はてなキーワード: 少林サッカーとは
町山智浩が発した「女性差別発言」の一つとして有名なものが「女の子が急にマニアックなこと言い出したら、たいてい男の影響。 (2013-2-18 06:30:23)」と云うツイートです。
この発言からは、町山智浩の根底に「女性は主体的に何かを発見して選択する能力が欠如している」という考えが存在することが、如実に見て取れます。
柳下毅一郎との共著『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』を読むと「中身が空っぽの映画を、配給会社や広告代理店が薄っぺらいキャッチコピーで盛んに宣伝することで、それを鵜呑みにした女性観客が劇場に足を運ぶ」と云う類いの主張がなされる場面に度々出会います。例えば「『タイタニック』を観に来た若い女性観客は、レオナルド・ディカプリオの演じる登場人物がクライマックスで死ぬのを見て『ウソー!』とビックリする。予告編を観れば死ぬことぐらい予想がつくだろ!(=つまり町山智浩らは「女性観客にはそれを予想する脳味噌が無い」と言っている)」と云う具合いです。
要するに、町山智浩らは「配給会社や広告代理店に騙されるのは、いつも女」であり、「雑誌『映画秘宝』が気に食わないタイプの映画が世間でヒットしてしまうのは『馬鹿な女たち』が原因」であり、「男女や親子が一緒に観に行くデート映画やファミリー向け映画も、女の好みに合わせた結果つまらない作品ばかりになった」と、そう主張するのです。
その一方で「馬鹿な広告代理店や一般的なマスメディアを活動拠点とする評論家は理解していないが、映画『○○』は本当は✕✕なんだよ!それを指摘しているのは俺たち(『映画秘宝』)ぐらいなもんだよ!」とか「映画『○○』が流れている劇場にいるのは『映画秘宝』読者だけ(或いは、劇場に行ったら中原昌也とか藤木TDCに出くわした)」とか「周囲の観客が泣いている中で笑っているのはオレたちだけ(この逆に、周囲は笑っているのにオレたちは泣いていたと云う『少林サッカー』パターンもある)」と云う、典型的な「オレ(たち)ってフツウじゃないゼ」アピールも度々出てきます。「本当は✕✕!」という言い回しが好きですよね。
こうすることによって「『馬鹿な女ども』とは違い、『オレたち(=ボンクラ男子)』はモノが分かっている(=『映画秘宝』的な価値観を良く学習出来ている)」「オレたちは『本質』を見抜いている『仲間/同志』だ!」と云う「選民意識」と「自己陶酔」のカルト集団的な感覚を『映画秘宝』読者に与えていた訳です。
ところで、私がこの「雑誌『映画秘宝』の記憶」と題する一連の文章をはてな匿名ダイアリーに投稿したところ、或るブックマーカーからコメントで複数回「過去の『映画秘宝』で、そんなに自己陶酔している記述箇所が有ったか?」との疑義を呈されました。上で挙げたような町山智浩らの芸風と、それを熱烈に歓迎していた当時の『映画秘宝』ファンの姿と雰囲気。もしも、それをリアルタイムで見知った人に「あれは『自己陶酔』ではなかった」と否定されてしまうのであれば、これはもう私としては「見解の相違ですね」としか言えません。自己陶酔は「オレ(たち)は『スゴい』!」と云う直截的な形だけではなく「こんなボンクラ映画が大好きなオレ(たち)って本当に『ダメ』だよな〜」と云う、一見さも「へりくだった」ように見える『自虐』と云う形式を取って顕れる場合もあると私は考えています。町山智浩ら『映画秘宝』が行う「オレたちオトコってのはさ〜、『バカ』な生き物なんだよ。だから許してよ〜」と云う芸風と、それを支持した読者たちは、本人たちとしては「分かった上で『バカ』を演じている(いた)」つもりかも知れませんが、これも傍から見れば、立派な『自己陶酔』だと私は思います。「自虐」は「オレ(たち)はスゴい!」の裏返しなのです。しかし、一部とはいえ『映画秘宝』ファンらしき人から「自己陶酔は無かった」と言われたので、私は正直ビックリしました。自覚が無かったのですね。
