はてなキーワード: ヒューリスティクスとは
顔つきというしょーもないヒューリスティクスに頼る猿
この度はてなーを一網打尽にし大漁旗を掲げるに至った無職中年男さんになんだかシンパシーを感じたので、まともな返事を出来ない自称リベラルのみんなに代わって、あなたが感じた問題を整理してみたいと思うよ😀
そう、経緯はどうあれあなたが「他人から言葉をかけられ唖然とした」ことは事実であり、これを否定されるいわれは一切ないよ😀
下ネタや下心を匂わせるようなことは一度も言わなかった。
自分の話す内容の客観視を心掛けて気遣いができるのは素晴らしいと思うよ😀(あくまで主観なので本当に正確なところはわからないが)
私は今まで、みゆさんのような若くてきれいな女性は貴族で、自分は貧民であるかのように思っていた。(中略)私は劣等感など感じることはなかったのだ。
そう、外見がいくらきれいで立派な人でもみんな、万人に対して完璧な回答をできるわけではないよ😀 今まで欠けていた学びを得られてよかったね😀
万人に対して完璧な回答ができることを"中身"と呼んでしまうのはいささか人間へのハードルが高いかも😀
あなたも含め、たいていの人間は自覚していないだけでしょっちゅう不用意な発言をして人を傷つけているよ😀
またここでの「若くてきれいな女性」という表現は反発を生みやすいかもね😀
男の性として女性に目が行きがちで、それを中心とした思考になっていたのは仕方ないけれど、みゆさんとの体験からもう少し一般化して性別の区分けを省いたほうが「女性全体を貶められたように感じる人たち」や「男性全体が意図的に排除されたように感じる人たち」からの不用意な反発を生まなくて済むよ😀
これ自体はとてもいい試みだと感じるよ😀 ただそれ以降に問題があるよ😀
ただあなたは自分が求めた「客観的な視点」から出た言葉を一度も受け入れることなく否定しているよ😀
共感と肯定のみが欲しいならはじめにそういうオプションをつけるべきだったね😀
共感と肯定のコミュニケーションはネットでは叩かれがちだけど、人間の心を維持するうえでとても大事な要素だし、何も恥ずかしがることはないよ😀
先に述べたように、客観的に見た結果少なからずその意図をもって発言した可能性が高いと思うよ😀
ゆみさんが「社会生活送れてなさそう」という言葉が人を傷つけてしまうかもしれない、と判断できなかったのは確かにゆみさんの落ち度だね😀
でも、ゆみさんが病気で無職なあなたが社会復帰できるような道筋を真摯に考え、自分の経験からアドバイスしてくれた、ということは事実だと思うから、そこにもう少し目を向けていけるといいね😀
え? えーと……。確かに出歩いている距離は人それぞれだ。でも複数の人がいる中で一番長く出歩いたのが私だなんて、確率的にほとんどあり得ない。
確かに、ここでゆみさんが提示したやり取りは少し高度なものになってしまっているかも😀
ゆみさんが伝えたいのは「体力がなくても工場労働できるよ」ということであって、あなたが重視する「自分の定量的な体力はお年寄りより有意に低い」という仮説への反論ではないよ😀
あなたの言う通り「ほかの人は歩いた距離が少ないのかも」という仮説は少し無理があって、もっといい例を思いつかなかったのはみゆさんの落ち度だけれど、すぐに良いたとえが浮かばないことってみんなあるよね😀
だからあなたがすべきだったことは、ゆみさんのことばを文字通りの"自分の仮説への反例"とは受け取らず、「なんか励ましてくれてるんだな」とおおまかに考えることだったんだよ😀
こう説明するとかなり高度なやり取りに見えるかもしれないけど、意外と多くの人がこなしてしまっているよ😀 不文律はクソだけど、多少は適応できたほうが便利かもね😀
そんなこと言ってないのに~~~
なんで年代で態度が変わるんだろう? って言ってるのに~
上記の応用編だね😀
ゆみさんはあなたの「なぜ若い女性は話しかけてくれないんだろう?」ということばを「なぜ女性の年代によって自分に接する態度が変わるのか」という問いのみではなく、「若い女性に話しかけてほしい」という主張としても受け取っているよ😀
一見不要なエスパーにみえるかもしれないけれど、ここには主に2つの原因が考えられるよ😀
1つ目に、こういった表現が反語としてとてもポピュラーなものということが挙げられるよ😀
「なぜ若い女性は話しかけてくれないんだろう?(話しかけてくれてもいいのに)」という具合だね😀漢文を習っている気分になるね😀
