はてなキーワード: 小谷とは
これまた炎上に火を注ぐだけのまとめブログ並みに誤解を煽る文章。ちゃんと裁判で山形浩生が負けて小谷側が勝訴したとまで書きなさいよ。
そんなテクスチュアル・ハラスメント裁判なんて言われても知らんよという人のためにざっと説明すると、評論家兼翻訳家兼野村総研研究員である山形浩生氏が97年に出版された『オルタカルチャー 日本語版』の中で
そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、ペンネームなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい (名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
これだと裁判仕掛けたほうを馬鹿にする文章だが、そんなことはない。裁判になる前に何の対応も取らなかった山形浩生が馬鹿なだけ。
あと大森望がSF作家クラブに入れないってのは、東野圭吾が直木賞に落選し続けたみたいなのと同じような「ネタ」でしょ。何かマジギレしてる外野が多くて引く。
これまた炎上に火を注ぐだけのまとめブログ並みに誤解を煽る文章。ちゃんと裁判で山形浩生が負けて小谷側が勝訴したとまで書きなさいよ。
そんなテクスチュアル・ハラスメント裁判なんて言われても知らんよという人のためにざっと説明すると、評論家兼翻訳家兼野村総研研究員である山形浩生氏が97年に出版された『オルタカルチャー 日本語版』の中で
そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、ペンネームなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい (名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
これだと裁判仕掛けたほうを馬鹿にする文章だが、そんなことはない。裁判になる前に何の対応も取らなかった山形浩生が馬鹿なだけ。
SFをもっと楽しむための科学ノンフィクションはこれだ! http://d.hatena.ne.jp/huyukiitoichi/20140417/1397744529 を受けて10冊選んでみました。
「『現実とはなにか』という認識が変わっていく」ような本はありません。
ヨーロッパにおける完全言語を求める歴史を扱った『完全言語の探求』と多くのプログラミング言語設計者へのインタビューをまとめた『言語設計者たちが考えること』は、あまり読者が重なっていない気がしますが、円城塔をきっかけにして両方読んでみるのもいいのではないでしょうか。
「つぎの著者につづく」(『オブ・ザ・ベースボール』収録)の冒頭で語られるエピソードが『完全言語の探求』から引いたものであることは単行本収録時に追加された注で明示されていますし、「道化師の蝶」に出てくる無活用ラテン語についても『探求』で触れられています。
一方『言語設計者たちが考えること』については、読書メーターで「小説を書く人も読むと良い」(2010年12月10日)とコメントしていて、『本の雑誌』の連載でも取り上げています(2011年11月「言葉を作る人たち」)。また『本の雑誌』の連載では『言語設計者たち』以外にも時々プログラミング言語や言語処理についての本が取り上げられています。
最近連載のはじまった「プロローグ」(『文學界』掲載)も今のところ、より望ましい文字の扱いや処理についての話をしているので、いささか強引な解釈ですが『完全言語の探求』『言語設計者たちが考えること』と繋がっている小説です。
ロシア語作家として出発しアメリカ亡命後に英語作家に転身したナボコフは、自分自身の書いた文章を別の言語に翻訳する「自己翻訳」を相当数おこなっていますが、それを主題とした評論書です。
円城塔本人も語っていますが、「道化師の蝶」ではナボコフがモチーフとして使われています。友幸友幸が「希代の多言語作家」であることもナボコフへの参照のひとつでしょう(若島正は『乱視読者の新冒険』のなかでナボコフを「稀代の多言語作家」と形容しています)。その希代の多言語作家の「わたし」とそれを翻訳する「わたし」が重なるようで重ならない「道化師の蝶」の筋立てにも、同じ作品について作者と翻訳者の両方の役割を演じたナボコフの影が見出せます。また「道化師の蝶」の姉妹編といえる「松ノ枝の記」での、相互翻訳・相互創作する2人の作家という設定も「自己翻訳」の変奏と見ることができるでしょう。こうした創作と翻訳の交錯する2編を再読する上でも、この評論書が良い補助線になるのでは。
