つかグループ分けが出来るような群れ方をするから差別が起きるんだよ。
全体主義がそうであったように。
その後に訪れたのが個々人が自由に生き方を追求すればいいという個人主義の時代であったはずがいつのまにか女性は女性で、男性は男性で固まって声を上げ、利害が対立する同士で争うみたいな状況に向かってるの笑うしかない。
けど、アニメーターは儲からず、実家が裕福じゃないとやっていけない。
家が太くないとやれない仕事だ。
資金繰りや銀行との交渉とか、そんなことにばかり時間とストレスを受けている。
飲み会をしたりすると、自分は本当は世間で底辺なんだと痛感する。
ああ、そうなりたかった。かなわない夢だけど。
無職童貞の俺に譲れ。パコパコする
話題のことについてもう少しわかりやすくすると、原作にいるキャラを例えばAさんとし、『私』を花子さんとした場合、A花と巷によくあるCPのように略して表記をされている方が増えた(ここでの『花子』さんは、創作者の名前と同じものとします)(また、以下『A花』と表記しますが『花A』『A花A』を否定するものでは誓ってありませんし、性別を特定するものでもありません)。
これは『A花』であって、『花』を名前変換することは基本的にあまりない、と思う。どうなんだろう。その辺は人と場所に依りそう。だから『夢小説(夢創作)』ではないのかもしれないけれど、とりあえずその辺の話として続ける。
まぁしかし自分は矮小な存在なので、そもそもこれは自分の観測内だけの話かもしれない(もしかしたらこの記事を読んでいる人にとってはそんなこともう10年前から当たり前だったかもしれないし、はたまたそういった人は全く見かけない、という人もいるかもしれない)。
とりあえずこの記事の書き手の周りでは増えたんだな、と思って読んでほしい。
夢界隈外での夢の認識は未だに、『キャラくん×私』の図式で終わっている。とてもプリミティブだ。それが悪いと言っているわけじゃないけれど、そこから何一つとして認識が進んでいない。
けれど、長年そんな風に言われながらも実のところ『A花』というものを自分はあまり見かけなかった。仮に自分であっても夢主と表現し、名前を表には出さない。CP名のように略さない。そういう人が多かったように見受けられた。
けれど冒頭に書いた通り、ここ最近、2〜3年だろうか、『A花』という表記を見かけることが多くなった。私はそれが、純粋に、羨ましかった。羨ましいという表現は『A花』として創作をされている方の苦労や涙を軽んじているように思われるかもしれないが、忌憚なく言わせてもらうならばやはり「羨ましい」という単語が当てはまる。
ここから少し自分の昔語りになるけれど、私は10年ほど前にかなり長めな夢小説を書いて完結させた。これだけでもう察しのいい方は気付いたと思うけれど、そう、夢主がほぼ完全に理想の自分、この世界にこの立場でいられたならばこう動いていただろう、という理想と妄執を詰め込んだある種の呪詛と祈りのような作品だ。
普段の自分の作風は、原作世界の中に『こんな人物が生活しているかもしれない』『ここにいたら関わりがあったかもしれない』という舞台観測型の書き手だった(と思う)(実は自分の創作がどんなものなのかいまいち分かっていないので曖昧だけれど許してほしい)。
そもそもかなり原作のジャンル自体が全く違うので、今までのジャンルの小説を読んでくれた人とそのジャンルの小説を読んでくれた人は重なっていないかもしれないけれど、自分は読み手の方を裏切っているのではないかと、たまに思う(そもそもその理想の私で書いたジャンルは書き手も読み手も少ない小規模界隈だったのでおそらくマジで重なってないと思う)。
そんで少し前の「羨ましい」に戻るわけだ。今ならあれを『A花』として出せたのだろうか、それを受け入れてもらえたんじゃないか、と考えたりする。けれど自分が弱いことはよく知っているのでこのことは誰にも言っていないし、これからも誰かに告げる予定はない。自分だけが知っていればいいことだと思う。
だから、自分の意気地がないってだけなので「羨ましい」というのはお門違いなのは重々承知している。A花をしている方のなかには、ひどく気を使っていらっしゃる方もいると知っている。ファンアートを描かせて頂いた時に「受け入れてもらっているのかすごく不安だった」と心情を吐露してくださった方もいた。
きっと皆さん多かれ少なかれ恐怖の中にいるのだろうと思う。
私はその勇気が素晴らしいと思うし、勝手ながら元気をたくさんもらっている(だからせめて「私はあなたの心とパートナーを支持します」というのを遠回しに表明するために『A花』を描かせてもらうのだ)。
