はてなキーワード: 1989年とは
http://www.youtube.com/watch?v=Xxh-sS8Qoco&feature=player_embedded
1911年12月14日 ロアール・アムンセン、南極点に到着。
1914年6月28日 サラエボ暗殺事件から第一次世界大戦勃発
1915年4月22日~1915年5月25日 初めて毒ガス使用
1916年2月16日~1916年12月20日 ベルダンの戦い
1919年1月5日~10日 スペイン風邪の流行が頂点
1921年11月9日 アルベルト・アインシュタイン ノーベル物理学賞受賞
1922年10月27日~31日 ベニート・ムッソリーニのローマ進軍
1927年3月20~21日 チャールズ・リンドバーグがパリへ向け飛行
1928年11月18日 蒸気船ウィリー初演(ミッキーマウス初登場)
1929年10月29日 1929年のウォール街大暴落「暗黒の木曜日」
1930年6月30日 第一回サッカーワールドカップ(ウルグアイにて)
1932年 ワイマール共和国崩壊
1934年10月27日 毛沢東の長征
1939年9月1日 第二次世界大戦勃発
1942年9月13日~1943年2月2日 スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦い
1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦(オペレーション・オーバーロード)決行
1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判
1951年 朝鮮の人口?
1954年6月4日 西ドイツがワールドカップで西ドイツが優勝「ベルンの奇跡」
1956年10月29日~1957年3月 スエズ危機(第二次中東戦争)
1959年1月1日 キューバ革命の勝利
1961年10月27日 チェックポイント・チャーリーでの対峙(ベルリン危機)
1964年8月2~4日 ベトナムでアメリカ爆撃される(トンキン湾事件)
1967年6月5日~10日 六日戦争(第三次中東戦争)
1970年4月 カンボジア侵攻
1972年9月5日 ミュンヘンオリンピック事件
1973年10月6日~26日 ヨム・キプル戦争(第四次中東戦争)
1977年3月27日 テネリフェの惨事(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故)
1981年3月30日 ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件勃発
1985年3月11日 ミハエル・ゴルバチョフ氏、ソビエト共産党書記長に就任
1988年12月21日 ロッカビー事件(パンナム機爆破事件)
1990年8月2日~1991年5月5日 「砂漠の嵐」作戦(第1次湾岸戦争)
1992年4月1日~1995年12月14日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1997年7月4日 マーズ・ローバー(火星探査車) 火星に着陸
2000年1月1日 ミレニアム
2001年9月11日 911攻撃(アメリカ同時多発テロ事件)
2005年8月29日 ハリケーン・カトリーナ ニューオリンズを破壊
2008年10月 金融危機
2010年4月20日 メキシコ湾原油流出事故 ディープウォーター・ホライズン炎上沈没事故
2012 ?
10分どころか、6時間くらいかかったorz
それに、作ったの多分アメリカ人だから、日本にとっての重大事件(オウムとか)は入ってないんだよね。ハイチ地震があるのに、阪神・淡路大震災がないのも明らかに片手落ちでしょう。
(調べてみたら、どちらもM7クラス)
大阪駅の一風堂当りで演説してる人からただでもらったので読んでみた。
ひとことで言うと「大人のためのセカイ系中二病のススメ」という感じ。
誤解がないよう、本の内容の前にwikipediaを引用しておく。
設立当初は霊言集の刊行などによる「霊知識」の普及を中心とした啓蒙活動が展開され、信仰に関することが説かれることはあまりなかった。後に、教団内で組織ができるようになるが、多くの会員は入会する前に持っていた信仰に従い、会を指導(支援)しているとされた「高級霊」(例:日蓮宗系の人は日蓮、浄土真宗系の人は親鸞)を信仰していた。1989年からは、「三宝帰依」など信仰心について説かれるようになり、1990年「信仰と伝道」の法話が説かれ、1990年からは組織的な伝道活動が開始されるようになった。また、宗教法人となった1991年には、『月刊Asahi』4月号で幸福の科学の紹介記事が掲載されたほか、東京大学での野外講演「黎明の時代」(5月)、東京ドームでの「御生誕祭」(7月)、講談社フライデーへの抗議行動(9月)などで世間の耳目を引いた。1992年12月には、会員でも代理本尊の一つである「家庭御本尊」を安置することが可能となった。1994年4月10日には、主宰により「方便の時代は終わった」と宣言され、根本経典や基本書の『太陽の法』が改訂され、教団の運営体制の整備が進むとともに、三宝帰依を中心とする信仰へと移行し、1994年6月からは三帰誓願式が始まっている。
現状は、仏教の中でもとくに浄土真宗をベースとした教義を説いている印象を受けた。
他力信仰、来世での救済をベースとした互助組織のようなカタチをとっている。
言ってみれば戦国時代における石山本願寺から、武力的要素を引いたようなものである。ってそれ引いたらもう別物か?
今までの宗教は、仏教しかりイスラムしかり、発祥した地域の束縛を受けているとし、
それゆえに争いが絶えない。特に旧いものを新しいものが倒そうとしてしまう傾向があるとして諫め、
そういったものを、より広い視野から、至高存在「エル・カンターレ」によって調和・調停させる。
これによって未来の最終戦争を防ぎ、地球平和を実現しようというのが最上の目的。
要するにセカイ系。
ただし、普通のラノベと違って、そこそこ現実感覚があるため主人公一人だけというのは無理があると理解している。
また、大人は若者と違って基本的に殺し合いや戦争といったものに憧れよりも嫌悪を抱く。
そのために補足が行われている。
・その一は「一人で戦わない」こと
「大勢の人間が一つに集まって、セカイ系の主人公の役割を一緒に果たそう。みんなでセカイの敵と戦おう」と促す。
・そのニは「武力を持って戦わない」こと。
平和を目的とし、手段にしても「争いの調停者」という形を取る。武力介入しないソレスタル・ビーイング?・・・うーん。
・その三は「支配するのではなく模範となる」ことを目的とする。
世界宗教によって世界を統合し、争いをなくすことが目的なのだが、自らが世界に広がろうとはしない。
あくまで日本に理想の宗教国家をたて、モデルケースとして運営することで、世界がソレに倣うように仕向ける。
なぜ日本にモデル国家を建国するかというと、日本は未熟ながら、最も理想を実現するのに適した下地だから、だそうです。
こうやって中途半端に自分のコトを賢いと思っている大人の心をくすぐるのが上手だな、と感じた。
何事も斜めに構えてケチを付けるけれど、ちょっと合理的な説明を返されるところっと信じてしまうタイプの人ははまっちゃうんだろうな。
成り立ちからして明確な教義を持ってスタートしたわけではないことから、信仰によって他者を排斥するということはあまりない。