読書メーターのコメントは「素晴らしい」(2011年4月28日)。
最初期に書かれた『Self-Reference ENGINE』や「オブ・ザ・ベースボール」「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」(『虚構機関』収録)などに顕著ですが、円城塔の小説には、掌編の積み重ね(積み重ならず?)によって全体の物語が作られるという構造がよく現れます。これは辞典を順番に読んでいく感覚とちょっと似ているかもしれません。『数学入門辞典』を読んでいると、たとえあまり数学に詳しくなくても、円城塔の小説に対してしばしば言われる「よく分からないけど面白い」という感覚を味わえると思います。ただし、円城塔の小説に出てくる数学用語がこの辞書に出てくるなどと期待してはいけません。
「一家に一冊」だそうです。 https://twitter.com/rikoushonotana/status/402707462370758656/photo/1
円城塔の小説には数学者やそれに準ずる人が多く登場しますが、『史談』は数学者を語った本として真っ先に名前のあがる定番の名著です。著者は類体論を確立したことあるいは解析概論の著者として知られる高木貞治。かの谷山豊はこの本を読んで数学者を志したそうです。
数学部分については河田敬義『ガウスの楕円関数論 高木貞治先生著"近世数学史談"より』という講義録があるくらいには難しいので適当に飛ばしましょう。
『考える人』2009年夏号 特集「日本の科学者100人100冊」で円城塔が選んでいたのが高木貞治とこの本でした。
ムーンシャイン現象は、『超弦領域』収録の「ムーンシャイン」の題材で、他に「ガーベジコレクション」(『後藤さんのこと』収録)にも単語だけですがモンスター群とコンウェイが出てきます(コンウェイは「烏有此譚」の注にも言及あり)。作品内に数学的ホラ話といった雰囲気がしばしばあらわれる円城塔にとって「怪物的戯言(モンスタラス・ムーンシャイン)」はいかにもな題材かもしれません。
ムーンシャインを扱った一般向けの本というとたぶん最初に『シンメトリーとモンスター』が挙がるのですが翻訳が読みにくいし『シンメトリーの地図帳』にはあまり説明がなかった気がするので、この『群論』を挙げます。
数学の専門書ですが、第4章「有限単純群の分類/Monsterとmoonshine」は読み物風の書き方になっています。ただし詳しい説明なしでどんどん話が進んでいくところも多く、きちんと理解するのは無理です(無理でした)。
第4章を書いている原田耕一郎はモンスター群の誕生にも関わりが深い人で、多くの文章でモンスターとムーンシャインについて触れているので、雑誌などを探せば難度的にもっと易しい文章が見つかるかもしれません。
円城塔の小説には「オブ・ザ・ベースボール」のように確率についての言及もよく見られます。『数学セミナー』『数学のたのしみ』『科学』等で高橋陽一郎が書いた確率論についての諸入門解説記事、は探すのが面倒だと思われるので、もっと入手しやすいこの本を。
確率微分方程式で有名な伊藤清のエッセイ集です。「確率」より「数学者」の項に置くのがふさわしい本ですが確率の本として挙げます。
読書メーターのコメントは「素晴らしい」(2010年10月24日)。
やはり専門が力学系ということもあり、力学系関連もしばしば登場します。
本のタイトルを見て「力学系と力学は違う」と指摘されそうですが、副題は「カオスと安定性をめぐる人物史」。力学系の歴史に関する本です。実のところどんな内容だったか覚えていないのですが、「いわゆるこの方程式に関するそれらの性質について」(単行本未収録)で引用文献に挙がっているから大丈夫でしょう。
『Nova 1』収録の「Beaver Weaver」をはじめ、ロジック(数学基礎論)関連も円城塔の小説に頻出する素材です。
とりわけ計算可能性、ランダム性、busy beaver、コルモゴロフ複雑性……とあげてみると、まずはチャイティンの諸作が思い浮かびますが、あれはむやみに勧めていいタイプの本なのかちょっと疑問なので避けます。読書メーターでは、最近出た『ダーウィンを数学で証明する』に対して「 チャイティンのチャイティンによるチャイティンのためのいつものチャイティン」(2014年3月20日)とコメントしています。
これという本が思い浮かばなかったので、いくらかためらいながらもこの本を挙げました。『メタマジック・ゲーム』か、あるいはヒネリも何もなく『ゲーデル・エッシャー・バッハ』でよかったのかもしれません。ただ『ゲーデル・エッシャー・バッハ』だけを読んでもほぼまちがいなく不完全性定理は理解できないということはもっと周知されるべきじゃないかと思います。
