はてなキーワード: 創造都市とは
はい。学芸員資格持ちがまずは神奈川県のおすすめ美術館を書くよ。
昔は鶴岡八幡宮の境内にあった(建築が坂倉準三で有名)けど、今は葉山の海沿いにある美術館。(鶴岡八幡宮のそばの鎌倉別館は今もあるはず)近代美術館としては国近美に次ぐ歴史のある美術館で、長いだけあって渋めも多いが、確かな企画、作品が多い。葉山の雰囲気も良いね。ここにいた学芸員のかたがいろいろな美術館の館長として活躍していたりするよ。
個人的には彼の作品では「シアター」シリーズが素晴らしいと思う。その後の歴史や宗教に接続する作品群も戦略的とは思うけどね。ちなみにこの施設、中学生未満は入場不可。
改修工事が終わり、トリエンナーレから再開。建築は丹下健三。ロビーが印象的。作品としてはダリ等の近代美術が有名。個人的にはコンスタンティン・ブランクーシの作品が好きかな。
横浜創造都市の一環で創設された美術館類似施設。メインの施設を銀行跡→倉庫→駅構内と変えながらもボトムアップでの運営が続く。代表が亡くなったが、今まで積み上げた関係性の中で様々な取り組みをしている。ボルタンスキーの展覧会とか刺激的なことをときどきやっている。
海沿いの丘の途中にある美術館。プリツカー賞受賞の山本理顕氏の建築。近年はジブリとか巨大ロボット展とかやっている。窓の形や位置などもあり、空間への陽の入り方が特徴的。増田は、開館の時の展覧会の木村太陽氏の作品が印象に残っているね。
「TARO賞」の受賞作品の展示が毎年あるからその時に行くといいよ。賞の性格上、エッジの効いた作品が見られると思いますー
箱根にある美術館。印象派の展覧会が多い。たまに現代もやっている。
フジサンケイグループが運営する美術館。イロモノかと思ったら良い作品が広い空間に配置されていていい意味で想像を裏切ってくれる。彫刻って触れる作品もあるし、「モノ」感がすごいから絵画とはまた別の印象を与えるよね。ニキ・ド・サン・ファールとか。ピカソ館、ネットの森、幸せを呼ぶシンフォニー彫刻とかいろんなものがあるから好きなものがひとつは見つかるんじゃないだろうか。
趣味的には合わないけど、お金かけて良いものを集め、いい箱をつくったの間違いない。企画展は江戸期の作品を中心に組み立てることが多い。
他に川崎市民ミュージアムも書きたかったけど、水害があったり、今は閉館しているのね。施設なしでも活動自体は継続しているみたいだけど、どうなるんでしょうかね。
気が向いたら、
【追記】
コメントのとおり確かに江之浦とBankartは正確には美術館ではない(4要件を満たしていないですし、登録もしていないでしょう。さらに言うならBankartは施設ですらなく、プロジェクトですね。)ですが、展示の機能的性質からここに含めています。
==以下、引用==
(略)
以下の記述は、記憶によるもので、あいまいな点が多々ありますし、小沢さんの言葉ではなく、私が自分なりに解釈、要約して書いている部分もあるので、誤解や間違っている部分があるかもしれないことを念頭にお読みください。
小沢さんは、これから自分の語ることは誰か特定の人を攻撃するものではないので誤解しないでほしいと何度も断った上で、「アートという罠:アートではなく」という講演を開始されました。
小沢さんが取り上げたのは、「なぜイギリスの行政は貧しい地区でのアート振興にお金を出すのか、彼らは何を狙ってアートを援助したのか。」という問題です。
行政的にはその答えは明瞭で、
第二に、職を作るためであり、
第三に、セルフ・エスティームを高くするためであり、
第六に、再犯を防止するため
なのですが、小沢さんはこういったアート政策が、実は新自由主義、ネオリベラリズムの息のかかったプログラムそのものであると指摘されました。
ネオリベラリズムとは、簡単にいうと、人びとを激烈な競争に巻き込んで、優勝劣敗、弱肉強食のジャングルの法則を貫徹し、社会を一部の大金持ちと、残りの貧乏人に分断し、様々な格差が拡大することをもって良しとするような主義・主張です。
