3年前からやっていたスマホゲームをやめました。退会というシステムがないようなので、知人にデータを丸ごと移譲するかたちをとりました。
やめてしまったけど、わたしはあれはとても良いゲームだと思います。要はギャンブルみたいな趣味だったけど、少なくともこの3年間、わたしはすごく楽しかったし、何度か腹立って投げ出したこともあったけど、それ以上に何度救われたかわかりません。10年後くらいにまだゲーム残ってたらやってみたいな。
以下欝々とした補足。
あまりに家計が火の車なので知り合いのファイナンシャルプランナーさんに相談することになり、紆余曲折の末に奨学金の返還猶予をしたりとかいろいろすることになり、でまあそれだとさすがにスマホゲームなんてやってられねえだろうと。そういう感じに。
そんなに膨大な課金はしてないんですけど(月平均1000円くらいです)、お金以上に時間リソースの浪費が問題ということでした。まあ確かに、貧乏人ほど無為な時間の使い方をしがちですしね。
自己憐憫にまみれた感じで申し訳ない。でも貧乏なのは事実なので。
これまで、貧乏だけど心は錦をモットーに、文化的支出(スマホゲーだけじゃなくて本読んだりとか映画見たりとかそういう)に対してはできるだけケチらずすむようがんばってきたつもりだったけど、このままじゃお金が貯まらないどころか数年後にはあなた無一文ですよな状況なので。まあ自己憐憫に浸ることで支出が抑えられるならそれもまたいいんじゃないかなあと。そういうことを考えています。
同人活動も止め、水槽もやめ、ゲームもやめていったら、最近はわりと生きるうえでの愉しみがどんどんすくなくなり、週末が来るたびに憂鬱でとんでもなくみじめなので、もう少しローコストで愉しめる文化的趣味を模索してるところです。図書館通いとか?
見栄を張るのもやめることにしたいので、今後は今まで以上に飲み会や遊びの誘いを断ることが増えるのかな。
周りとどんどん話が合わなくなっていく。
楽しく生きるには、やっぱりある程度無駄遣いできるお金が必要なんだとわたしは思います。
甘えだと言われたら、でもきっとその通りなんだろうけど。
現状から物事を好転させるにはエンジンをふかして前に動いていくしかないんだけど、あまりにも望み薄に思えるしあんまりそういう元気がない。かといってこのままだと更に状況は悪くなっていく一方なんだよな。寿命は近いかもしれない。悪くない人生ではあったが。
雀の涙ほどの預金は漸減傾向だ。足してもすぐに減っていく。今の収入では自分ひとり食べていくのに精いっぱい。それでも付き合いとか、帰省とか、いろいろあるので貯まらない。
年末の海外出張。取りあえず概算払い請求はしたが、しばらくのあいだ立て替えることになった。その間、ほぼ預金がゼロになる。もしかしたらマイナスになるかもしれない。自分の生活の果てが一瞬見えた。
最近いろいろお休みしたい気分。別にネガティブ思考なことばかり言いたいわけじゃない。今の仕事は好きだし。実験は楽しい。でも手取りは今月は11.8万円だし家賃は3.7万円で、貯金はこの三年間多少の変動はあれど下降を描き続けているので、気分は多少塞ぎごみがちにはなる。
まあ嫌なら転職しろって話だし、こづかい欲しいならアルバイトでも増やせってだけの話だし、それも嫌ならいろいろ削ぎ落していけばいいじゃんってだけなのはわかる。現状を打破すべく自分の人生と正直に向き合えば自ずとやるべきことは決まってくるのだ。失敗を恐れて足を踏んでいてはならないのだ。行動あるのみ。セイヤッ
というのが億劫でならないのは過去の失敗(と自分が認識している)経験がセルフキャッピングとなっているのと、金銭面以外案外今の生活に満足してしまっているからなんだろうな。だからこそ大して行動もせずダラダラ今の職を2年以上も続けてるわけだ。自分の人生に対して不真面目すぎたなあ。
それはそうとして最近、ネット接続時間を減らそうと思って試みている。ネット見てると物欲を煽られるし、世間と自分の生活のギャップに目を焼かれそうになるし、友達とご飯や飲みとかに行きたくなってしまうから。今得ている情報量は、今の収入の丈にあってないみたいだし。意識高く在るにはお金がいるのよね
満足な豚よりも不満足な人間であれという言葉があるが、この場合は満足な豚を目指した方がいいような気がしている。それで自分の人生と真面目に向き合えているのかどうかは疑問だが。
年末年始に帰省した。その際に自分が犯した散財が,ボディブローのように効いてきていて,思い返すに気が狂っていたとしか言いようがない。内容はまあ服とかバッグとか。まあ,歳相応の散財だと思うよ。でも収入相応じゃない。
地元の友人が散財するので,つい自分も引きずられて散財しちゃったのが原因。地元の友人のてまえ,ついかっこつけて,やや背伸びした買い物をしてしまったのが大きい。年末年始に自分自身が抱えた負債を一年かけて返済していくことになりそうで吐きそうだ。自業自得なんだけど。
自制心の問題なんだけど。2000円のバッグを手にとって眺めてたら「そういう価格帯のバッグはもうさすがにもてないよね,いい年だしさ」みたいなことを言われてしまい,結局三倍の値段のバッグを買うことになったとかそういうのの繰り返しだった。
友人は育ちがいいし高給取りなのだ。私の1.5倍の収入があるし棒茄子もあるし実家住まいなのだ。
でも,こればっかりは私の見栄と自制心の無さが諸悪の根源なので。友人に幻滅されたくないとかそういうよくわかんねえ思考が原因なので。私がバカなだけなので。そんな見栄張ったって無意味なのに。バカじゃないのか。バカじゃないのか。
取り敢えず落ち込みすぎて食欲がなくてここ最近飯とふりかけばっかり食べてたら重度の便秘になって額の吹き出物がヤバいことになってる。バカじゃないのか……。
バカじゃないのか……
家計簿を念入りに付ければ自然と生活が豊かになるものだとかつては漠然と考えていた.実際それはある面では正しく,家計に関する長期的な考えを培うことができたが,一方で結果としては己の相対的貧しさがただ可視化されていくだけだった.
