかで。
そう考えると、今の、中高年と言うのは、偶然自分でなんとか出来て生き残った組。
だから、それを実力と勘違いして、今の若いヤツラはっていうけど、実際、自分たちがリストラされてなんとかなるのか?っていわれると・・・自殺したりしてるわけで。
まぁ、今の中高年や大人達が、自分で解決しようと思ってできてたのは、さらなる大人たちの力や偶然である可能性が高くて
今の 子どもたちが自分で解決しようと思ってできてないのは、要するに、大人たちが悪いってワケで・・・
怒ったりするのは筋違いなんだよね・・・
野麦峠にしろ、上野の大火災(工員達が避難を禁止されたために、一酸化炭素中毒死、熱による焼き殺しの目にあって退寮に死亡した)などの、工場労働者の悲惨な環境というのは良く聞きます。
次に、農村は当時、戦後の農地改革によって、土地が小作人に分配されたために、それよりも以前と比べると、楽になった(もちろん絶対的には過酷な状況)という認識しかありません。
もちろん、口減らしによる人売り・人買いがあり、野麦峠にしろ、上野の大火災が起きたことは認識しています。
その2つが前提で、
金の卵というの単語が、優秀な人に付けられた標語であったか、単に単純労働者を騙すための詐称であったか。という使い分けについては
後者であったと思います。農村が苦しく人減らしで売られてきて、過酷な労働に従事する。どうみても、人買いの世界であって、優秀な人に高い給料を支払って才能を育てる。
という世界であったとは思いません。
なので、おっしゃられていることは、金の卵が単純労働者、過酷な労働者を指す言葉であって。儲かるのはそれを取得した、オーナーである。というのを補強こそすれ。反論ではないと思います。
金の卵は、オーナーから見てカネになる卵だ。というのが、当時の上流階級というか、経営層の認識であった。というのは、おかしくないと思いますが。いかがでしょうか?
※そして、それは、現在の一部の転職市場や、一部の日雇い労働市場にも同じような、うわべはいいけど、中身は違う。というケースが存在しているように見えています。
野麦峠が過酷な労働の例としてよく出されるが当時は農村のほうがもっときつかったから工場のほうがマシだったという時代背景はスルーしちゃだめと思う。
そもそも、金の卵という単語は、
当時の新聞などが付けた単語。
使い方としては、優秀な人材のこと=金(きん)の卵とおだてていたが、
実際は、工場労働者で野麦峠で想像されるような過酷な労働だった。
ガチョウではなく、卵の方。という所から皮肉を感じ取って欲しいのと。
戦後当時の上野に上京してきた、労働者が実際は過酷な労働だったという時代背景を察した上で、
当時の金の卵という単語が、いわゆる誇大広告だった(まさに、人買いのだまし文句だったという暗喩)。という事を感じて欲しいのだが?
確かに、優秀な若者もいただだろうが。大多数は野麦峠ほどではないものの、過酷な労働だったはずだし、いろんな人権問題がおきていたはずだけど?