2つ目に、「男は若い女に話しかけてもらいたい」という社会的通説が一般的なものとして浸透してしまっている現状があるよ😀
悪く言えば完全に偏見だけれど、人間はおおよそこうした偏りを頼りに生きているから仕方ない面も大きいよ😀 よく「ヒューリスティクス」と呼ばれているものだね😀
1つ目の原因を2つ目が後押しして、ゆみさんは不用意にあなたの胸をえぐってしまったのかも😀 悲劇やね😀
だから
という主張は正しくもあるけれど、同時にあなたも自分の言っていることが正確に伝わっていない(=受け手にとって解釈の揺れが大きい)可能性があることもよく織り込んで会話に挑めるといいね😀
実際、ゆみさんのこの会話は非難でもないしそんなに深い勘違いでもないよくあるもののように見えるから、「女の子から話しかけて欲しいなんて都合いいこと思ってないよ~(冗談っぽい口調)」と返しておくのがよかったね😀
つまり
ということではなくて、単に病気で無職なあなたに社会復帰してほしい、ということを伝えたい意図しかないよ😀
でも、あなたの主張のすべてに的確な返事ができないこともあって、それは世の中のほとんどすべての人間に当てはまるよ😀
ブクマカやトラバはこうした流れをひとまとめにして「それが普通だ」と言っているよ😀 伝わるわけがないね😀 ブクマカもまた、あなたと同じコミュ障なんだ😀
9割5分はまともに文章を読んでなくて
当たり前だ😀
これはあなたがKKOだからではなく、元来ネットがそういうものだからだよ😀 ましてやはてななんかに「まともに文章を読む」ことを要求してしまった時点であなたの落ち度といえるね😀
どちらも極端な表現で事実ではないし、劣等感を感じる必要はないと言い切れるけど、ほんのりその傾向はある、ということがわかっていただけるとうれしいよ😀
ゆみさんはたぶん人並み以上にあなたに対して良く接することができているし、逆にその良い結果に対して増田に不満をぶちまけるまでに至ってしまったあなたはちょっとしたコミュ障、ということになるね😀
いや、私も個人の尊厳はあると思うよ。私の中にももちろんあるし、それは私は相対化できない。人身の自由を侵されて奴隷や囚人にされたくないし、思想・良心の自由を侵されて私の世界観を否定されたくない。
ただ、人権って権利であり、権力に関する保護であり規範なので、結局侵されることは常にありうる。それもヒューリスティクスにそぐわないものは特に侵されやすいだろう、と思ったの。
人が全て自分の中の個人の尊厳を守り、他人の中の個人の尊厳を守れば、個人の尊厳は守れるだろうけど、それができる人は(そこは正に教育や文化が影響してくるけど)限られるだろうな、と。できない人は個人の尊厳を侵しやすいだろうな、と。
「個人の偉さが集団の偉さを支えている」と見るか(私はこちらだけど)、「個人は偉くないが集団になったら偉い」と見るか(そういう人が少ないとは私は思っていない)、の違いだと思う。後者の人に対して人権を常識として通じさせるのは常に何らかの難しさをはらむだろうな、と。個人の尊厳は普通は国家と個人の関係だけど、さっき言った後者の人が国家の主な層だったら、個人の尊厳は保護されるかどうか危うい。
だから保護しなくていいと思うか、保護しなければならないと思うかは人によるだろう。私は保護したい。だが自分の意見が万人に通用するとは信じられないだけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20091225084108
「集団は怖いが個人は怖くないというヒューリスティクス」があるからといって、個人の尊厳を相対化することにはならない。
それは、個人が尊厳を守るために連帯する重要性を示しているにすぎない。
労働者は経営者に対抗するために労働組合という集団の論理で対抗しているのであって、それは人権というよりは労働者集団の利益を守るものだ(理念上は組合員以外も守ると言っているのだろうが、実際そうなっているようには見えない)。
職人ギルドのような昔ならともかく、いま労働者集団なるものが自明なものとして最初からある訳ではないのだし、労働組合に加入するもしないも、ユニオンショップ制の場合を別にすれば全く個人の判断でしかない。
労働者個人がなぜ労働組合に加入するのかといえば、その個人の利益を守るためであって、それ以上の「労働者集団の利益」なるものに貢献するためではない。