唯一のルールは教祖である大川隆法を信仰することであり、ソレ以外を強要されることはない。かなり自由。
(逆に言えば、他の「個人崇拝」型の宗教や論理的に厳密な人間を極端に嫌う)
「幸福の科学」という言葉にあるように科学についても寛容、というより手段や戒律に厳格な要素は少ない
あくまでも幸福を実現することが目的であり、その目的にかなうのであればそれは全てエル・カンターレの意に沿うものである。
それは他者への愛(作中では「慈悲」)と大いなる存在への感謝(作中では「信仰」)によって成し遂げられる。
要するに目的が正しいならなんでもありってこと。
大事なのは「信仰心=大いなる存在を信じ、その愛に感謝すること」をもって生きることだけであり、
その基礎さえできていれば他の宗教についても非常に寛容。
社会全体の幸福を増大させる限りにおいて自由を尊重し、格差社会も肯定する。
彼らは「みんなで不幸になりましょう」という教義を持った異端なんだそうです。詳しい説明はなし。
セカイ系の文脈で見れば、明確に戦うべき敵が存在する。それは「世界の幸福量を減らす存在」である。
非常に漠然としているが、それだけ個人によって想像力を働かせる余地があるということでもある。
幸福実現党の人たちが、実にいろんなバラエティに富む政策提言をしているのはこのあたりのユルさがポイントか。
人間を霊的な存在と捉え、より高次な視点から世界全体を把握する
あくまで天上界から見ての善悪を重視する。一番大事なのは信仰を持つことであるとする。
ちなみに、人間が霊的な存在であるということを認識し、ソレを極めると過去の偉大な霊との交信なども可能になるらしいです。
世間一般では「幸福の科学=大川隆法が○○の霊との対話をしてなんかテキトウなこと言ってる」というイメージがあると思うが
あの対話はこの「人間は霊的な存在」=「霊的な存在には制約がない」=「現世と来世の境界も超えられる」という教義によるらしい。
現代の日本や世界情勢の分析について、中途半端に現実的で、そこからはじまる怒涛のオカルト臭い説明がなんとも言えない。
やけくそで「光の射す方へ」向かって、I can fly!なんてしてはいけませんよ。
さて、そんなみなさまの「帰りたい 帰れない」の思いを
| 曲名 | アーティスト | 発売年 | 帰りたい場所 | 概要 | 歌詞 |
|---|---|---|---|---|---|
| 勇次 | 長渕剛 | 1985年 | 過去 | 若気の至りで家出した | ★ |
| 新しいスタート | 岡村孝子 | 1991年 | 過去 | 人生の門出を前に意気込む | ★ |
| 郷愁 | 斉藤和義 | 1997年 | 過去 | 帰省が終わって、また普段の生活に戻らないといけない | ★ |
| Gates of heaven | Do As Infinity | 2003年 | 過去 | クスリがやめられない | ★ |
| 手のひら re-birth | MCU | 2006年 | 過去 | 自分探し | ★ |
| 鼓動 | GLAY | 2007年 | 過去 | 大人になるのって哀しい | ★ |
| 矛盾だらけのWedding Song | GiFT | 2008年 | 過去 | 子供の頃好きだった女性が他の男と結婚した | ★ |
| 燻-くゆる- | ナイトメア | 2006年 | 穢れなきセピア(過去) | 汚れる前に初期衝動を思いだせ(初心を忘れたくない) | ★ |
終わった恋は取り返しがつきません。
| 曲名 | アーティスト | 発売年 | 帰りたい場所 | 概要 | 歌詞 |
|---|---|---|---|---|---|
| 落葉の駅 | 八代亜紀 | - | 恋人 | 何も言わず恋人の元を飛びだして | ★ |
| 風立ちぬ | 松田聖子 | 1981年 | 恋人 | 恋人と別れてセンチメンタル | ★ |
| 無言坂 | 香西かおり | 1993年 | 恋人 | 恋人が浮気したので家出した | ★ |
| 涙の海峡 | 松原のぶえ | 1996年 | 恋人 | 北国の冬は人肌恋しい | ★ |
| 山吹色の木の下で | タオルズ | 2005年 | 恋人、過去 | いつもの風景に、昔を思い出した | ★ |
八代亜紀の「落葉の駅」なんて、
男が自分の為にあたふたしているのをみると
めんどくさいですねぇ。
でも、おじさんはそういうのキライじゃないよ。
日本歌謡曲における「北国」「津軽」「海峡」の頻度は異常でございます。
| 曲名 | アーティスト | 発売年 | 帰りたい場所 | 概要 | 歌詞 |
|---|---|---|---|---|---|
| 津軽 | 岩木淳 | - | 故郷 | やけ酒してホームシック | ★ |
| 帰りたい帰れない | 加藤登紀子 | 1970年 | 故郷 | 母からの手紙でホームシック | ★ |
| 望郷しぐれ | 山本譲二 | 1986年 | 故郷 | 実家からの小包でホームシック | ★ |
| カントリー・ロード | 本名陽子 | 1996年 | 故郷 | もう故郷に帰れない | ★ |
| 上野発 | 和田青児 | 1999年 | 故郷 | 上野発北国行きの電車 | ★ |
| 夢千里 | キム・ヨンジャ | 2002年 | 故郷 | 海を荒れてたからホームシック | ★ |
| 津軽慕情 | 山本謙司 | 2004年 | 故郷 | 酒飲んでホームシック | ★ |
| リンゴのふる里へ | 和田青児 | 2005年 | 故郷 | 雲が北に流れていたのでホームシック | ★ |
| ひだまり | 石野田奈津代 | 2009年 | 故郷 | 上京して大変だけど私は元気です | ★ |
| 帰りたい | 千田裕之 | 2010年 | 故郷、過去 | ふと思いだしてホームシック | ★ |
| 東京シャボン玉 | 天童よしみ | 2011年 | 故郷 | 上京したけど思い通りいかない四畳半生活 | ★ |
| バイ マイ タウン | HOW MERRY MARRY | 2011年 | 故郷 | 上京して大変だけど負けないよ | ★ |
昔はたまに来る手紙だったのが、
そんな中でも、最近の若い人の歌は、
上京したての初々しさが伝わってきていいですね。
「ひだまり(石野田奈津代)」は、いずれ「東京シャボン玉(天童よしみ)」状態になるのも、
頑張れ、若い人!
どのように歌われているのでしょうか。
| 曲名 | アーティスト | 発売年 | 帰りたい場所 | 概要 | 歌詞 |
|---|---|---|---|---|---|
| 大迷惑 | ユニコーン | 1989年 | 家 | マイホーム買ったら転勤を命じられたでござる | ★ |
あるあるwww
| 曲名 | アーティスト | 発売年 | 帰りたい場所 | 概要 | 歌詞 |
|---|---|---|---|---|---|
| 雨の子守唄 | リサ | 2009年 | 家 | 子どもが家にいるのに水商売な自分 | ★ |
| 曲名 | アーティスト | 発売年 | 帰りたい場所 | 概要 | 歌詞 |
|---|---|---|---|---|---|
| Tell me why? | Lil'B | 2009年 | 家 | デートしてるのに恋人に冷たくあしらわれた | ★ |
デートやめて家に帰っちゃえよwww
DV男ばっかり引き寄せちゃうんだよ!