それでも「『自己陶酔』と言われることには抵抗が有る」のであれば、代わりに『甘え』と言い換えましょう。「オレたちオトコは、ボンクラ映画好きだからさあ」とホモソーシャルな価値観と物の見方を持ち出して酔い痴れ(=『陶酔』)ながら「だから、オレたちのするバカを許してね」と「女性と云う他者」に甘える(=負担を強いる)ことを続けてきたのが、町山智浩ら『映画秘宝』及びボンクラ信奉者たちの真の姿です。そして、そんな風に「オレたちは『こんな感じ(=ボンクラ)』だからさ〜」と甘え続けて行き着いた果てが、前・編集長の岩田和明による恫喝DM事件の発生です。目を逸らしてはいけません。もう、これ以上『バカ』や『ボンクラ』を言い訳にして「女性に甘える」のは止めませんか?『自己陶酔』に気づかないふりをするのも『甘え』だから止めませんか?そうでないと、また恫喝DM事件のような大失態が繰り返されかねません。
それにしても、上で挙げた例に出てきた「ディカプリオが死ぬ場面にビックリする女性観客」は、実在したのでしょうか?何だか私には、町山智浩らが「女性観客は愚か者である」と主張するために、都合よく頭の中だけで拵えた『藁人形』なのではないかと思えます。
実際は、女性観客にも「馬鹿な映画、底抜け大作、広告代理店の嘘八百宣伝と百も承知の上で、わざわざ観に行く『物好き』な人たち」は少なからず存在するのではないでしょうか。彼女たちは、自らの意志でそれを選択しているのです。ただ、町山智浩らには「女性たち自身の意志」が存在することに我慢がならないのだと思います。
町山智浩らの言う「騙されるのは、いつも女」「それとは違い、オレたち男は『真実』に気づいている」と云う考え方や主張は、ひどく「古臭い」と私には思えます。と言うのも、これらの考え方は結局のところ、キリスト教の「エデンの園で蛇の誘惑に騙されたのは女であり、男を唆したのも女だった」や仏教の「女は悟りの障碍になる」と云う、古来の考え方を焼き直したものに過ぎないとしか思えないからです。
ご存知のとおり、恫喝DM事件が発覚した後に新体制となった『映画秘宝』では、のん(能年玲奈)さんの連載が終了することが告げられました。のんさんが誌上で『この世界の片隅に』の主人公すずさんの姿に扮したのはまだ理解できましたが、何の関わりも無い『ワンダーウーマン』の主人公のコスチュームに身を包む彼女の表紙を見て「何だか着せ替え人形みたいに扱われてるなあ。のんさん本人が喜んでやっているならば別に構わないけど」と私は思っていました。しかし、このたびの騒動でのんさんの連載が迅速に終了したところを見ると「やっぱり本当は彼女も、心の底では嫌がっていたんじゃないのか?」と穿った見方をしてしまいます。冷や飯を喰わされていた状況下で『この世界の片隅に』を大々的にプッシュして応援して貰ったという義理も有ると、なかなか断り辛かったことでしょう。のんさんみたいな大物女優がリクエストに応えてくれることは『映画秘宝』のボンクラ男たちにとって、さぞかし快感だったことでしょう。もしも仮に「オレたちはボンクラだからさ〜、こういうのが好きなんだよね〜」と、岩田和明らがのんさん相手に甘えていたとしたら?
散々「美少女アニメは、オタクの幼稚な性欲を満たす為のポルノ!」と攻撃していたくせに、その実は『映画秘宝』自ら、自分たちのボンクラ願望を満たす為に、本物の女性を使って着せ替え人形遊びに耽っていたとするならば、それは美少女アニメ趣味よりも遥かに幼稚で醜悪な姿ではないでしょうか。真相は如何に?