だから、労働組合は賃上げのような集団全体の利益のための闘争と同時に、不当解雇や昇進差別、最近では職場のいじめのような労働者個人の権利問題でも闘ってきたし、今もやっている筈。
(少数の組合員の利益とそれ以外の組合員の利益対立が先鋭化した場合に、少数者を切り捨てる場合はあるにせよ。その場合、少数派は別の組合を作って闘うこともできるし、現にそうしている例もある。)
要するに、あくまで個人が個人の利益を守るために連帯しているのが労働組合であり、その他さまざまな集団である筈で、それらは個人の尊厳と相対立するようなものではない。
ついでにいえば、労働組合は理念上も組合員を守るものであって、組合員以外を守るのは組織拡大のためとかいろいろな理由で行われる場合もあるけど、理念的には本来ありえないことだし、組合員以外を守らない労組が倫理的に非難されるものでもない筈。
個人の尊厳は教育や文化によって教えられるものなので、それが万人に通用するかと言うと、多分通用しない。むしろ集団は怖いが個人は怖くないというヒューリスティクスの方がより多くの人に通用するはずだ。
だから、個人の尊厳を語る人は、自分の主張が受け入れられなくても安易に他人を罵倒してはならない。それは教育や文化が違うということだ。だったら教育や異文化交流の構えで語らねばならない訳だ。それがはてなサヨクにできるだろうか?
ここでいわれている「はてなサヨク」がどの辺の誰のことなのかよくわからないが、見ている範囲の印象論として書く。
「教育や異文化交流の構え」で語る必要があるとすれば、個人の尊厳という考え自体を全く受け入れないような人種と話すときだと思う。
今で言えば竹原市長とか、曽野綾子とかがこれにあたるだろうか。
しかし、実際に「はてなサヨク」がもっぱら話しているのは、自分自身は個人の尊厳を受け入れる立場をとりながら、「ほら、あそこに個人の尊厳を受け入れない奴らがいるじゃないか、だから~~」と「アウトソーシング」するような人種ではないか。
例えば、「表現の自由は無制限に認められるべきだが、表現に対する批判は制約されるべきだ。なぜなら表現規制派に利用されるから」といったような。
つまり、個人の尊厳自体は、すくなくとも「はてなサヨク」が誰かと議論するような場では「万人に通用」していて、その意味で「教育や文化の違い」は既にない。
ただ、場の外部に「個人の尊厳を受け入れない奴ら」を想定することで、個人の尊厳から帰結するはずのいろいろな主張を封じ込めようとする人がいる、というのが現状だろうと思う。
そんなときに必要な構えは、「教育や異文化交流」ではなくて、自分自身も受け入れている筈の個人の尊厳に忠実であれ、という呼びかけだろうと思う。
そしてそれを「たましいのあり方を変える」と呼んでも、あながち誤りではないのではないか。そう思う。
はてなサヨクが言うほど、個人の尊厳というのは自明なものか、分からない奴は馬鹿かというと、多分違う。
集団は怖いが個人は怖くないというヒューリスティクスがある。人間には多分集団を重んじる回路はあっても、個人を重んじる回路は弱いはずだ。だからこそかつては他人を奴隷にすることに何の疑問も生じなかった訳だ。
今は私は他人を奴隷にすることには抵抗があるが、それはそういう教育を受けて、そういう文化圏で育ったからだ。それは過去ヒューリスティクスだけでは問題が起きたから個人の問題にも対処しようという歴史的経緯があって、そのフィードバックとして起きたことだ。
逆に言えば、そういう教育や文化が通用しない局面が生じた場合、その抵抗感は失われるのだろう。
世の経営者はしばしば労働者の人権を奪っているが、組織経営は教育や文化が通用しないことがある現実なので、現実にうちのめされた経営者や労働者は人権という文化を信じられないのだろう。労働者は経営者に対抗するために労働組合という集団の論理で対抗しているのであって、それは人権というよりは労働者集団の利益を守るものだ(理念上は組合員以外も守ると言っているのだろうが、実際そうなっているようには見えない)。
個人の尊厳は教育や文化によって教えられるものなので、それが万人に通用するかと言うと、多分通用しない。むしろ集団は怖いが個人は怖くないというヒューリスティクスの方がより多くの人に通用するはずだ。
だから、個人の尊厳を語る人は、自分の主張が受け入れられなくても安易に他人を罵倒してはならない。それは教育や文化が違うということだ。だったら教育や異文化交流の構えで語らねばならない訳だ。それがはてなサヨクにできるだろうか?
