本物ってどこにあるんだろう。
いい例が音だ。
本物の音ってどこで聞けるのだろう。
ギターの弦が弾かれた音ひとつとっても、アンプを通したりパソコンで加工したり、生演奏だって言っても雑音が混じってしまっては首を傾げてしまう。
良い音ってなんなんだろう。人が心地よく感じるものって何なんだろう。
加工された純粋じゃないものに触れてより良く感じるのだとしたら。
味。調味料にしてもそうだ。その果物が使われているわけじゃないのに、その風味を好む。
ともすれば、初めて純粋なものに触れたとき味気なく感じるかもしれない。
加工された現実で生きる感性は麻痺しているのかしら。その麻痺はもう二度ととかれないかもしれないのだけれど、それってどうなんだろう。
良い悪いじゃなくて、少しもやもやする。本当に、ほんの少しだけ。
錯覚し続けることが生きること。加工された心地よさに酔っていれば、どんな姿をしているともわからない純粋なものを知らなくて済む。
でも、純粋なものってなんだ。純粋な味ってなんだ。純粋な音ってなんだ。純粋な光景ってなんだ。
純粋って幻想なのか。純粋ってあやふやなものなのか。振れ幅が大きな純粋と加工されたものとの境界はどこにあるんだ。知らされていない状況で判別は可能なのか。
自己満足とか自己判断とか自己決定とか、そんなものでしか結局物事を感じ取れない。
感じ取った物事が誰かの感じ取った物事と合致しているのかわからない。
わたしは正解を当てたのか。不正解を引いたのか。
言葉はうそをつくので信用できない。言葉は記号なので、それ自体から得られるものは結局自己判断になる。
どうして数式は正しい答えがあるんだろう。数式ってすごい。改めてそう思う。
たぶん、数字はその記号世界だけで完結しているんだ。すごく正しくて不正のない存在なのだ。
珍しいと思う。でも、もしかしたらそれはそうであるものとして作り出されたからなのかもしれないけれど。
作り出されたもの、そうであるとものとして生み出されたものに疑問を持つことは愚かなんだろうと思う。
でも、すでにそうあったもがどうしてそのようにしてあるのか考えるのであればわくわくする。
わくわくしていられれば、それで十分なのだろう。
いや、十分てことはないのかもしれない。おそらく十分条件足りえる事柄なんてないのだろう。