はてなキーワード: 生主とは
主義主張ってものは集団化して攻勢に出るものだって思ってるのが間違い
反出生主義は
「反」 「出生」 主義 だよ
「滅」でも「破」でもなく「反」なので理論上存在してるだけの主義
個人がそう思うんだよね以上の事はない
生まれようとするものとか生むこと自体についてどうのこうのって主義じゃない
「生まれてこない」ではないのは「生まれる命として形成されたことがある程度確認された上で、生まれてこなかった(これなかった)」ものに対する思考のまとめ
が「反出生主義」なの
親族(両親の兄弟姉妹)に障がいを持っていた経験のあるアラサーです。
あなたの言いたいことはよく分かる。
知的障碍は多くのコミュニティで嬰児殺の対象とされてきたのではないかと思う。
実際に、優生保護法によって手術は行われていたし、周囲に隠すのも当たり前な時代。
私の場合、当人は身体的な部分であったので周囲の介助で何とかなりました。
昭和前半生まれにしては裕福な家庭だったようで大学まで行って、家業の経理を担当をしていたそうです。
ただ祖父母の話を聞くに、当人の兄弟姉妹たちの縁談では非常に苦労したと語っていたのを思い出します。
自分の地域では多少人権意識が進んでいたのか、いわゆる特別学級が隣だったこともあり
当人が生まれた当時、幼少時代を考えると非常に大変な思いをしたのだろうと感じていました。
身体的な障がいに関しては、古くから按摩さんに始まり社会の中で活躍する場があるし用意できるでしょう。
ただ、知的な面においては、勿論憲法で規定されているということは理解しているつもりでも
当人の為にも、周囲の為にも、社会の為にもならないのではないか、というのは個人的感情では思います
自分も半出生主義とまではいきませんがパートナーと子作りに消極的なのはそこが大きい気がします。
それを、一家族、一個人に任せていいのか、という思いがあります。
行政の支援があるとか、そういう話ではないのです。産んだ責任、とされるのが怖いのです。
ミサンドリストや夜職や反出生主義者がフェミニストにカウントされてるのがまずおかしいと思ってるんだけど、こいつらは弱者女性なのでそれなりにボリュームのある層であり、尚且つ攻撃性も高い集団なので、もしこいつらはフェミニストじゃないと切断処理をするとそいつらも敵に周り、フェミニズムは今より厳しい闘いを強いられるために、斬り捨てることができない。フェミニズムは内部の癌によって潰されつつある。
投稿者は、3年間付き合った彼との別れを悩んでいます。主な理由は、結婚や子供に対する将来の方向性の違いです。投稿者は27歳の女性で、東京都内で中小企業に正社員として働いています。彼は反出生主義を掲げ、子供を絶対に持ちたくないと考えています。
投稿者自身も以前は出産に対してネガティブなイメージを持っていましたが、最近になって子供を持ちたい気持ちが芽生えました。彼の発言や考え方に違和感を感じ始めており、結婚や出産を考えると彼との将来が見えないと感じています。
彼の優しさや慎重さ、一人の時間を大切にする姿勢などに魅力を感じる一方で、彼の考えを変えることはできず、別れを考えるのは独りよがりだとも感じています。最終的にはどんな選択をしても、自分の人生に責任を持つしかないと理解しています。
その根拠でもある増田の過去編は https://anond.hatelabo.jp/20240506065437/ に書いた。
それはそうとして、そのように生きてきた弊害からか、「この世は私にとっての安寧の地ではない」と感じるようになった。
希死念慮や自殺願望ではなく、「生きるのがつらいから◯にたい」ではなく、本当に私はこの世に自分の居場所はないと思っている。
というか、誰しもないのでは?とすら思う。
私は私の人生の苦しさしかわからないが、少なくとも私はあの世からこの世に派遣された調査員あるいは流刑にされてあの世からやってきた囚人だと思い込むことで自我を保っている。
あるいは媒体。
精神としての私の居場所はどこにもなく、ただ媒体としての私がこの世にはあるだけだと気付いた。
付随というか、結局は各々の問題を家庭(笑)という民間の空間へ委託しているといってもいい。
少なくともこれまでの人生において、家庭(笑)の問題については、公的な第三者に助けられたことはほぼないと思う。
税金を納めるほどではない、どちらかと言えば税金のお世話になる可能性の高い人間がいっちょまえに社会的に何かしたいと思ったがゆえの生存戦略が子作りであり、言わばセルフケツモチ製造なのである。
国もその子供が健常に育てばそいつら(親)を税金で面倒を見る必要もなく、相互扶助の名目の元、後処理を押し付けられる。
問題は、そのようになった子供も同じことを繰り返してしまう可能性があることだ。
ちなみに私は全く反出生主義者ではなく、この事実を嘆きたいだけだ。
圧倒的知能か恵まれた環境にあれば別だが、悲しいかな、人間は知能による公平さのジャッジよりも前に自分が受けた分の苦しさを取り返してやろうという感情が先に来るだろう。
話は戻るが、要は媒体として、支配対象としての子供から20歳を機に搾取対象の成年後見人へ。
それどころか義務・罪・罰等は何もしなくとも来るのに、権利・功・賞等は能動的に動かないと得られない。
「親の扶養義務(笑)」「共助(笑)」「扶養(笑)」「相続(笑)」。
仮にそれも考えて親が私を作って死なせない程度に育ててきたのだとしたら、天才だと思う。
