はてなキーワード: マルセル・デュシャンとは
「なぜ漫画アニメの下ネタ・裸体はケチをつけられ、アートのそれは許されるのか」はけっこう難しい問題な気がする。
アートの下ネタが許されるのは「そういうものとして受け入れられてきたから」以外の理由付けは難しいんじゃないか。
マルセル・デュシャンが小便器を作品にして以降、アートの世界では下ネタが全面解禁となった。
アーティストの大便が作品として数千万円で取引され、精子を混ぜた絵画があり、牛は切断されホルマリン漬けになって展示される。
これがまともかというとかなりおかしい。おかしいけれど「どこまでが許されるか」の認知や感覚の境界線を揺さぶる作品、まだ誰も扱っていないメディウムに挑む作品、と言われるとそうなのかとも思う。
アニメ作品も下ネタの限界に挑むのも結構なことじゃないか、という考え方と、ゾーニングの問題じゃないかという考え方がぶつかる。
スーパーマーケットでうっかりアーティストの糞を目にしてしまうことは無いが、テレビを付けたらアニメの強烈な下ネタを目にすることはあり得る。
そう考えると、例えば配信サイトでゾーニングされた状態のとんでもない下ネタアニメがあったとしても、興味なければ見なければ良い。牛の断面のホルマリン漬けも、美術館に行かなければ見ないで済む。
現代アートでは「苦労して本人が描いているか」は評価に影響しない。有名アーティストは自分のスタジオを設立し、スタジオのメンバーが手を動かして作品を作っているケースが多い。アーティスト本人はアイデアを考え、作品コンセプトを練り、発表の場を作っていく。
そして「作品の物体を作っているのか」も関係がない。有名なマルセル・デュシャンのトイレ作品「泉」以降、すべての作品はレディ・メイド(既製品)であり、アーティストが行うのは制作ではなく「選択」であると考えられている。
油絵を描くにしても、アーティストは絵の具やキャンバスなどの既製品を購入(選択)し、どの色を使うかを選び、どこにどのように配置するかを選んでいる。既製品の使い方を選択し続けている。
何か新しいもの、存在していなかった物体を作り出しているわけではなく、既製品の選択の組み合わせが新しいアイデアを生み出しているかが大事ということだ。
AIツールの種類を、ツールのバージョンを、プロンプトを選択する。出力した画像の組み合わせ方を、画像の使い方を、画像の説明付けを選択する。ツールによって作り出すもので、何を成し遂げたいのかを常に選択する。
知らんけど。
現代アートでは「苦労して本人が描いているか」は評価に影響しない。有名アーティストは自分のスタジオを設立し、スタジオのメンバーが手を動かして作品を作っているケースが多い。アーティスト本人はアイデアを考え、作品コンセプトを練り、発表の場を作っていく。
そして「作品の物体を作っているのか」も関係がない。有名なマルセル・デュシャンのトイレ作品「泉」以降、すべての作品はレディ・メイド(既製品)であり、アーティストが行うのは制作ではなく「選択」であると考えられている。
油絵を描くにしても、アーティストは絵の具やキャンバスなどの既製品を購入(選択)し、どの色を使うかを選び、どこにどのように配置するかを選んでいる。既製品の使い方を選択し続けている。
何か新しいもの、存在していなかった物体を作り出しているわけではなく、既製品の選択の組み合わせが新しいアイデアを生み出しているかが大事ということだ。
AIツールの種類を、ツールのバージョンを、プロンプトを選択する。出力した画像の組み合わせ方を、画像の使い方を、画像の説明付けを選択する。ツールによって作り出すもので、何を成し遂げたいのかを常に選択する。
知らんけど。
https://anond.hatelabo.jp/20220922130833
の続き
語尾変更の経緯はウン↑コ↓https://anond.hatelabo.jp/20220816194309
感想:リベラルというよりリバタリアン? 狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり
マルセル・デュシャン (1) 公明の罠 (1) 愛国 (1) 日常 (1)
baikoku_sensei 2012/05/19
認めようと認められまいと二人が幸せなら近親相愛も獣愛もよかろうと思う。ただ、子供と付き合う(幸せにする)には、子供をパートナーとして対等に扱い且つ責任や負担は一手に引き受ける必要がありホモよりキツい
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。
萌えは個人の趣味趣向にすぎないかと。逆にそれに過ぎないものがひとり歩きしてる感じもするな。テレビなんかで。
田舎に旅行行って、田んぼの横とかにトタンで囲まれた無人自動販売機があっても誰も好んで話題にしようとはしないでしょ。むしろ見えてないという前提で
とか空々しいこと言うでしょ?日本人だけが、目の前に見えてるものなんだけど、それが邪魔だったり都合が悪かったりすると見えないものとして扱うことができる、などと東洋史学者の貝塚茂5が笑いながら対談してるのをどこかで読んだ記憶があったりしますが思い出せません(苦笑)もしかしたらケガレ思想とか被差別部落の問題かなにかを扱った本だったかもしれないですが。まぁそれはともかく、いくらトタンの中で売られているものが
「これはとても素晴らしい出来なんですよ」
と言われて手渡されたりなんかしても、フツーはまず目をそむけますよね?なにが素晴らしいのか?それがズリネタで使用するおっさんの求める文脈や目的に限っては、素晴らしいからだとわかるからです。他の用途で素晴らしさを見つけるのはまことに骨ですから。マルセル・デュシャンみたいに前衛美術です、っていきなり美術館に洋式便器がゴロンと置かれたりしても困るじゃないですか(笑)それと同じで。