20代も後半になると,学生時代にえがいた将来図と現実の剥離が目の前へと迫ってくるようだ.交友関係の広さや深さ,そして趣味の数が,自分の経済事情とそぐわないことをつくづく痛感する.わたしのこの経済状況であれば,本来であれば趣味無し友達無し恋人無しで生きるのが相場であっただろう.趣味や友人や恋人を大切にするためにはお金がいるのだ.なにもそれは一緒に旅行に行くお金がないとかそういう問題ではなくて,もっとささやかなこと,たとえば……そうたとえば,疲れてトゲトゲした心の内面を他人にぶつけないだけの心の余裕,ついかっとなって「あなたはいいですよね,私の倍お給料をもらってるんだから」とわめかない心の余裕,友人と一緒に喫茶店でコーヒーを飲んで価格を10円単位で気にしない心の余裕,今楽しんでいる趣味を「楽しんでもいいんだ」と肯定できるだけの心の余裕――心の余裕にはお金がいる.
仕事の忙しさや人間関係の悩み,そういう弱音は,友人や家族に相談できる,愚痴を話せる.でもお金の弱音は誰にもできない.恋人とだって,そうだ.結婚などの将来のことを考えれば考えるほど,「あなたほど魅力的な人間なのだから,わたしのようなワーキングプアではなく,もっといいひとを見つけた方がいいですよ」と,口を滑らせていってしまいそうになる.そういうときっと相手は傷つくだろうことがわかっているので言わないようにしている,けれど,言わないためにもやはり心の余裕が必要なんだ.
きっとこれからどんどんいろんなものを失っていき,いろんなものがわたしから離れていくのだろう.
来月は12月だ.
金がない.
(自分の身の回りの世話を一心に引き受けてくれて金銭的支援もしてくれるうえに精神的にも支えになってくれるまるで理想の母親のような)配偶者が欲しい,という弱音が最近気を抜くと口から出そうになっていることに気付く。そうした弱音を抱いている自分の心の弱さにもはたまた落ち込んでしまう。セックスできる母親,とはよく言ったものだ。私は女性でおそらく異性愛者だが,こうした文脈で弱音を吐くと「セックスできる父親が欲しい」にはならず決まって「セックスできる母親が欲しい」になるのが面白いところだ。現実世界の実の母親は,嫌いではないが格別好きというわけではない。弱音の妄想の中にでてくるセックスできる母親はいつだって理想であり,だから手が届くはずもない。
薄給の身で一人暮らしをしている,という状態はおそらくディスアドバンテージなのだろう。田舎暮らしなので家賃はそれほど高くはない。けれど,一所懸命に生活をしているはずなのに,どうしてこんなに時間がないのだろう。どうしてこんなにぐったりしてしまうのだろう。それはおまえが怠けているからだ,もっとがんばればいいところをなあなあで甘えてきているからだ,と思い込んできた。けれど自分で自分を詰っても何の解決にもなりやしない。高給取りの知人や,同じく薄給取りではあるけれど実家暮らしだったりする人間と会話をする行き場のない黒い感情で心が塗りつぶされていく。友人と会うのがしだいに苦しくなっていく。自業自得,そんな言葉が頭がよぎる。これは自分で選んだ道なのに。
でもがんばるしかないんだ。
がんばろう。
最近,趣味――同人誌を作るにせよ,新しい魚を飼うにせよ,詳しいやり方を調べる前にまず最初に予算を試算するようになってしまった。「諦めるための理由」を金銭面に求めて,粗探しをしているみたいに。
趣味だから当然なのに、「こんなことやっても一銭の価値にもならない」とか「こんなことやっても履歴書には書けないし経歴にもならない」みたいなことが常に頭によぎってしまって。やっている最中は確かに多少は楽しいけど,終わった後にその数十倍の虚無感に苛まれる。なので必死に,この趣味を通して自分が培ったかもしれない「何か」を言語化して探そうとする。
趣味人の考えじゃないよなあ,と思う。
労力に比してわずかな承認しか得られなくても,基本的に赤字の一方でも,その趣味を通して建設的なものが得られなくても,ただ自分が楽しいと,そう思えたなら情熱と金銭を注げるわが子のような存在。それこそが趣味であったはずなのに。かつてはそうであったはずなのに。
現在の職場が非正規雇用であるせいなのかもしれない。任期があと二年(今年度を含めて)という微妙なモラトリアムであることが微妙な自由と微妙な焦りを生んでいる。
将来のことを考えると、趣味にうつつを抜かしている場合でもない(時間面でも、金銭面でも)という焦燥感が、たぶん原因なんだろうなあと思う。
趣味する暇があるなら仕事をしろ貯金をしろとわたしの中のゴーストが囁くのよ。
結局私が根性なしなんだろうか。