仮に婚姻で救われたとしても隷属先が変わるだけに思えてならない。
詳細は伏せるが、現在進行系で親の尻拭いをしている。
きょうだい児を召喚する親もいれば子供を成年後見人として召喚する親もいる。
言っちゃ悪いが、Xでよく見る、自分も障がいのあるのに、子供を作って愚痴を吐くアカウントで確信した節もある。
私は比較的人付き合いも避けながらも何とか生きてきたため、恥ずかしながら精神疾患の世界も逆に上流階級のこともわからないが、一般的に子供を作る前に自分の社会的な自立が先な人間も子供を作ってしまうのは、彼らには恋愛や性行為がセラピーとして作用してしまっているがゆえの結果と、相対的に自分よりも下の人間が作れる画期的な手段が子作りだからではないかとも思う。
反出生主義はどこかで「それなら俺も今すぐ死ぬべきなのか?」でハムレットループを起こして自浄作用というか客観的冷静さをそれなりに回復できるけど、出生主義にはそういうブレーキが内蔵されてないから「出生最高!出生最強!出生は絶対正義!」で無限にメーター上げていってしまうから
まず反出生主義には、アンチ「出生主義」と、「アンチ出生」主義の2つがある。
そして日本語の「主義」という言葉自体に大まかに「国家や地域の運営方針」「個人もしくは集団の主張・思想」の2つがある。
の2つが存在するわけだ。
そしてこの2つも別に「子供を沢山増やすと国家がたち行かないぞ(一人っ子政策)」 「人間が存在していることが間違っている(ある主の原罪思想)」の2つだけという訳じゃない。
特に主張や思想は多岐に渡り「人生で得られる幸福を不幸が上回ってるから産まれてこない方がマシ」 「セックスはキモいからこんなことをするぐらいな滅んだほうがマシ」 「親ガチャ時代ガチャといった理不尽を子供が許容できる事前承認も得てないのに生命を作るな」 など個々人ごとの多様な考えが展開されている。
そしてこれがアンチ「出生主義」になると出生主義自体をどういうものとして捉えるのかについての議論が始まり更に状況は混沌とする。
なぜなら「出生主義」自体が上にあげた「アンチ出生」主義の様々なパターンを持っていうえに、それに対してアンチテーゼや対立政策を投げかける理由もそれぞれで違うからだ。
つまり、「A」を批判するために「B」を持ち出すという状況における、「A」「B」の中身がそれぞれいくらでも存在しており組み合わせ無限大状態なのだ。
「反出生主義」と一口に言ったときに、それが何を意味しているのかを整理しなければ全く別のものについて皆で議論することになるわけだ。
こんなのは「田中ってヤバいよな」といきなり語りだして、どの「田中」を指しているのかを誰も確かめることなく延々語り合うようなものだ。
話す内になんとなく「あれ?俺の考えてる田中と違うんじゃね?」と違和感を覚え、確かめてみたら結局全員が違う「田中」について愚痴や擁護をしあっていたという虚無空間が誕生する未来は確定事項とさえ言える。
マジで、何度でも言うが、「反出生主義について語りだすときに、その反出生主義の内訳を最初にちゃんと定義しないやつは相手にする価値のない馬鹿と断じてしまって問題ない」が現状だ。
同意なき性行為は強姦だし、同意なき買収は敵対的買収だし、現代では基本的に何をするにしても同意を取ることを求められやすい。
仮に逮捕や刑務所への収監のような原則ベースの人権侵害行為の場合でも、国民による立法によって社会的合意を形成した上で行われる。
だったら出生も同じことで、法律ベースの合意や、出生されるあかんぼう本人の同意を得るべきだと考えている。
実際には法律で白か黒かにしたら社会体制終わるし、生まれる前のガキに同意取れるわけないので本当に実現されたら困るのだが、思想としてはそうなのだ。
一応個人的には正解として「人格データも含めた既存の人間のクローン生産」というのはある。
要は生きてる人間に同意取ってそれを複製すればよくねえかって話。
うわ反出生主義者だ(^_^;)
私は普段反出生主義と安楽死合法化を推進するゴリゴリの過激思想をやっているのだが、それを見た人からしばしば「厨二病じゃん、思春期のうちに卒業しておきなよ」と言われる。
残念ながら、私が患っているのは厨二病ではなく自閉症と二次障害(双極性障害だったり統合失調症だったり診断名は何転かしている)というマジの精神疾患だ。
自閉症の特性ゆえの視野狭窄で小学生の頃から思想は尖り続ける一方だった。多感な思春期に二次障害を併発してからは、主に躁状態のときに思い浮かんだ攻撃的な思想が寛解期や抑うつ期にも正しく思えるようになり、いっそう反社会性の増す思想になってきた。
自分の中でもこんなヤバい主張は精神疾患から来るものだという客観性はまだあるものの、一方で先天性の発達障害を自分の人格と切り離して考えることも難しい。
「この思想は反社会的で悪であり、それを考えさせたのは脳の異常だが、異常者にも思想の自由はあり、これは私という人間が人権を行使して主張したい思想だ」という面倒なロジックで自我を保っている。
私のような過激な精神異常者が「厨二病」というマイルドな言葉でいなされるのは大いに平和的だが、完治のない精神疾患に気軽に「卒業」を要求されても困る。健常者は思春期以後丸くなっていく人も多いだろうが、私のように障害が原因で就職で詰むなどして孤立や貧困に向き合うと、加齢と共により過激な思想に傾倒せざるをえないのだ。
こんな異常者を人として生かし続けるというのなら、病人の戯言と受け流さずに私という個人の思想も聞くのが政治と福祉ではないのか。