ある種の二次元がキャラの容姿や性的な感じを強調し過ぎていて、それが女性にとって不快だからゾーニングしろってのはわかるしある程度共感もできる。
女性はああいうの不快だろうーなー、となんとなくわかる感覚は実はオタク側だって持ってるんじゃないかと思う。
ただ、共感できるけど、そういう「俺に不快なものを俺に見せるな」って場合によっては結構マズくない?とも思う
例えば俺は全然大丈夫だけど、いわゆるオネエタレントが見るだけで不快ってやつはいる、これを「俺に不快なものを俺に見せるな」と言ってゾーニングしていいものか? オネエタレントが若いイケメンを性的に見ることをネタにするような場面ってあるけど、あれってまんまじゃないのか。二次元を見る女性と同じ意味合いで不快な男性もいるんじゃない?
それにさっきの二次元の話は三次元にも適用できる。女性性の消費として例えばAKBやももクロが不快だって女性もいると思う。じゃああれもゾーニングされるべきなのかな? 出演禁止にすべきと。少なくとも行政の関わるイベントには出演させるべきではないかも。
俺には「程度問題」ってのがわからないんだと思う。世の中の多くの人はこのあたりうまく乗りこなして、似たような判断が阿吽の呼吸で出来るんだろう。俺には曖昧すぎてわからないし基準を明確化して欲しいと思う。
コンビニに売ってるエロ本だって、コンビニが誰かから押し付けられたから売ってるわけじゃないだろう。売れるから売ってるだけで、商売だ。
コンビニにはエロ本を売る権利が無いのかな? 普通の売り場から見えない18禁ゾーンを作るってスペース的に無理だと思うし、コンビニに暗幕に囲まれた「18禁ゾーン」が常備されてる状況の方がなんかマズイ感じはするがwでもそっちの方がもっとドギツイエロコンテンツをめいっぱいおけるからある意味ではいいのかも。あれでもこれレジどうすんだ。18禁ゾーン専用の男性店員を付けるか、いや、女性だって買いたい人はいるだろ、トイレみたいに男女別にするか、ってどんどんスペースが足りなくなってくるな。
ビジネスチャンス、儲ける権利を奪うほどの正当性があるものなのかな? 俺達の不快さは。まぁ今のテレビの状況なんかはそうやって出来てきた感じはあるよね。
ツイッターとかにしても、まぁエロ専用のとことか作ればいいんだろうけど、それって結局出会い系とかなんだよな。そういうのは潰す方向だろうし、なにがしたいのかよくわからん。
もともとはネット自体が「隠れる場所」だったような気もするが、いまではネットに上げることは世間に公開することで、ゾーニング議論にひっかかる、新たに「隠れる場所」を作っても一般人にまた占領されて「公開された場所」になるんじゃないかなー、って危惧はある。バカッターとかと繋げられる話だよね。
あとは「性的なものを見せられたくない」って気持ちは男性側(の一部)にもあって、それがアイドル幻想だ。アイドルは恋愛してはならない、うんこもしない。事実上は「隠れてやる」ことで許されている状況も週刊誌による「ゾーニング破り」で「公開され」、悪いのはアイドルということになる。似た構造だ。アイドルの恋愛は、うんこは、ゾーニングされるべきなのか。アイドルは自分の恋愛を結婚を世の中に公開する権利を持たないのか。「俺に不快なものを俺に見せるな」という理由で?
http://www.resucitandobicis.es/resucitandobicis/index.php/component/k2/itemlist/user/3461
http://www.resucitandobicis.es/resucitandobicis/index.php/component/k2/itemlist/user/3460
スパロボ(的な類似タイトルだったかもしれんけど)を大昔にやったとき、「俺の知ってる○○(何だったか忘れた)と違う!」ってなってしまってそれ以来苦手意識があるんだけど、スパロボ大好きな人たちはそのあたりどう折り合いつけてるんだろう
http://synodos.jp/society/15869
について、まぁすこし前に流行った弱者男性と同形の議論だよね基本は、そして弱者男性議論と同様に根本的に間違えてる部分がある。
これに対してコメントを見てみると
それ以前に当事者の運動すらないのに、「被抑圧下で権利主張を行うマイノリティ」に対して自分たち以外の権利獲得・保護まで一方的に背負わせるのは無理筋だと思います
LGBTが包含しにくい勢力をLGBTと同等の勢力と多数派が認めればいいだけでは。少数者はひと固まりになるべきてのは押し付けに過ぎない
分かるけど「お前らの運動は思想的に無矛盾じゃないからニセモノ!」って足引っ張るのはやめような。オタクはオタクで頑張れ。共闘はできなくても互いに応援はできるはず
考えてみれば当たり前だ、そもそも論理を貫き通せばそれでOKなら、差別そのものがとっくの昔にこの世にないはずだ。となれば必然、運動は論理を超えた、つまり矛盾を含むことになる。
論理的には山口氏は正解だろう。「性的少数者は守られるべきか?」「多様性は擁護されるべきか?」という直截な疑問にLGBT側の多くの人間は留保を付けずに「YES」と答えられないのではないか。そして留保を付けた途端、この教条の絶対性は揺らぎ、次なる理由を求められることになる「では、なぜLGBTだけが?」「その理由は?」
理由など無い、たまたま自分かあるいは近しいところにその当事者がいたとか、そういう理由ならあるだろうが。論理的な説明は無い。
こうした運動にとってロジックは「根拠」ではなく「道具」に過ぎない、ってことをわかってない。まず第一に「ある特定の差別解消」という恣意的な目標があり、ロジックは都合のいいものだけ後付けされる。そんなことはわかった上で、なのかもしれないが。
なぜ矛盾してもいいのか?
それはそもそも第一の目的が「論理性の追求」などではなく「ある特定の差別解消」だからだ、この目的のもとに、手段の(特に論理的)正当性は言ってしまえばどうでもいい。そもそも論理的であるべき(矛盾すべきでない)とする論理的な理由は無い。それは常に(他の場面でも)戦略的なものだ。
そう、戦略だ。ここに山口氏の主張をベタに受け取る上記の反論の未熟さが伺える。彼らも分かってるはずだ、ここにはコンスタティヴではない、パフォーマティヴな意図が隠されていると。
被差別者は矛盾してもいい、そのことには論理的な正当性すらあるが、一方で戦略的にはよろしくない。大半の人間は馬鹿だから「矛盾してもいい」ことを理解できないし、となると論理的矛盾は論理的ではなく戦略的な足かせになる。
彼らがやるべきは「その言い分は戦略的にまずい」とコンスタティヴに言ってしまうことではなく、山口氏と同様にパフォーマティヴな意味を獲得する論理ゲームに参加することだ。
彼らは勘違いしている。これは「論理的正当性」という称号を賭けたただのゲームなのだ。これを獲得すると「説得力」という全然論理的には役に立たないが戦略的に役立つものが手に入り、逆に負ければ論理的には全く問題ないにもかかわらず戦略的には大きなリスクを負うことになる。
彼らは文章の表層に表れる論理ゲームしか見えていない、その上空で展開されるメタ称号争奪の戦略ゲームが見えていない。彼らは「論理より戦略を考慮しないと」と言うわりに自らの戦略的位置・意味には驚くほど鈍感だ。正しいことを言ってればいいわけじゃない。
論理ゲームの勝敗が戦略ゲームの戦況に影響を与えるということ、この簡単な事実を前提とした意見は残念ながら今のところあまり見られない。