たくさんメタブ作っているけど
ネットで低学歴なのを書くとここのように完全に匿名でも無い場所でも、
学歴自慢や自分の仕事関係の大学出身の友人が居てとかマウンティング始まる。
こういう事始める相手を観察してると、何年もプロを夢見るがデビューしてないし、
ネットにひたすら張り付いて誰かに突っかかり続けてたり、こちらを下に見る割に残念な状態にしか見えない。
災害報道とはちょっと違うかもしれないが、先日のベルギーのテロの時に実はベルギーにある原発への攻撃もあって(ガードマンが1人なくなって入構証が同じタイミングで奪われる事件が同時に起きていた)、それが警戒レベル最高で職員全退去までしたのだけど、報道(というか発表ベースだと思うが)は規制がかかってかなり抑えめになってたな。もしあれが大々的に出ると完全にパニックになってたと思うが。
「アインシュタインよりディアナ・アグロン」で炎上してるHKTですが
なにしろHKTのメンやヲタは「ブスだけど有能」が売りで一癖も二癖もあるHKT支配人指原が秋元に最も寵愛されているメンなのはわかりきっているし
AKBセンターのHKT宮脇がそのルックス以上に頭の良さと強い意志で今の地位にいるのがわかりすぎるほどわかっている。宮脇と同程度のルックスや可愛さだったらわざわざ博多から持ってこなくてもAKB本体に何人もいるのだ
炎上してから批判している連中も分析している連中も大半はHKTのセンターをめぐる複雑な物語構成や個々のメンの特徴を知らんわけで
博多ヲタならこの歌詞から表層的な意味と裏腹の意味を見出すのだからこのような批判は出ようはずもないのだ
ディアナアグロンの名前をだしたのも反語的な意味があると深読みしてもおかしくない
田島は初代HKTセンターで速読が得意な読書家。秋元が最もアイドルとしての才能を認める一人。
朝長もかつてのHKTセンター。この歌詞に表面的には一番しっくりくるがセンターを外されたときにひどく悔し涙を流すなど熱く秘めた情熱を持っているメンバー。
矢吹は元子役でなんでもこなせるスーパーキッズ。未来のAKBセンター候補
田中美はファンを引き付ける能力が高く、戦略的にファンを増やしている
確かにこの4人はみな無邪気で女の子らしい一面を指原や宮脇以上に持っているとは思うが
この歌詞に出てくるような何も考えない女の子じゃセンター候補に選ばれることはないのだ
HKTにはこの4人と同年代で先輩の田中菜津美という15歳のメンバーがいる。身長171センチ、口が達者でファッションセンスは最悪、ただし言葉のチョイスと、4万人の観客の前でも臆せず一人でMCができる度胸とスキル、高校生になったばかりではありえない天才的なメンがいる。この歌詞とは真逆といってもいい存在。秋元はこの田中の話芸を「鶴瓶をみるようだ」として最も高く買っていて、前曲では秋元が選抜に強硬に推したにもかかわらず他のスタッフにスルーされてしまった(秋元の意見が必ずしも通らないのだ)秋元が推すのはこういうメンバーなのだ
この「アインシュ・・・」を歌唱しているHKT4人はこのAKBGトップ二人そして秋元が推す同世代の田中菜と同じグループの、センター候補の後輩たちなのだからこの歌詞が反語的な意味合いだというのは私のようなただのファンの百倍はわかっているのだ
あのMVを見ただけで「あんなの歌わされるなんてかわいそうだ」と言ってる連中は実はあの四人の可愛らしい見た目で実は中身までないと思っているのだ
逆じゃない?自分が担当した所は会社負担が大きくてパフォーマンスの低い(中年以上の家族持ちになりがち)が真っ先に対象になってたよ。
平日は仕事。
土日は家から出ない。
特に何かをするわけでもなく、24時間ウェザーニュースをつけっぱなし。
ぼーっとしてたら二日が終わる。
何に対しても興味を持てないし、魂も揺さぶられない。
たぶん、とっても贅沢な悩みなんだろうと思う。
「俺は生きた!」って思える人生を歩める見通しは現時点では考えられない。
ゲームシステムというのは仕様の塊であり、その中の一部だけを切り出して
予め予測をしたり様々なパターンを試行したりしたいという場面が必ず存在する。
さきほどどこかのメディアで見たのだが、2011の時はAmazonのリストが役に立ったが、今回は誰も使っておらず、代わりにメルカリを使っている人がいるみたいな話を総合的に書いてあった。
自分もネット業なので言うのが憚る部分もあるが、ネットが技術的にこういった事態に強いみたいな話は「技術的」にそうだろうなとしか思わない。
現時点では広く普及しているのは民間主導で、市場主義のサービスなので時代的な相対性があるのは当然のこと。今流行のLineが数年後に全員が使っているインフラ足りえるかは誰も保証してくれない。
災害はいつ起きるかわからないし、こういう事態の時こその公共性のあるただの電話とかそういうのが基本的な選択肢だと個人的には思っている。
見世物のように避難所を映したり、崩れかかった家の前で「その瞬間」を待ち構えてカメラを向けたり、
そういう報道に腹立たしい思いをする気持ちは真っ当なものだし、
災害についての報道が、情報の伝達のみならず、記録としても必要だし、その結果として義援金が圧ったりするということも含め、
全てを否定すべきではないにしても、
そこまでして「テレビ的な画」を求めて中継する必要があるのかという疑問が沸くのは当然だ。
映像は、たとえば「屋上カメラからの揺れている様子」みたいな必要最小限に抑制した報道に
シフトしていったとする。
そうすると、どうなるか?
勿論それも話題にはされてるで
どうして、自宅近くの避難所で余震におびえて不自由な避難生活をしてるんだろうね。