なるほど、「帰りたい 帰れない」は様々ですね。
オサマ・ビン・ラディンは自分の手に視線を落とすのが常だった。
通訳を好まない彼がインタビューで伝えたのは、その顔と裏腹な言葉だった。
2001年9月11日「ゴミのように」空を舞う不信心者を見て自分は心から愉悦を覚えた。
自らの手を血に染めることはほとんどなかったが、
愛用のカラシニコフはアフガニスタンの戦闘でロシア兵から奪ったものだという。
サウジアラビアのアメリカ基地、イエメンのアメリカ軍駆逐艦、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館。
いずれの場合も「子供たち」の攻撃を遠方から見届けるのが彼の常だった。
賞賛されるテロリズムも批判されるテロリズムもある、と認めながら、
これは「聖なるテロ」だとしてイスラムを擁護した。これはイスラムを守る「聖なるテロ」だとした。
9/11について当初は関与を否定したが、誇る気持ちが強くなったのか、
同胞19人を指揮したことをのちに認めた。
建設業こそが50億ドルといわれる富をビン・ラディン家にもたらし、2500万ドルの遺産を彼に残したのだ。
1980年代に購入した掘削機、ダンプカー、ブルドーザーをときには自ら運転しながら、
アフガニスタンでソビエトと戦うムジャヒディンのための塹壕を掘り、
それは1989年の不信心者らの撤退まで続いた。
1990年代に逗留したスーダンでは、道路を作ったこともある。
アフガニスタンでゲストハウスを作り、武器を提供した際に作ったのが、マクタブ・アル・キダマト(「サービス部局」)、
この仕事の大半を支えたのはアブドラ・アッザム、彼の宗教的恩師だった。
そのネットワークは以後、アイマン・アル・ザワヒリらによって引き継がれたが、
個々の人員登用、到着期日、戦いの大義などを多数の文書に残したのはまぎれもなく彼だった。
彼は自らが行った非道を伝えるメディアに目を配り、世界の報道機関を手玉にとった。
ブランドを作り、組織を世界規模のフランチャイズに育て上げた。
「アル・カイダ」の旗を持つ兵士が二人いればアメリカの将軍が押し寄せてくる、と彼は誇らしげに語った。
電話もインターネットも時計すらも追跡の恐れがあるとして触れるのを避け、
それは、成功を収めた堅実な投資に現れていたのと同じ注意深さだった。
沈思黙考して夜を明かし、一日を読書に費やすこともあった。
礼儀正しく敬虔な御曹司が到達したのは、知識人でも夢想家でもなかった。
それをもたらしたのは、1982年レバノンに侵攻したイスラエルと、
1990年、サウジアラビアの聖なるメッカとメディアに到着したアメリカ軍だった。
不信心者を追い払い、
パレスチナを成立させ、
それが彼の望みだった。
一言に洗練させるとすれば、暴力に訴えるジハドと言えただろう。
彼の言い方では、目には目を、の「相互主義」を実現させること。
五人の妻のうちの一人によれば、彼にはこんな一面もあったという。
BBCワールドサービスが好きで、毎週金曜には友人とハンティングに行く。
ときには、預言者ムハンマドのように、白い馬にまたがって行く。
彼は、そうなぞらえられるのが好きだった。
人生で最高のできごとは全能の超大国という神話をジハドによって打ち砕いたことだと、彼は言ったという。
十年以上に渡ってその首にかけられた賞金が彼を縛ることはなかった。
トラボラの隠れ家や山々を渡る護送車への爆撃も、
アラーによって御される彼には届かない。
アメリカ人が生を愛するのに対し、ムスリムは死を愛するのだと彼は言った。
十字軍の特殊部隊に対して彼が抵抗したかどうかはさだかではない。
いずれにしろ、その弾丸は彼を讃えるものでしかなかった。
最重要指名手配のテロリスト、オサマ・ビン・ラディン、5月2日、54歳で死す。
Obituary: Osama bin Laden, the world’s most wanted terrorist, died on May 2nd, aged 54
May 5th, 2011, The Economist
福島第一原発3号機で、制御棒の脱落により日本初の臨界事故が発生。
福島第二原発3号機で、原子炉再循環ポンプ内が破損し炉心内に多量の金属粉が流入。
福島第一原発3号機で、主蒸気隔離弁を留めるピンが壊れ、原子炉内圧力が上昇して自動停止。
柏崎刈羽原発1号機で、タービンバイパス弁の異常により原子炉が自動停止。
福島第1原発2号機で、原子炉への給水が止まりECCS(非常用炉心冷却装置)が作動する事故が発生。
福島第二原発1号機で、制御棒1本の動作不良が見つかり原子炉が手動停止された。(国際評価尺度レベル1)
原子力安全保安院が、 福島第一・第二原発、柏崎刈羽原発で80年代後半から90年代前半にかけ計29件の事故を東電が改ざんしていた可能性があると発表。
地元反原発3団体が、柏崎刈羽原発管理区域内の放射性廃棄物が外に持ち出されたため近くの土壌から人工放射性物質コバルト60を検出したと発表。
福島第一原発6号機で、可燃性ガス濃度制御系流量計の入力基準改ざんがあった事実を認める。
柏崎刈羽原発1号機で、ECCSの故障偽装など定期検査時の不正が常態化していた事実を認める。
福島第二原発4号機で、制御棒駆動装置の不正交換を偽装した事実を認める。
新潟県中越地震により、柏崎刈羽原発3号機の変圧器が火災。6号機からは、使用済み核燃料プールから放射性物質を含む水が海水に流出。
同機原子炉建屋天井の大型クレーン移動用車軸2本が破断。10月21日には、7号機の原子炉建屋のコンクリート壁から放射能を帯びた水が流出していた事実が判明した。
福島第二原発3・4号機廃棄物処理建屋の、海水ポンプの配管や電動機などが破損。
構内で火災が発生したが外部には公表されなかった。しかし田原総一朗に宛てた内部告発により事故の発生が明らかになり、告発の一ヶ月後東京電力は事故の発生を認めた。
日本初の臨界事故とされる。この事故が公表されたのは事故発生から29年後の2007年3月22日になってからであった。
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。INESレベル2。
定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1(1ノッチ約15cm)抜けた。
1989年1月、3号機の原子炉再循環ポンプ内部のインペラー(回転翼)の溶接部が壊れ、炉心に多量の金属片等が流出、長期にわたって発電所を停止に追い込んだ事故が発生した。
2008年1月、3・4号廃棄物処理建屋(RW/B)の海水ポンプA(以後RWSWポンプ)の吸い込み側配管及び電動機と羽根車をつなぐシャフトが折損するトラブルが発生。これを受け3号RWSWポンプBを緊急点検、東京電力、東電環境、東電工業等が注目する事となった。
2008年2月、サイドバンカーにて2号の使用済み核燃料を積載したキャスクをクレーンで吊り上げ作業中にクレーンがトリップするという事象が起きた。
1.沢城みゆき(声質A、演技S)1985年生まれ、1999年デビュー、初代プチ子(オーディション)
2.花澤香菜(S、B+)1989年生まれ、2003年(声優)デビュー、子役・ジュニアタレント
3.喜多村英梨(A、A+)1987年生まれ、2003年(声優)デビュー、子役・ジュニアタレント
4.早見沙織(A+、A)1991年生まれ、2007年生まれ、日ナレ(養成所)
5.悠木碧(A、A+)1992年生まれ、2003年(声優)デビュー、子役・ジュニアタレント
6.名塚佳織(A、A)1985年生まれ、1999年デビュー、子役・ジュニアタレント
7.三瓶由布子(A、A)1986年生まれ、2000年デビュー、子役・ジュニアタレント
8.小清水亜美(B+、A)1986年生まれ、2003年デビュー、子役・ジュニアタレント