冒頭に挙げた町山智浩の「女の子が急にマニアックなことを言い出したら、たいてい男の影響」という発言は、町山智浩の自己を勝手に他者に投影したものに過ぎないのでしょう。おそらく、町山智浩自身に「自分は女性の影響で何かマニアックなことを急に言い出した」と云う経験と自覚が有るのだと思います。町山智浩にとっての「マニアックな事」は何でしょうか?そういえば、一時期から町山智浩は、熱く「恋愛論」を語るようになったと記憶しています。何故か今はパッタリと語ることを止めたようですが、結局あれは何だったんでしょうね?まさか「女性の影響」だったんでしょうか。
舎弟の高橋ヨシキやてらさわホークも近年、付け焼き刃っぽいポリコレ的な言動を見せるように変化しましたが、あれも「女性の影響」でしょうか?高橋ヨシキとてらさわホークも、自分たちよりも年齢の若い、女性のアメコミ翻訳家と一緒に仕事をするようにもなりましたから、仕方が無いですね。でも、高橋ヨシキなんか『チーム・アメリカ』の「ポリコレなんぞクソ喰らえ!」的な内容と姿勢を称賛していたはずなんですけどね。まさか、過去の振る舞いを無かったことに出来ると思っているのでしょうか?
もちろん「他者から影響を受けて変化すること」自体は、別に構わないと私も思うのです。ただし、それが「相手の歓心を買う」ことを目的とする「表面だけの底の浅い変化」でなければ、の話ですが。
しかし、古株の元『映画秘宝』読者の目から近年の町山智浩や高橋ヨシキを見ていると「単に女性の歓心を買うのが目的なんじゃないか?」という疑念が拭えないのです。だって、彼らの言動からは滲み出ているでしょう?「自分たちボンクラのコントロール下に置けない女性に対する怖れや侮蔑」の感情が。
事件当時ロマン・ポランスキー監督は不在で(映画でもその通り)、犯人たちに襲われていない。
現在も存命で去年も作品を出している。(少し昔の作品だが、戦場のピアニストはかなり話題になった作品)
しかも殺人犯とは何ら関わりがなく、以前に引っ越した住人と勘違いされて彼女らは殺された。監督らの素性は事件に関係がない。
この映画が救ってみせたのは監督ではなくその妻、シャロン・テートだ。
劇中でも説明される通り、当時売り出し中の女優で、監督との子供を妊娠中だった。
この映画ではシャロン・テートの魅力的な姿が何度も描かれ、しかし最終的にディカプリオが彼女の家に招かれる場面ではインターホン越しでのみ会話し、ディカプリオと同じフレームには映らない。
とても誠実な描写だと思う。
実行犯に殺害を指示したチャールズ・マンソンは額に鉤十字のタトゥーを入れているが、タランティーノは過去のイングロリアス・バスターズで憎きナチの額に鉤十字を刻んだ。(ちなみにこのナチ将校役の俳優がポランスキー監督の映画おとなのけんかで主演してる)
そしてイングロリアスバスターズでは「映画を使って」ナチどもを焼き殺したように、この映画でもマンソンの手下を「映画の小道具を使って」焼き殺す。
1969年は「ロックが死んだ年」ともいわれ、アメリカにとって大きな節目だったことには違いがない。
しかし監督のタランティーノは「ハリウッド監督」ではないし(アメリカ映画=ハリウッド映画ではないのがややこしい)、彼はハリウッドやアメリカなどメインストリーム以外の映画も浴びるほど見ていて、それこそ中国や香港や日本などアジアの映画に多大な影響を受けた人間である。
キルビルが急遽テイストの違う二本立てになったのも、チャイニーズ・オデッセイという香港映画の影響である。(チャイニーズ~は一作目がコメディで、二作目が恋愛もの)
(タラがオールタイムベスト一位に挙げている続・夕陽のガンマンもイタリア産のマカロニウェスタンでアメリカ映画ではない。ちなみに監督のセルジオ・レオーネが撮ったワンスアポンアタイムインアメリカも長いけど大変な名作。セルジオ・レオーネ監督の大ファンでもあるし、タイトルからもわかる通りタランティーノはかなり影響を受けている。~インアメリカについては、ラストのデニーロの微笑みの解説を見ると、また味わいが増す)
ブルース・リーの話が出てきたが、タラはキル・ビルでは死亡遊戯の衣装を真似し(何の説明もなく出てくる「カトーマスク」も、グリーンホーネットでブルース・リー演じるカトーがつけていたマスクのこと)、主人公ブライドの使う技はブルース・リーのワンインチパンチで、必殺技は(ブルース・リーに影響を受けた)北斗の拳の技のようだ。オーレン石井へ敬意を示す闘いは、ドラゴンへの道のチャック・ノリス戦を思い起こさせる。