円城塔はこの本について「すごかった。(但し、かなりハード。)」(2011年3月27日)とコメントし、『本の雑誌』でも取り上げています(2012年10月「ゲーデルさんごめんなさい」)。
初心者向きの本ではありませんが、不完全性定理について一席ぶつ前に読んでおくといいでしょう。
『天体力学のパイオニアたち』が上下巻なので、以上で10冊になります。
別にノンフィクションを読まなくてもフィクションを楽しむことはできますが、ノンフィクションを読むことによって得られるフィクションの楽しみというのもまた楽しいんじゃないでしょうか。
追記: 小谷元子編『数学者が読んでいる本ってどんな本』に寄稿している13人のうちのひとりが円城塔なので、そちらも参照してみるとよいと思います。リストに挙げられている約50冊の本のうち半分くらいがノンフィクションです。上に挙げた本とかぶっていたのは『数学入門辞典』『天体力学のパイオニアたち』『ゲーデルの定理 利用と誤用の不完全ガイド』でした。また、はてブのコメントで言及のあったイエイツ『記憶術』もリストに入ってました。
煙草って嗜好品なわけでしょ。 吸うと気持ちよくなったり気持ちが落ち着いたりする。
そうでなくても、とにかく吸わないと落ち着かなくてイライラする。そういうものなんだろ。
すると気持ちいいし、しないとイライラ。 しかし人のいるところでやると迷惑かかる。と共通点が多い。
・常にしないと気がすまないため、路上でも人前でも憚らずにオナニーをするものがでてくる
特急などの長時間乗車を要するものは、オナニストに配慮しオナニー席が作られる
・ファミレスに入ると、ウェイトレスに「オナニー席とオナ禁席がございますが?」と聞かれる
・日中、オナニーが我慢できないもののために駅にはオナニーエリアが作られる
・オナニーが周囲の人間に与える影響を考慮し、職場や公共施設内では原則オナニー禁止
配慮されオナニー室が作られる。我慢できなくなったオナニストはここで一抜きする
・歩きオナニーが問題に。ザーメンの飛ぶ高さはちょうど子供の目の高さ
・オナニー後のティッシュをポイ捨てする者が続出。街には吸殻と同じだけのザーメンティッシュが転がる
ポイ捨て防止のために携帯用オナホールと携帯用ザーメンティッシュ入れを推奨
・オナニー喫茶ではオナニー愛好家らが各自オナニーしながら会話を楽しむ
・オナニー中毒患者のためにオナニー中毒離脱診療が健康保険適応に
・「だが私にオナ禁しろと言うのは、死ねと言う事」オナ禁の病室で愛姫県知事がオナニー
・杉村大蔵議員が「臭い、汚い、気持ち悪い」の「オナニー3K」発言
これに対してヘビーオナニストの小谷廼敦氏(43)が「差別だ、精神的に傷つけられた」と損害賠償請求
・「俺、もう2年も抜いてないぜ」
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
同じクラスに居たと思われるのを見るだけの、ただの自分的メモ。
入学年(生年)
1987(71-72) 筒井道隆
1989(73-74) 稲垣吾郎 赤坂晃 佐藤アツヒロ 深津絵里 高橋由美子 桜井幸子 夏川りみ
1990(74-75) 草彅 剛
1992(76-77) 松岡昌宏
1993(77-78) 市川海老蔵 ゆってぃ 伊嵜充則 松たか子
1995(79-80) 堂本剛 ともさかりえ 佐藤仁美 山口沙也加 水樹奈々
1996(80-81) 岡田准一 山崎裕太 高橋一生 野波麻帆
1997(81-82) 中村勘太郎 金子ノブアキ 徳山秀典 安達祐実 佐藤江梨子
1998(82-83) 深田恭子 加藤あい 藤原竜也(中退) 塚本高史(中退)
1999(83-84) 松本潤 中村七之助 水川あさみ 平山あや 松田龍平(中退)
2000(84-85) 生田斗真 尾上松也 郭智博 綾瀬はるか
2001(85-86) 城田優 小池徹平 山下智久 田中聖 長谷川純 北山宏光 小谷幸弘 蒼井優 大塚ちひろ 上戸彩(中退)
2004(88-89) 石黒英雄 植原卓也 中山麻聖 藤田玲 小柳友 戸田惠梨香 多岐川華子 TAKA(中退)
2005(89-90) 薮宏太 柳楽優弥 栩原楽人 青柳塁斗 若葉竜也 黒川智花 小林涼子 林丹丹
2006(90-91) 三浦春馬 戸谷公人 八乙女光 福田沙紀 蓮佛美沙子 尾高杏奈
2007(91-92) 有岡大貴
2008(92-93) 永嶋柊吾 忽那汐里