分かる。割を食う側だと、ついそう思ってしまう。職場外の友人だったら素直に同情だけしていられる話なんだろうけどね。
妊活に限らず一般的な職場の人間関係の話として、自分の都合で周囲に負担をかけざるをえない時は、なるべく挨拶して直接頭下げておかないとな。休む制度がある・上司から許可が降りてるってとこに胡座かかずに。周囲は自分の代わりに仕事の負担を受け持ってくれる人たちなわけで。と、自戒を込めて。
あと一歩のところで及ばず。
悔しい。
悔しすぎて涙がこみ上げてきたけど、ここで泣いていいほど頑張ってきてない自分。
泣く権利なんてないと思った。
やり直したいけど、世の中そんな甘くない。
自分の甘さにただただ情けない。
人に道を聞くときには自分より弱そうな人間に声をかけるって聞いて
道で声をかけられて、道を聞かれた時に
あぁ、オマエ弱そうってバカにされているのかなぁとふと思う。
もちろん、そんなことを思う必要性はないんだろうけど。
でも、何でそんなことを言ったのか良くわからない。
そう思うことがある。
Twitterで某予備校の数学講師をフォローしているが、その人はまさに聖人君子のようで、他人の幸せを願えない人なんか信じられないと言っていた。
友達の嬉しい出来事や他人の楽しい出来事、または素敵な未来を願うようにはしている。
心から喜んだこともある。
もちろん他人にそれを感づかせることはしない。
こんな嫌な人間なんだなあって気がついて、鬱々としている。
育ててくれた母さん父さんごめん。
萌えキャラにすべきではなかった。
例えば、「鉄道むすめ」のように、
それを、海女自体が性的要素を色濃く持った存在として扱われてきたのに
(『潮騒』なんかその最たるもんだよね)
そりゃー海女本人は嫌だわね。
相手を傷つける。
財布に入れとくと金運上がるよ!って言われた。
その友達は初めて彼氏ができて浮かれていたのと、中学2年だったのもあって、勢いでコンドームをくれたんだと思う。
財布に入れようとしたらうまく入らなかったので、学校のカバンに入れといた。
1週間くらい入れっぱなしにしといたと思う。
ファイルや漫画の出し入れをしているうちに落としたんだろうか。
親に見られたらどうしよう…
そう思いつつ日々は過ぎていって、結局コンドームは見つからなかった。
親が見つけたかどうかは恥ずかしくていまだに聞けていない。
いつも自演しているけどね。
「不細工だとなぜつらいのか」を考えていけば自ずと答えは出る。
実のところ男はそんなに顔なんか見てない
いや、男が言い寄るのは当然ながら外見のいい人なわけだが、
"言い寄られる"分には不細工でも構わないのだ
男から言い寄られることさえ諦めて言い寄るようにすれば普通に彼氏ができる
→鏡を見て絶望する
オレはイケメンだからその辺の苦労はわからんが、ナルシストになる努力をすればいい
がんばれ
元増田です。どうやら 8/6 更新のバージョン 1.12.0 では「Kindle for PC」で
ページ送りしても拡大率がリセットされないみたいです。
(目次からジャンプするとリセットされる。これはまあ妥当な仕様かな)
「アーティストは政治的主張を行うべきではない」、「作品で語れ」。
なにもかも職人偏重文化のせいだとおもう。与えられた枠内で技術を研ぎ澄まし、寡黙にプロダクトを作り続ける「職人」への憧憬。それをアーティストにも適用してしまったことがそもそもの悲劇だ。
日本のアーティストは根っこの部分で表現者であることを求められてはいない。製造者たれ、ということだ。なんだってプロダクト扱いしてしまうのだ。美術品は金銭に還元できるものであり、究極的にはコンビニで売っているヤマザキのクリームパンと等質であると信じて疑わない。
なので、先日のオリンピックエンブレム問題を見てもわかるとおり、高度に訓練されたデザイナーやデザインはリスペクトされない。
日本人の美意識は今後百年、楽天の通販サイトから一歩も前へ出ないだろう。
ところで「アーティストなら作品ですべてを語れ」という言説は一見かっこ良く、筋が通っているように思われる。
ひとつは、表現活動はストレートに言語化できない領域を扱っている場合が多い、ということ。
明確なテーマや社会的政治的なメッセージやイデオロギーが作品内で直截的に説明されている作品や作家も世の中にはある。
しかしエンターテイメントの分野においてはリーダビリティの都合上、そうした主張は糊塗されていることが多いし、アート作品ならばそもそも既存の言説言語では語りえない(表現者自体の言語能力はさておき)ことを表現したがったりする。
ありきたりな言葉でいえば、数行のセンテンスで説明できる内容ならそもそも小説や絵や漫画や映画や写真や音楽などにせず、論文なりtwitterなりで発表するはずだ。そして、現にそうしている作家も少なくない。政治的なアーティストたちは、単に媒体ごとで最適かつ合理的な伝達形態を選択しているにすぎない。
だというのに、バカは不合理を強いるのが好きだ。
もうひとつは、作者にはテーマが選ぶ自由がある、ということだ。
あなたが政治的なレベルでピーマン嫌いだとして、戦国時代を扱った作品でピーマンの栄養学的劣位を述べる必要はまずない。
表現者の義務は自分のすべてを伝えることではけしてない。むしろ、自分の要素のうち何を削ぎ落とすかが重要になってくる。これも伝達における最適化の問題だ。さきほども言ったように、簡単に言語化できる政治的言説を人びとに伝えたいのであれば、それはそのまま作品を通さずに主張するのが合理的なのだ。
ぎりぎりまで絞った作数を重ねるうちに、全体を通じてひとつ芯の通ったテーマが浮かび上がってくることもある。その芯は作家性とも呼ばれる。だが、残念なことに作家性はたいがい作家個人のコンプレックスやトラウマに直結している。社会性などない。
選ぶのは自由なので、もちろん、社会的なメッセージ、政治的なメッセージを作品を通じて生に近い状態であれオブラートにうまく包んであれ発信する作家も多い。それは彼らがそうした方が受け手に伝わりやすいと判断したからだ。やはりそれも作家個人における選択の問題であって、乱暴なアフォリズムで普遍化されるべきものではないんですよね。
そんなことは言ってねーじゃん。
結婚式なら、思う存分幸せトークをしろよ。無視するだけだから。
いじめしてましたゴメンナサイ、今幸せです。っていうのをヤメロってだけだ。
謝ってんだか、傷口に塩を塗りたいんだかわからない。
謝るんなら謝れよ。
自慢するなら自慢しろよ。
他人の幸せぐらい、祝福しなきゃいけないってのはわかってるよ。
そんな話じゃねーよ。
『そんなあやまり方をしたら、ヘタしたら相手を傷つけるって話だ』
「私は幸せだ、恵まれている」(・・・と思いたい。信じたい。でありたい。)
という後ろの部分を省略した形だったりすることも多い。