キルビルで描かれる復讐や暴力の虚しさは、燃えよドラゴンでブルース・リーが奇妙な泣き顔で表現したのと同じものだ。
そして敵役のビルには、ブルース・リーのドラマ企画を奪った俳優デヴィッド・キャラダインを配している。
タランティーノは、そういう監督なのである。ちなみにブルース・リーの主演が叶わなかったドラマ企画が、ちょうどワンス~の時代の頃の出来事でもある。
ちなみに、キルビルが前後編になった元ネタのチャイニーズ・オデッセイの主演はチャウ・シンチー(少林サッカーが有名)であるが、彼もまたブルース・リーマニアだったりする。(ドラゴン怒りの鉄拳のパロディや、少林サッカーやカンフーハッスル等、ブルース・リーネタ多し)
少し脱線するが死亡遊戯という映画もまた、「ブルース・リーという俳優の死後に、彼が生きているかのように撮られた」特別な作品で、その点がワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドと共通している。
(すでに香港ではスターだったが)ブルース・リーもハリウッドでの売り出し中にこの世を去った人なのだ。(ワンス~劇中でシャロン・テートが自分の映画を見るシーンがあるが、ブルース・リーは燃えよドラゴンの公開やそのヒットを目にすることがなかった)
ちなみに作中で喧嘩していたブラピ本人もブルース・リーおたくである。楽しかっただろうなあ。(ファイトクラブでの物真似が彼のアイデアというのは有名)
あとワンス~作中のブルース・リーが調子こいてるのは、実際の彼がああいうキャラだったためでむしろファンとしては大喜びするポイント。(ブルース・リーの物真似をするときは、顎をしゃくって半目で相手を文字通り見下したように眺める。服のセンスも、実際にああいうチンピラのようなダサいファッション)
何より、タランティーノは「超」がつく映画狂で、大げさではなく映画から人生のすべてを学んだような人間だ。
あらゆる映画を吸収し、現実にはモテないスーパーボンクラだったくせに、(映画からの知識だけで)玄人好みの渋い「中年の恋愛映画」すら物にしてしまう監督である。
落ち目だった俳優を「自分が好きだから」という理由で起用し、劇的にカムバックさせたりと、フィクションの力で現実を変えたこともある。
(※ネタバレ注意:この俳優とはジョン・トラボルタのことだが、タランティーノの好きな某映画ではヒロインを救えず、せめて「映画の中だけで生かす」ことを選ぶ。言うまでもなく、ワンス~を思い起こす)
(というよりもともと映画そのものが、亡くなった俳優の生きている姿を見られるタイムマシンのような装置なのだろう。そういう評論はよく見る)
そして、前述のイングロリアスバスターズではユダヤ系の、ジャンゴではアフリカ系の観客の心を、荒唐無稽なフィクションで熱く揺さぶった。
ヘイトフル・エイトでは差別主義者と黒人の和解をそれこそ「フィクション」という小道具を介し、素晴らしい形で描いてみせた。
日本ではネタにされがちなキルビルも実に真面目な女性映画である。「五点掌爆心拳」などという冗談のような技で、男女の歪な恋愛関係を誠実に描いたのだ。この映画では男はみな弱くて使えず、女性は強く逞しい。
(タランティーノは「強い女性」を描く監督としても有名だ。殺人鬼の変態スタントマンが、女性スタントマンたちにボコボコにされる映画デス・プルーフも撮っている)
タランティーノはフィクションの虚しさも当然知っているだろうが、同時にフィクションの力を強く信じている人間でもあるのだ。
(ちなみにデス・プルーフの主演であるゾーイ・ベルはキルビルでユマ・サーマンの「スタント」をしていた女性で、ワンス~にも出演。例の「ブルース・リーとの喧嘩」で車を壊されたひと。死亡遊戯→キルビル→ワンス~と考えてみても面白い)
(ディカプリオについては、ある種かなり本人に近い役。若手時代から演技力が高かったのに、レヴェナントで受賞するまでアカデミー賞からは長年ずっと無視され、色んな人に揶揄されてきた。アカデミーに無視されてきたのはタランティーノも同じ)
もちろんワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドは、ハリウッドやその他の「アメリカ黄金時代」への郷愁が詰まったお伽噺ではある。