横増田で失礼。
妊婦受け入れ困難事件の記事を見て「拒否するなんてそれでも医者か!」という結論に至るということは割合普通にありうるのではないかと思うなあ。
妊婦がたとえ死んでしまうとしても、医者として「受け入れられない」なんて言葉でたらい回されるよりはマシ、と感じる人は間違いなくいるんじゃないか。
想像力が足りないというのではなく、想像力を発揮した上でなお、それを超えた次元で「医者に『この患者は受け入れられない』なんて言って欲しくない」という情緒の篭った意見は言う余地がある、ということ。まあ、俺は全くそういう意見には同意しないけどね、為念。
ついでに付け加えておくと、そういう言葉に対して「だったら産科医療を改善すればいいじゃない」というのもまたちょっと噛み合わないのではないかと思う。そういう改善を前提の要求とした上で、「やっぱ医者にそんな言葉使って欲しくないよ」という感情の吐露は成り立ちうるんじゃないだろうか。
個人的な見解なんだけれども、「想像力が足りないからその結論なんだろう」という風に先回りして、論争相手を「想像力の欠如」と断定しまうのはあんまり良くないことだと思う。ヒューリスティクスとしては正しいこともあるのだろうけどさ。例えば、目の前にいる、(一見短絡的に見える)ステレオタイプな結論に至った相手が、ステレオタイプな発想・思考をしていると即断するのは、それもやはり「想像力を欠く」ことなんじゃないかね。増田的にはどう思う?
…ここまで書いたあと思ったけど、単に自分の妄想力が無意味に豊富なだけっぽいなあ。もっとカネの取れる分野で想像力を発揮したいですね。死のう。
追記ー。
トラバに返信。
http://anond.hatelabo.jp/20081030150811
あー、なんか書き直しながら公開しちゃったからしょうがないかなと思うんだけど、
そういう言葉に対して「だったら産科医療を改善すればいいじゃない」というのもまたちょっと噛み合わないのではないかと思う。そういう改善を前提の要求とした上で、「やっぱ医者にそんな言葉使って欲しくないよ」という感情の吐露は成り立ちうるんじゃないだろうか。
と上に書いた通りで、産科医療の状態の改善とは全く別のレイヤーで「医者にそんな冷たい台詞を言って欲しくない」という主張は成り立ちうるんじゃないか、ってことね。産科医療を改善することに同意した上で、「そういう言葉を医者として口にして欲しくない」という意見はあるよね、という話。読みづらくて申し訳が無いんだぜ。
http://anond.hatelabo.jp/20081030151149
全くのところ同意と言う外無いんだが、やっぱり「優しいお医者さん」に掛かって、医師に憧れや尊敬の念を抱いてきた人達が、そうした物言いを非難したくなってしまう気持ちはちょっと想像できてしまうのだよなあ。そういう素朴な感情に即、冷笑を浴びせる気にはなれない(無批判に受け入れるつもりも全く無いけどさ)。
こういう感情の暴走を落ち着かせて、上手に改善策を納得させるためのアプローチというか、プレゼン手法ってのを習得したいなあ…。
追記の追記。
http://anond.hatelabo.jp/20081030152655
難しいよね、この問題。結局、自分自身の感情的な発言が及ぼす影響力にまで想像を致せ、ということになってしまうと、『自粛しろ』みたいな感じになっちゃってそれも何だかなとは思うんだよ。一方でそういう言葉で心を折られる医師のことを考えると堪らない気持ちになる。お互いの感情のやりとりを煽るんじゃなくて、取り持ち、調停できるような言葉の使い方って、どうにかして出来ないかな…。難しいけどさ。