9.戸松遥(B+、A)1990年生まれ、2007年デビュー、スフィア(オーディション)
10.高垣彩陽(B+、A)1985年生まれ、2006年デビュー、スフィア(オーディション)
11.田村睦心(A、B+)、1987年生まれ、2007年デビュー、日ナレ(養成所)
12.井上麻里奈(B+、B+)1985年生まれ、2004年デビュー、OVA『コゼットの肖像』コゼット役(オーディション)
13.加藤英美里(B+、B+)1983年生まれ、2004年デビュー、AMG(養成所)
14.矢作紗友里(B+、B+)1986年生まれ、2005年デビュー、日ナレ(養成所)
15.佐藤聡美(B+、B+)1986年生まれ、2007年デビュー、東アナ(養成所)
16.伊瀬茉莉也(B+、B+)1988年生まれ、2004年デビュー、(養成所)
17.平野綾(B+、B+)1987年生まれ、2001年デビュー、子役・ジュニアタレント
18.阿澄佳奈(A、B)1983年生まれ、2005年デビュー、オーディション
19.伊藤かな恵(A、B)1986年生まれ、2007年デビュー、AMG(養成所)
20.豊崎愛生(B+、B)1986年生まれ、2006年デビュー、スフィア(オーディション)
21.明坂聡美(B+、B)1988年生まれ、2004年デビュー、オーディション
22.後藤沙緒里(B、B)1987年生まれ、2002年デビュー、オーディション
23.清水香里(B、B)1983年生まれ、1998年デビュー、子役・ジュニアタレント
24.井口裕香(B+、C+)1998年デビュー、2001年デビュー、オーディション
25.MAKO(B+、C+)1986年生まれ、2005年デビュー、子役・ジュニアタレント
26.福原香織(B+、C+)1986年生まれ、2005年デビュー、養成所
27.日笠陽子(B、C)1985年生まれ、2007年デビュー、日ナレ(養成所)
28.竹達彩奈(B、C)1989年生まれ、2007年デビュー、日ナレ(養成所)
29.藤田咲(B、C)1984年生まれ、2005年デビュー、日ナレ(養成所)
30.南條愛乃(C+、C+)1984年生まれ、2006年デビュー、養成所
31.野水伊織(C+、C+)1986年?生まれ、2009年デビュー、
32.小見川千明(C+、C+)1989年生まれ、2008年デビュー、子役・ジュニアタレント
33.寿美菜子(C、C+)1991年生まれ、2006年デビュー、スフィア(オーディション)
34.鹿野優以(C、C+)1983年生まれ、2004年デビュー、AMG(養成所)
35.大橋歩夕(C+、C)1984年生まれ、2005年デビュー、
36.中島愛(C、C)1989年生まれ、2007年デビュー、ランカ・リー(オーディション)
「銃・病原菌・鉄」って本がある。
この分厚い本の答えを要約して言えばこうだ。
それはヨーロッパ人が他の人種に比べて優れていたからじゃない。
キリスト教的労働観が他の宗教に比べて優れていたからじゃない。
これにならって言えばこうだ。
単純にラッキーだった。そんだけ。
じゃあ日本は?
とりあえずアメリカに政治やら軍事やら難しいことはまかせておいた。
他の国が不安定な中で経済に邁進すれば日本だけ圧倒的成長できた。
終身雇用、公共事業、専業主婦。超安定。超ラッキー。確変状態。
73年のブレトン・ウッズ体制の崩壊で官僚・福祉システムが通用しなくなってきたのに
日本はなまじ上手く行ってたからこの超安定システムに乗っかり続けた。
中国は鄧小平が1978年に改革開放。1989年の天安門事件を経て南巡講話が1992年。
韓国は1987年に民主化。1997年のアジア通貨危機を経て新自由主義政策へ。
ベトナムは1976年に南北統一。1986年にドイモイで改革開放。
超安定システムが崩れてるのは20年の不況を経てようやく分かりはじめて
小泉新自由主義にいったり政権交代してみたり基地移転してみたりしようとした。
だけど次のビジョンが何なのか分からずに、さまよいまくってる。
というかまだ超安定システムがどっかにあるんじゃないかという幻想すらまだある。
ねーよ。
つーわけで、各自生き延びられるものは生き延びよ。
でも日本アニメは性と暴力で親受けが悪い、国がバックアップして売るには問題が多過ぎるしジャンク過ぎる。
日本=変態みたいなオタクが広げたイメージがこれ以上強くなるのは勘弁だわ。
主に1970-1990年代に北米で使用された。音節的に japan-animation から Japanimation に略されただけの日本製アニメーションという意味の語である。Jap(日本人の蔑称)のanimationとも読めるため、日本人や文化に対する差別と偏見やアニメーション自体への偏見から、日本製アニメーションを指して「くだらないもの」あるいは「子供の教育上良くないもの」の意味を含めてこの語が使用されていたとする説もある。
日本国外の評価
日本のアニメは「セックスと暴力」と認識されることが多い[22][23]。フランスでは1989年に日本アニメがバッシングされて残酷だとされた『キン肉マン』が放送中止になり、バイオレンス性の強い『北斗の拳』も同じく放送中止になった。『聖闘士星矢』は暴力シーンがカットされたが、それでも大ヒットした[24]。ニュージーランドでは『ぷにぷに☆ぽえみぃ』は、登場するキャラクターの容姿が幼児に見え、幼児性愛好者を増長させているとされ、政府機関により発禁指定を受けた事例もあるが、フランスの美術評論家エルベ・シャンデスは、アニメを中心とする日本のおたく文化を「21世紀のジャポニスム」と評し、欧米の文化に大きな影響を与えていると主張し擁護した。また、クールジャパンと呼ばれ、日本のポップカルチャーとして全世界的に受け入れられている。[25]
1983年にフランスのジャック・ラング文化相は日本のアニメを文化侵略だと公言し、フランスのアニメ製作者へ助成金を出すことになった[26]。中国政府は、アニメをサブカルチャーと侮って放置していたが、2006年になって17時から20時まで外国アニメの放送を禁止した。中国でのアニメシェアの8割を超える事実上の日本アニメの締め出しであり、同時に日本アニメはダンピングによる文化侵略であるとして、自国のアニメ産業の保護と育成に乗り出した[27]。
ギリシャ国債のヘアカットは17%ではなく23%が適用されたという話だが、短期保有にのみ適用で、満期まで保有するつもりの分には適用しないという但し書きがついた。17%を23%に引き上げた分だけ、厳しくなったように見えるが、ヘアカットが実現する可能性の高い満期保有分には適用しなくて良いという事で、実質的にはザルとなっている。
投げ売りしてでも財務を健全化したいという銀行の本音を、真っ向から叩き伏せたといえよう。投げ売りしたいなら、全部を短期保有勘定にしろ、ストレステスト不合格にするぞ、それが嫌なら、満期保有を約束しろという恫喝である。
というわけで、ストレステストの時点では満期保有にしておくが、それが終わったら、先物で売って逃げるというのが、金融機関側の対策となるわけで、23%+ドイツ国債の金利分まで、売り込まれる事になるであろう。
ギリシャは市場からお金を集める事が不可能になったわけで、ECBやIMFに国債ロールオーバー資金おかわりとなるわけである。
ギリシャのソブリン危機を見て、日本の民主党が、来年度の予算編成にあたり、"財政非常事態"を宣言するとぶち上げているが、伝染病や大雨といった非常事態のための予備費を使い込み、子供手当てや母子加算や高校無償化といったばら撒きをやって非常事態を悪化させたのは民主党である。
法人税を減税すれば企業が元気になるといって、1989年に消費税を導入し、法人税の減税を始めたが、その後、企業が元気になった事はあったであろうか?
