2015-08-08

作家はあらゆることを作品だけで語るべき」というアホで乱暴な主張について

 「アーティスト政治的主張を行うべきではない」、「作品で語れ」。

 なにもかも職人偏重文化のせいだとおもう。与えられた枠内で技術を研ぎ澄まし、寡黙にプロダクトを作り続ける「職人」への憧憬。それをアーティストにも適用してしまったことがそもそもの悲劇だ。

 日本アーティストは根っこの部分で表現者であることを求められてはいない。製造者たれ、ということだ。なんだってプロダクト扱いしてしまうのだ。美術品は金銭に還元できるものであり、究極的にはコンビニで売っているヤマザキクリームパンと等質であると信じて疑わない。

 なので、先日のオリンピックエンブレム問題を見てもわかるとおり、高度に訓練されたデザイナーデザインリスペクトされない。

 日本人の美意識は今後百年、楽天通販サイトから一歩も前へ出ないだろう。

 

 ところで「アーティストなら作品ですべてを語れ」という言説は一見かっこ良く、筋が通っているように思われる。

 しかし、この主張にはある重要な前提が二点抜け落ちている。

 ひとつは、表現活動ストレート言語化できない領域を扱っている場合が多い、ということ。

 明確なテーマ社会的政治的メッセージイデオロギー作品内で直截的に説明されている作品作家も世の中にはある。

 しかエンターテイメントの分野においてはリーダビリティの都合上、そうした主張は糊塗されていることが多いし、アート作品ならばそもそも既存の言説言語では語りえない(表現者自体言語能力はさておき)ことを表現したがったりする。

 ありきたりな言葉でいえば、数行のセンテンスで説明できる内容ならそもそも小説や絵や漫画映画写真音楽などにせず、論文なりtwitterなりで発表するはずだ。そして、現にそうしている作家も少なくない。政治的アーティストたちは、単に媒体ごとで最適かつ合理的な伝達形態を選択しているにすぎない。

 だというのに、バカは不合理を強いるのが好きだ。

 

 

 もうひとつは、作者にはテーマが選ぶ自由がある、ということだ。

 あなた政治的レベルピーマン嫌いだとして、戦国時代を扱った作品ピーマン栄養学的劣位を述べる必要はまずない。

 表現者義務自分のすべてを伝えることではけしてない。むしろ自分の要素のうち何を削ぎ落とすかが重要になってくる。これも伝達における最適化問題だ。さきほども言ったように、簡単に言語化できる政治的言説を人びとに伝えたいのであれば、それはそのまま作品を通さずに主張するのが合理的なのだ

 ぎりぎりまで絞った作数を重ねるうちに、全体を通じてひとつ芯の通ったテーマが浮かび上がってくることもある。その芯は作家性とも呼ばれる。だが、残念なことに作家性はたいがい作家個人のコンプレックストラウマに直結している。社会性などない。

 選ぶのは自由なので、もちろん、社会的メッセージ政治的メッセージ作品を通じて生に近い状態であれオブラートにうまく包んであれ発信する作家も多い。それは彼らがそうした方が受け手に伝わりやすいと判断たからだ。やはりそれも作家個人における選択の問題であって、乱暴なアフォリズム普遍化されるべきものではないんですよね。

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