勝ち組の新自由主義者たちは、アートを媒介にして、貧しい人たちが暴動を起こさないよう社会の中に取り込もうとします。こっち側に入れてあげるよ、といった彼らの傲慢さは、ソーシャル・インクルージョンとでも言えば、何かカッコよく今風に響くから不思議です。
なぜ、ソーシャル・インクルージョンをネオ・リベラリストたちには必要とするのでしょうか。端的に言えばそれは、暴動を抑え、革命を阻止するためです。そんなこと「野蛮」なことを、夢にも思わない人間を作り出すためです。
(略)
「企業的な社会、セラピー的な社会」で小沢さんは、セラピストの前で自らを語ることは、実は「灰色」=システムが用意した一定のヒエラルキーの下に、「あるべき自分」を位置づけて、希望を失っていくプロセスなのだと批判していました。
小沢さんは今回の講演で、同じことがイギリスのコミュニティアートにも起きているといいます。
セラピストが皆、気持ち悪いくらい落ち着いた低い声で、その患者たちをシステム内に柔らかく取り込むように、コミュニティアートも、誰にでも受け入れられるような、丸っこく優しくゆるーいアートを媒介にして、貧しい人達が「暴発」しないよう、その力、希望をソフトに去勢して、システム内に取り込んでいる、と批判しているのです。
イギリスではソーシャル・インクルージョンを目的にすると企画書に書けば、補助金が比較的容易に降りるということもあって、この言葉が大氾濫しているそうです。
そして、実際に許可して一年で700億円もの金を分配している男は、アートのことなど何も分からない小役人で、アートを通じて、貧乏人の心に野心を高めさせ、燃えたぎらせ、優秀さへの野望を常に胸に抱いて他人を出し抜こうとする嗜好など、ネオ・リベラリストたちが好む欲望を植えつけることをアート政策の目標にしているのです。
小沢さんは、こうしたイギリスの取り組みが「コピペ」されて実施されたのが、大阪ではないか。世界と地域はつながっているのだと主張されます。
The Economistとかいったネオリベの雑誌を好んで読み、「アーツとビジネスの融合した創造性豊かな都市をめざす「創造都市戦略」を掲げた」(ウィキペディアから)關淳一第17代大阪市長を名指しで批判している最中で、なぜかスカイプの音声が乱れ、もう時間ですからと急かされて、最後は駆け足気味の話になって終了。
小沢さんは1時間の講演を予定していたようで、話を止められた後、両手を頭に組んで仰け反っていた姿から、もう少し語りたいことがあったように見えましたが、私の気のせいでしょうか。
それにしても、これほど過激な、これほど尖りまくった講演は聞いたことがありません。
下手すると、企画の趣旨を全てぶち壊すような、シンポジウム関係者を激怒させ、二度とお呼びにかからないようなリスクをあえて冒して、小沢健二さんは自らが信じることを堂々と語ったのです。資料を持つ手は微かに震えていたとしても。
「アートの力を信じる」というシンポジウムで、「アートという罠:アートではなく」という、まるでちゃぶ台をひっくり返すような講演をやる蛮勇さ。なんという毅然さ、なんという美しさだろう。私はただただ感動していました。
小沢さんは、どこにも帰属せず利害関係を超越した場所から、誰も反論しようがないお行儀のよい正論をぶつだけのイデアリストではありませんでした。
アートしている人たちの苦労を理解した上で、行政からのお金であっても貰えるものならば、貰っていたほうが良いとはっきり言われました。
しかし、彼らの意思、権力作用を十分理解しながらも、それを逆手にとって、何か思いも掛けないあらぬ方向に投げ返してやること、突拍子もない事件を呼び起こすこと、例えば、親のカネを使って自由に遊ぶ頭のいい不良少年、内から食い破るエイリアンのように振る舞うこと、
これは私の解釈ですが、そんな但書きを小沢さんは付けたかったのではないかと推測しました。
==引用ここまで==