日本の企業は、法人税の税率が下がるのと軌を一にしてその存在意義を消失させつつある。雇用は減少する一方だし、税収も下がるばかりである。
資本主義社会において、企業はお金を循環させるポンプであり、ポンプの中に滞留させるお金は、必要最小限で良い。
非常事態という認識は正しいが、その原因を間違えているので、正しい対処ができる見込みが無い。無駄遣いを廃す為に時間と労力を費やすのは、無駄ではないが、有効とは言えない。間違った努力をどんなにやっても誰も認めないし、その上増税となれば、民意が反対意見でまとまるのは当然となる。
無駄と認定される人々を切り捨てる努力よりも、優秀な人に自発的に起業してもらって、人員を減らしながら、お金の循環速度を上げる政策こそが、非常事態に対する正しい施策であり、その為には、政治献金を出してくれる大企業優遇となっている諸制度を変えなければならない。小泉政権を民意が支えたのは、諸制度を変えてくれるかもしれないという期待の表れであり、安倍、福田、麻生と凋落したのは、改革が後退していったからである。そして、自民党ではダメだという民意が民主党に政権を取らせたが、loopy鳩山は違法子供手当ての出所が大企業のオーナーである実母であることから改革を放置して迷走し、sleepy菅は自民党時代の政策をそのままやろうと寝言を言い出している状態である。
ギリシャみたいにならないようにするにはという問題意識は正しいが、現状認識が間違っているので、出てくる対策は状況を悪化させるだけという、無駄働きになっているのであった。
法人税を引き下げないと、企業が海外に出て行ってしまうというのであれば、出て行って貰えばよい。企業が事業を行うのではなく、人が事業を行うのである。企業を大事にしても、雇用は増えないし、お金の循環速度も上がらない。既存企業が出て行った後に、新しい企業が生まれてこないという状態こそが、雇用が増えず、お金の循環速度が上がらない原因である。新しい企業が生まれてくる見込みが無いから、既存の企業を大事にしなければならないとも言えるが、それは、国民を信じていないという事である。
ド田舎の農民相手にドブ板選挙をやっている人が、国民の能力を信じないのは必然であるし、ド田舎の方が一票の価値が大きい為にそういう議員を多数派にしてしまうのは選挙制度の欠陥である。この欠陥は、多選規制や議員の議院における平等を廃して獲得票数を議決権とするといった改革で、緩和していく事ができるが、改革が出来ないのであれば、代議制を廃止するという過激な改革へと進む事もありえるであろう。
国民の能力を信じなければ、いつまでたっても状況は変わらない。民選議員にとって必要なのは、金でも地盤でも名前でも信念でもブレーンでもない。国民を信じる勇気である。国民の信に対し、信で応える事ができないのであれば、代議制は成立しないのだから。
ttp://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/80aec59e3f36624bda28532c8aaf7eee
2 :可愛い奥様:2009/09/02(水) 08:50:49 ID:yAxSyKXU0
800人程度の薬害、「一律救済を!」
↓
高裁の仲裁案で1000人分用意し、明らかな責任のある期間に線引きをしました。
↓
「高裁も拒否する!」「線引き禁止!いのちの切捨てをゆるすな!」
↓
とりあえず30億用意しました。線引き禁止とか言われても…
↓
「裏切られた!札束で頬を叩くような提案だ!大臣にもてあそばれた!」
↓
できるだけ一律救済を目指します
↓
「お金が欲しいのではない」「私達をなめるな!(福田衣里子)」
↓
↓
「少なくとも11万人の一律救済を!」
↓
「少なくとも350万人(35兆円)の一律救済を!」
↓
↓
↓
※福田のC型肝炎は当時どの医者も存在すら知らなかったウィルス
A型肝炎B型肝炎は知られてたし、大元の原告はココ(高裁も仲裁案出した)
でも、なぜか、いつの間にか、C型肝炎の福田も賠償を求めてたのは豆知識。
3 :可愛い奥様:2009/09/02(水) 08:51:39 ID:yAxSyKXU0
○棚ボタの保障認定
1980年生まれ。生まれた時に血液製剤を使い、C型肝炎に感染したらしい。
ちなみにC型肝炎ウイルスは1989年に発見され、それまでは原因不明であった。
彼女は実は補償ラインに入っておらず、一般人同様に自分のお金で肝炎を治すのが本来の道理である。しかし、自民の温情で補償認定された。
それだけでなく、他の重症患者同様に数千万円もの賠償金が支給された。
○薬害肝炎救済法案の経緯
民主は薬害肝炎救済法案を否決につぶしにかかっていた。(自民の足を引っ張るためと、田辺三菱製薬および前身の田辺製薬・三菱ウェルファーマから献金を受けているため。ちなみに彼女の親は三菱勤務)救済時には多くの患者を認定したため、自民党は「人気とりが目的」などと叩かれた。
上記の経緯にも関わらず、彼女は自民に後ろ足で砂をかけ、民主から立候補した。
4 :可愛い奥様:2009/09/02(水) 08:55:00 ID:yAxSyKXU0
○訴訟時代の仲間の反応
原告仲間は「肝炎救済法案は超党派で頑張って頂いた。特定の党ではなく無所属で出るべき」と発言。
にも関わらず、無所属だと惜敗した時の比例復活もなく選挙資金も自腹になるため民主から出馬した。
彼女は原告仲間から支援されていないようで、選挙期間中、誰も彼女の応援には来なかった。
当選時も原告仲間からの祝福のコメントは一切公表されていない。
○よくある誤解
→彼女はインターフェロンで完治しています。そもそもC型肝炎は感染力が弱く、結婚しても飲食業に従事しても周りにはうつりません。
血液製剤・輸血・針刺しなどで直接ウイルスを体内に入れないと感染しないのです。
政治家の激務には耐えられるそうですから、パン屋も務まるでしょう。
彼女は座談会で「ちゃんと本当に働けるの?」という県民の質問に対して「しっかり元気です」と答えています。
→B型肝炎は若年時に突如肝障害をおこすことがありますが、C型肝炎ではありません。
インターフェロン治療中は入院・副作用などで通えないでしょうが、治療は短くて数か月、長くても一年で終わるので、休学すればちゃんと卒業できます。
彼女は大学時代、休学してヨーロッパに単身で旅に出掛けたそうですよ。
肝炎やインターフェロンのせいで禿げてカツラになってかわいそう
→肝炎で禿げることはありません。インターフェロン治療で髪が抜ける人もいますが、治療が終われば完全に元に戻ります。あの髪は地毛。
肝炎って年取ってから大変なんでしょ
→若いうちに治療したため、他の原告仲間と違い肝硬変や肝臓癌の心配はありません。
一般の健康人と全く同じです。
○実は酒豪?