臆病で結局表明もできない人間だから、みんな自己投影の話は『A花』としてやるといいよ、なんてことは口が裂けても言えない。だけど自分は誰かの『A花』を笑わないし、たとえ受け入れられなかったとしてもそれは自分の許容範囲の話なので、『A花』が悪かったわけでも『A』さんや『花子』さんが悪かったわけでもない。そういうことはよくある話だと思う。
『私』を出している作品だから、否定されるととても深く傷つきやすいガラスのようなものだとは思うけれど、気を確かに持ってほしい(気が狂ってるとかいう人もいるけれど、同人者なんて多かれ少なかれ頭がおかしいもんだ)(自分のいる側こそが正気だと思ってる方が狂気じみている)。
そんなわけで、界隈外から「夢小説って、キャラ×自分なんでしょ」というほぼ一択の解釈であるのにも関わらず、案外「キャラ×自分(名前変換がない)」を表明した作品は全然なかったのは面白いし興味深いし、増えてきたのはいいことだなー!!!と思う、という話でした。
【余談】
けれど現状だとそれを受け入れる・検索できる素地が整っていない(サーチさんとかの定義では『名前変換ができるもの』が第一原則としてよく存在する)ので、サイトを持っている方を見ると勿体無いな、とも感じたりする。でも『A花』をされている方は、サーチから来てほしいという欲求はあったりするのだろうか。それこそ気の合う人たちと一緒にいる傷つかない世界を望んでいるんじゃないか、など答えの出ないものを考えたりしてしまう。
これも十人十色だろうけれど。露出したい人もいれば、露出したくない人もいる。それはどの作品でもあることだ。
(……思ったけれど、『A花』を観測できなかったのって、こういった感じで『夢創作』として受け入れられなかったからでは?とこの余談を書きながら思った。)
(サーチ管理者さまをdisる意図はないです。あの定義は必要だったろうなと思うので。)
【余談終わり】
思ってたより長くなった。
ここまで読んでくれた人がいたらお疲れ様でした。ありがとうございます。
先月、成人式の前撮りをした。きらきらの着物とメイクとヘアセットで綺麗にしてもらって、地元の有名なフォトスタジオで撮ってもらった。家族や親戚にもたくさん褒めてもらってすっごく嬉しかったのだけど、わたしは少し違うことを考えていたので、そのことをここに書こうと思う。
今回の前撮りの費用は祖母がお正月にくれた前撮り用資金から出させてもらった。どんな着物にするの?楽しみだねえ、と言って大きな額を渡してくれた祖母は、わたしの前撮りの日を待たずに春に亡くなった。生まれた時からずっとそばにいて、幼い頃の写真にはよく祖母も写っていたし、着物や浴衣を着付けてくれるのもいつも祖母だった。わたしは祖母に振袖姿を見てもらうのを楽しみにしていたし、着物が好きだった祖母もきっと楽しみにしていてくれたと思う。見せたかった。わあー!素敵!と言って喜ぶ祖母が想像できるし、わたしが自分のセンスで選んだ着物の完成形を見て欲しかった。前撮りを終えて家に帰るとき、祖母の家に寄って振袖のまま仏壇に手を合わせてきた。普段は咳き込んでしまう御線香の香りも、なんだか祖母が近くにいる証のような気がして少し多めに吸い込みたくなった。
振袖、ちゃんと見てくれた?少し派手な色だけど、この振袖すごく気に入ったんだ。可愛いでしょ。ばばにもちゃんと見せたかったのになあ。ちなみにお昼は松茸食べたよー。美味しかった、へへへ。未だにばばがいないの信じられなくて、ふとした瞬間に元気かなー?って思ってああ、って寂しくなるんだ。夢だったら会えるのかな?会えたら振袖の感想、教えてね。
見てきた
見終わっての感想はまさに
記憶にございません!って感じ
民王を見ていて思い付いたのか?と思うようなストーリーだったことと、エンディングの演者さん紹介のフォントが良かったことだけは記憶にある
「エスカレーターには横二列で乗ってね。歩かないでね。」
どっちも無理だしうるさいなぁと思ってる。
まず、知らない人と一段に収まるのはパーソナルスペース?ってのが侵されてるから嫌だ。心がざわつく。大江戸線とか深いんだよ?何分横並びしたらいいの?
あと、どうしても片側は空けちゃう。歩く人に譲っちゃう。歩くのが危ないのも、乗ってる側だけ機械が劣化するのわかる。でも片側空けって誰に言われた訳でもなく定着してるし、言ったら「思いやり」じゃない?どーぞお通りくださいって。
こっちだって昨日そこらにエスカレーター乗りはじめた訳じゃない。幼い時から何百回何千回と乗って習得した、もはや「生き方」。そういう成り立ちのものをグッと言って変えさせるのは難しいって。ほんと諦めて欲しい。