肝炎訴訟時の密着ドキュメントで携帯を出し、予測変換機能の一覧を見せ‘若い女の子なのに「不安」とか「フィブリノゲン」が出てくるってどうなんですかねー’と言っていたが、その後に続く言葉は「二日酔い」であった。
彼女が飲酒している写真は各サイトに多数、ブログでも「お酒がおいしい」と発言していたが、最近酒に関するものだけが削除されている模様。
そもそも彼女は完治しているので、飲酒も全く問題ないし、隠す必要もないのだが。
5 :可愛い奥様:2009/09/02(水) 08:56:08 ID:yAxSyKXU0
71 :長崎納税者:2008/11/26(水) 13:26:04 ID:RIX6ZWAt0
つーか、この人が感染した時期ってC型肝炎の存在を確認する前だったんだよな
C型肝炎の存在を把握したあとで感染した人については救済される事も分かるけど、どうしてこいつに2000万円も給付しないと行けないわけ?
そもそもこの人を救済した事自体が間違いなんだけど、マスコミはその事自体をスルーしている。
給付が可決された前後に高級住宅地の家を購入してやがるからな。
パート以外でろくに働いた事がない輩が戸建てを購入なんてふざけんな。
家一軒、車2台持っている奴より可哀想な人は日本にも何千万といるよ。
最近は酒を飲んだくっているらしいけど、肝硬変になってさらに2千万円
追加給付を狙ってんじゃないかな?
給付金という公金を不適切に使用した疑いがあるか、公金を受け取らなくても余裕のある生活をしていたのに給付金を
巻き上げたかのどちらかなんだから。
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
コピー終わり。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51337693.html < こいつの元ネタを訳しておいた。
かつて、日本は金融危機への対応がどれほど大きな賭けとなるのか世界に教えてくれた。そして今、欧米諸国がその賭けをする番になっている。
「東京では新年のご祝儀相場による値上がりが予想される。」 1989年12月29日の速報ヘッドラインはこんな風に市場を熱狂的に支持していた。その日、世界史上最大規模の資産バブルはその臨界点に達していたのである。そして日本は、ちょうど20年後の今もまだ、そのバブル期のツケを払い続けている。日経225はバブルのピーク時に38,916円を記録したが、現在ではそのたった1/4超にまでしぼんでいる(新年のご祝儀相場があると言われてはいるが)。「失われた20年」の日本経済は名目値でかろうじて成長したくらいで、いまだにデフレの害を受け続けている。この国はいったんアメリカににじり寄ったものの、最近では中国の首筋に熱い吐息をかけている。皆さんは"ジャパン・アズ・ナンバーワン"というコピーを覚えているだろうか? 今日、その同じ国のご自慢は、総額でGDPの200%に達する政府債務なのである。
日本人にとってこれらはみな深刻な問題だ。ところが、この2年で'89年以降の日本が抱え込んだ問題の多く(資産価格の暴落、投げ売り同様の債券、のしかかるデフレの恐怖)と同じものに、西側諸国も直面することになってしまった。崩壊しかねない金融システムに対し、政府はどうすべきで、どうすべきでないのか、日本は有用な教訓を残してくれた。
日本という先達のおかげで、その教訓の多くは迅速に実行された。日本当局がやったよりかなり迅速に(日本国民は試行錯誤せねばならなかったという点で不運だった)、欧米の政策決定者は、国内銀行に流動性を供給して資本を積み直させ、同時に財政刺激を惜しみなく行って民間需要の激減を相殺したのである。そのおかげで、世界経済の見通しはだんだん明るくなってきている。
日本からの教訓で残っているものはあるだろうか? 日本に学ぶというやり方は、様々な点で、すでに使えなくなってしまっている。それは、部分的には、欧米諸国の現状が日本のかつての状況より悪いからだ。ギリシアのように最も不安定な国々は、かつての日本にはなかったような問題に直面している。これらの国々の市場では国の債務返済能力が信頼されなくなるだろう。一方、日本は巨額の国内貯蓄で災難をやり過ごしており、日本の投資家は海外投資よりお金を国内にとっておくほうを好んできた。世界金融危機の規模は大きく、日本の問題はかすんでしまうほどだ。彼らの問題は海外にほとんど影響せず、世界経済の成長にとっては背景のようなものだ。それより、膨大な赤字を抱えた国が多すぎて、財政の信頼性が急激に失われることのほうがもっと深刻な事態である。
しかし、欧米のほうが日本よりまともな点もある。我々のシステムは日本より柔軟なのだ。柔軟な国であればあるほど、生産性を維持するための構造改革への抵抗も少なくなる。また、欧米は日本と違い民間の不良債券処理に対する政治的障害も少ない。さらに、西洋人は日本人より決断力をもって行動し、とくに経済に流動性を供給して金融業界のバランスシートを改善させているという点で有利だ。ゾンビバンク(訳注: 経営破綻しているはずなのに政府の救済で生きながらえている銀行)が少ないほどデフレに陥る兆候は減り、成長のきざしが見えるのはずっと近づくだろう。欧米は未知の領域にいる。そして、すでに日本が踏み込んだことのない段階にあるのはおそらく間違いない。
したがって、日本の哀しい窮状から特定の教訓を導きだしつづけるのはとても難しくなっている。しかしながら、日本は、すべての経済災害に共通する一般的な教訓を残してくれている。それは、景気回復っぽい兆候に騙されてはならないということ。日本はこれを誤認し、民間需要が回復を維持できるほど力強くなってもいないのに、なんども財政引き締めを行ってきた。それがデフレを固定化したのである。また日本の国内銀行の資本も、今後のショックに対応していくには少なすぎるまま放置されている。
先進国の政策決定者は、まだ数え切れないほど多くの作業を抱えている。多くの銀行はその融資に巨額の評価損を抱え、経済には余剰設備が重荷となり、家計の借金はかさんだままだ。このような状況であわてて引き締め政策をとれば悲惨なことになりかねない。試行錯誤するしかないが、ミスをすればするほど、我々の今後10年は日本の失われた20年に似たものになっていくであろう。
最近アニメーター志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去の作画(特に90年代以前の作品)を見たことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「金田伊功をどう思う?」と聞くと、「金田伊功って誰ですか?」という答えが返ってくる。「なかむらたかしの作画で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔の作画を見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「youtubeで流れていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、作画を体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題作画ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといてタイミングごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。作画は、もう長いこと(20世紀の遅い時期から)マイノリティの王者としてあらゆるオタクの上に君臨してきた。だから、作画を作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
作画は、絵コンテ・演出・レイアウト・原画・動画・背景・撮影など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、作画を見ずして現代のアニメは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、作画を見ることは欠かせない。また、単に見るだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、作画を包括的・体系的にとらえることによって、現代のアニメそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、ものを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔の作画をほとんど見たことがないという人や、あるいは作画そのものもあまり見ないという人のために、これを見れば作画を体系的に理解でき、現代アニメの成り立ちや実相までをも作画的にとらえることができるようになる、7本の作品を紹介する。
ここで紹介する作品は、いずれも後の作画界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、作画というジャンルのありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、作画というのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、作画的に理解できるようになる。そしてそれが、アニメの作画シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、金田伊功前の作画をひとまとめにするところから始める。
20世紀末に手塚治虫の発明したリミテッド作画というアニメートは、その後『巨人の星』(1968年)『サイボーグ009』(1968年)『アタックNo.1』(1969年)などの作品で次第にそのスタイルを確立していき、東京ムービー・東映動画が一大産業として発展させた後、『タイガーマスク』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
金田前の作画は、これ1本だけ見れば良い。この作画に、金田前の作画の全ての要素(魅力)が詰まっている。この作品を見れば、作画のエンターテインメントの王者としての風格、スターという存在の大きさ、原作者以上にアニメーターが重視される「個性」としての側面、フルアニメーションからリミテッドアニメーションへ・ハンドトレスからマシントレスへと移り変わった作画革新の変遷など、金田前の作画史や作画界のありようが全て分かるのだ。
この作画の魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『タイガーマスク』の魅力を知るには、まずは見てもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも見れば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『タイガーマスク』を見て驚かされるのは、現在の作画と比べても全く遜色ないところである。作られてから40年の時が経過しているが、現代人の鑑賞にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえば作画というものは、今から40年前、つまりこの『タイガーマスク』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『タイガーマスク』は、作画というジャンルが到達した一つの極みである。それゆえ、作画史というものは、『タイガーマスク』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られた作画で、『タイガーマスク』の影響を免れたものはないからである。
金田伊功が国内の作画史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに大きなものがある。アニオタというのは、「作画文化がアニメに影響を与えた」というと、なぜか話半分で聞いてしまうところがある。「作画のカナダ」という言葉は聞いたことがあっても、「それって作画オタが過大評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかし金田伊功は、真に国内の作画史を塗り替えた人間の一人である。特に、彼の後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
金田は、国内のメインストリームだった虫プロが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたワンサくんすぐの時期、そんな虫プロに取って代わって、国内で最も輝いていた作画人であった。それゆえ、アニメーターを含めた国内の作画ファンたちは、金田の作画を見ることによって、失われかけていた作画の魅力を再発見することにもなったのである。
金田は、没落した虫プロに変わって作画の命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。戦後の東映動画が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を受け継ぎ、後代へと引き継いだ重要なリレー走者としての役割を、作画史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取ったアニメーターの若き作画人たちが、1980年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、アニメスタジオは鮮やかな復興を遂げる。だから、もし金田がいなければ、作画の様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんな金田の代表作はいくつもあるのだが、中でも特に多くの作画ファンを――取り分けアニメーターの若き作画人たちを魅了したのが、この『無敵超人ザンボット3』である。この作品の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたパースであろう。作画史において、これほど格調高く見事なディテールで構成されたパースは他にない。そのためこのパースは、これ以降無数に手本とされ、真似され、翻案されることとなるのである。
金田伊功の影響を受けたアニメーターの若き作画人たち――言うなれば「金田モドキ」――が頭角を現す直前のアニメーションで、作画史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の作画が誕生する。
この時期、作画技術の進歩によって、作画にもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った映像、全く違った作画体験を生み出すことに成功したのが、この作品『伝説巨神イデオン』を作画した板野一郎である。
『伝説巨神イデオン』は、作画史において最も革新的な作品の一つとなった。この作品に初めて触れた当時のアニオタたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのない映像がくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しい作画体験を、そこで味わうことになったからである。
板野の果たした一番の功績は、ミサイルとカメラワークを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えば彼は、「板野サーカス」という新しい技術の動きと、それで作画された映像が観客に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しい作画体験を生み出すことができたのである。
この作品『伝説巨神イデオン』には、そうしたテクノロジーと作画との融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、作画はここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「金田モドキ」がアニメーションに復興をもたらすのは、1980年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、北海道生まれのスタジオNo.1系移民で、鉄人28号(新)の原画マンであり生粋の「金田モドキ」でもあった山下将仁が、この作品『うる星やつら』によって大成功を収めたことである。
この作品は、単に演出的に成功しただけではなく、作画的な意味においても、アニメーターの力を広くアニオタに知らしめることとなった。この作画の成功によって、アニオタの人々は、金田系作画の魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて金田系作画が作画のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように見る状況を育んでいくのである。
またこの作品は、金田系作画そのものにも大きな影響を与えた。この作品の成功に刺激を受けた才能ある若きアニメーターたちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名作画を生み出していくからである。
それらが相まって、やがてアニメーションは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『うる星やつら』なのだ。
『うる星やつら』で繁栄の足がかりを築いたアニメーションは、この作品『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたアニメーターも、金田モドキの一人であり、また『Gu-Guガンモ』を作った井上俊之の友人でもあった、磯光雄であった。
この作品は、史上最もエフェクト的に成功した作品となる。そのためこれ以降、この作画にならってエフェクト的成功を当て込んだ作品が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きなエフェクト的成功を収めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの爆発は、やがてちょっとハリウッドに煙でも見してやれ、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この作品がきっかけとなってアニメーションにもたらされたエフェクトは、作画という産業を変革させていくことになるのだが、それに伴って、作画そのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬ磯の手によってなされた。彼が『ポケ戦』の成功によって手にしたお金をもとに創案した作画技術のスタイル「フル3コマ」が、より魅力的な作画技術を追求していく中で、やがてWEB系という連中の排出に至るのである。するとそれが、これまでの作画を一変させたのだ。
フル3コマは、作画に魅力的かつ効果的な特殊映像を、中割り不要でしかも手軽にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に個性出したがりアニメーターに広まっていった。そのため今では、フル3コマの使われていない自己主張作画を探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『ポケ戦』が作画界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
70年代以降、繁栄を謳歌したアニメーションは、しかしその栄華の大きさゆえ、90年代に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な作品はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が10年続いた90年代の末期になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代の作画人たちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代の作画人とは、大平晋也や森久司、吉成兄弟らに代表される、「実験的な手法」を得意とするアニメーターたちであった。
彼らに共通するのは、作画にまつわるものなら全て――とるに足らない破片的なものまで含めて――残らず愛そうとする「作画オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだった作画の些末な要素にスポットを当て、それを前面に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った作品を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として90年代の初めに登場したのが、湯浅政明だ。
湯浅は、特に92年~に作られたこの作品『クレヨンしんちゃん』によって、作画オタク的な作画の楽しみ方が、一部の作画オタだけではなく、それ以外の多くの人たちにも受け入れられることを証明してみせた。この成功が、作画オタク的なアニメーターたちにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けた末吉裕一郎や西見祥示郎といった、次世代のアニメーターたちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、アニメーター黄金期の集大成ともいえるこの作品である。
『THE八犬伝』は、作画史においては『タイガーマスク』と同じような意味を持つ。つまり、それまでの作画の要素が全て詰まっているのだ。この作品を見れば、それ以前の作画の歴史というものが全部分かる。
『THE八犬伝』には、作画のあらゆる要素が詰まっている。ここには、『タイガーマスク』のような歴史的な作品としての「総合性」があり、『無敵超人ザンボット3』のような「パースの大胆さ」がある。『伝説巨神イデオン』のような「カメラワークと作画の融合」があり、『うる星やつら』のように「作画の魅力を全アニオタに知らしめ」た。また、『ポケットの中の戦争』のように「エフェクト的に成功」したのはもちろん、『クレヨンしんちゃん』のような「作画オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこの作画は、『タイガーマスク』と全く同じ意味合いを持っているのだ。作画史というものは、『THE八犬伝』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られた作画で、『THE八犬伝』の影響を免れたものはないからである。
以上、これさえ見れば作画を包括的・体系的にとらえることができる7本の作品を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、作画的に重要な作品は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「タイムシートの分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた作品は、いずれも「見ることによって他の作画にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『タイガーマスク』を見たならば、戦後の東映動画に自然と興味がいくだろうし、『ザンボット3』を見たなら、金田のそれ以外の作品も見たくなるだろう。板野についてもそれは言えるし、『うる星やつら』を見たなら、この作画を生み出す土壌ともなった「スタジオZ」というアニメスタジオにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『ポケ戦』はエフェクトオタクになるきっかけになるだろうし、『クレヨンしんちゃん』はその他の「作画オタク的なアニメーター」の作品も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『THE八犬伝』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこの作画は、統一度があまりにも低いために、これを見た後に他の作画を見ると、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの作品を見ることによって、作画をさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの作品を見ることによって、作画を包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな妨げとなるはずだ。
上に挙げた作品への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「作画を体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
ニート時代に読んだこの本によって、「作画とは何か」ということを、ぼくはを知った。
「作画は技術の集積だ」ということが、この本を読むことでよく分かる。何気なく見ていたシーンでも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
アニオタが金田の何に驚かされたかといえば、それはやっぱり大胆に歪まれたパースにだ。金田のパースには、作画の本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くのスタジオで多くの作画に、翻案されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、大塚や宮崎が作画というジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた作品のいくつかは、この本に書かれていた大塚の評価を参考にしたものでは別に無い
この本を読めば、どんな作画が素晴らしく、どんな作画がそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あの大塚の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980
※「伝説巨人イデオン」になってた所を「伝説巨神イデオン」に修正
※一部改訂してます
俺は三十歳なんだが、吾妻ひでおといえば、私の記憶は小学校高学年の頃(1989年ごろ)に読んだ新井素子のSF作品の挿絵を思い出す。
当時、それはすでに図書館に格納されて5年以上経った古い書物であり、新井素子の「絶句……」や共著「ひでおと素子の愛の交換日記」に挿絵を描く吾妻ひでおは、例えば萩尾望都や楳図かずおと同じような「70年代という過去」の作家だった。手塚治虫や藤子不二雄、横山光輝やちばてつやが歴史に残るような過去の漫画家で、高橋留美子や鳥山明、ゆうきまさみが過去に1作のヒットがある実績のある漫画家で、冨樫義博や青山剛昌、椎名高志が気鋭の新人だと思っていた頃のことだ。ロードス島戦記のリプレイはやってたけれど、テーブルトークRPGはさほど流行しておらず、カードゲームといえば「モンスターメーカー」しかなく、ライトノベルという分類はまだなく、スニーカー文庫が創刊されたかどうか、富野由悠季がガンダムの小説を書いていたのが唯一アニメの小説だった頃。おれら小学生が争ってドラクエ3を遊んでいた頃の話だ。
それから二十年経って、あのころ新井素子を読んでいた俺は、「サマーウォーズ」を見てぼろぼろと泣く微妙な大人になったけれど、吾妻ひでおは相変わらず二十年前と同じようなスタンスで「けいおん!」を見ていて、俺はそれがすごく嬉しいのだった。
今回の騒動は、海のトリトンを見て育ち、イデオンとかダンバインが好きだったうちの母(幼稚園に入る前の頃に俺は毎週イデオンを見せられていたらしい。記憶してなくて本当によかった)が、俺が中学の頃にはまっていた「ぼくの地球を守って」を読んで、「なんだ。こんだけ長いのに、ただの痴話喧嘩じゃない」と言い放ったのに対する反発みたいなもんかなあと、なんとなく思う。その後母が俺に勧めてきたのは「百億の昼と千億の夜」であって、まあなんだ、昔はものを思わなかったことであるなあ。
なんか、日記を読むと「俺は吾妻ひでおは知らないけど、「けいおん!」に関するコメントは分かるぜ」とか「むかつくぜ」みたいなのばっかりなので、ちょっと気になっていた。俺よりあと十歳年上の人なら、こんなすれ違いのような世代の話としてじゃなく、吾妻ひでおの最盛期を知る人の話として語れるような気がするんだけど、その世代の人はたぶんカジュアルに「けいおん!」を見てはいないんだろうなあ。
そういう「オタクもすでに2~3世代を重ね、ファンの世代がすでに分断されているのに、作家本人はその断絶を乗り越えた場所にいる」という意味でも、吾妻ひでおの今回の発言は「すげえな、おっさんいくつだよ」と思ったわけだが、そういう「長い時間の感覚」はどうしても若い人には伝わりづらく、そこが非常にはがゆく感じるので、俺はこうして増田に描いたわけだ。