はてなキーワード: 伽藍とは
アニメでたまに見かける、美少女なのにヘアスタイルがボサボサのキャラクター。あれ何なの?
具体例を出さねばなるまい。
最近見かけたのはISLANDの伽藍堂 紗羅(がらんどう さら)さん。検索して欲しいが、もうボッサボサである。
正直このアニメに関しては見ていないので、もしかしたらちゃんとした理由があるのかもしれない。髪がボサボサの理由が。
全話通しでみたアニメでもボサボサの美人が出ているのを何例か見たが、理由が明示されていることは無かったように思う。
前々期くらいにはトップがボサボサで襟足くらいからサラサラロングというのを見かけて噴き出した覚えがある。
あれですか?設定資料集とかにはそういう理由なんかが載っているんでしょうか?
『髪ボサボサ問題』とか書いちゃったけど、単純に疑問なんですよね。
もしかしたら私の知らないところでボサボサ・フェチがあるのかも知れない。
おしとやかで、恥ずかしがり屋な性格なのに痴女みたいな格好しているキャラクターみたいな。そんな性格の人がなんでそれを選んだ?みたいな違和感がある。
いや、そういうのも良いと思うんだけどね。
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。
目次 [非表示]
1 歴史
2 伽藍
3 黄不動
4 文化財
4.2 国宝
4.3 重要文化財
4.4 その他
5 御詠歌
7 交通
8 周辺
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
第一層、はてなブログ。
だから見た目はまるで天国のようだ。無垢なブロガーたちが、そこで日々を紡いでいる。よろこびを、かなしみを、いかりを、おそれを。
第二層、はてなダイアリー。
あなたはもう手首まで汚泥のなかに突っ込んでしまっている。嫌な感触があり、肚をつく怖気があり、戻るべきだという強烈な欲求に駆られる。
泥の底へ落ち込みつつも、凶悪な笑みを浮かべる彼らが狂っていないと誰に保証できる?
第三層、はてなブックマーク。
首まで地獄に浸かってしまった。全身にまとわりつく粘ついた黒い黒い黒いタールのような何か。
kanose が悪意と呼ぶそれ。xevra のプリント用紙。ノスケのダジャレ。
それらはすべて100文字以内でできている。
あなたはもう死にたくなっているはずだ。だが、それはまだ底ではない。地獄はまだ深い。
なにもかも際限がない。魂の抜けた匿名者たちのダンス、美しきブクマカたちの嘆き、ハイエナどもの宴。
耳をすませれば、かつて店長と呼ばれていた骨だけの獣がすり減った軟骨を軋ませ、悠揚と闊歩する、その様を聴く。
ここでは誰もが死んでいる。死んだまま、動いている。彼らの死臭にも似た溜め息が100字、1000字、10000字……そうだ、地獄には際限がない。
亡霊が号令する。八方からいっせいにトラックバックが発射される。言葉のハリネズミのようになった巨獣は切ない悲鳴をあげ、のたうち回る。
弱った元増田にどこからか飛来してきたブクマカたちが群がる。息絶えた巨大な肉塊をついばむ。肥え太ったブクマカたちの雑談が聴こえる。元増田など存在しないと嗤いあっている。自分たちがいままさにむさぼっている獣の肉の実在を疑っているのだ。かつて彼らと在ったはずの友の存在を。
その祈りはすでに叶えられている。あなたの息はとうの昔に止まっている。だが、あなたは死ねない。
第五層、はてなハイク。
やがて皆が名前を取り戻した。
だが失った心までは取り戻せない。死者たちが昼間から蠢いている。交わされる言葉は殻だけ残した卵のようだ。
あなたは空を見上げる。そこに空はない。幾重にも重なったインターネットの層が天を閉ざしている。ここに光は届かない。
「なぜ死なないの? 簡単なことじゃない。退会すればいいだけ。誰にもはてなにいろなんて強制しなかったし、これからもしないわ。醜くなれとも、美しく生きろとも命じていないわ。すべてはあなたの欲望しだい」
本当にそうだろうか。あなたは滄浪と退会処理を行う。
本当にそうだろうか。あなたはもうどこにもいない。
おめでとう。
ほい。
ざっくり見た限りでも
・ファミリー層向けじゃなくて
・女向けでもない
アニメいっぱいあるように見えるんだが
アフロサムライ:レザレクション 木崎文智 2009/12 ゴンゾ 漫画(岡崎能士)
いばらの王 ‐King of Thorn‐ 片山一良 2010/05 サンライズ 漫画(岩原裕二)
アップルシード XIII 〜遺言〜 浜名孝行 2011/06 Production I.G 漫画(士郎正宗)
劇場版 空の境界:第四章 伽藍の洞 滝口禎一 2008/05 ufotable 小説(奈須きのこ)
GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0 押井守 2008/07 Production I.G 漫画(士郎正宗)
…
…
そもそも「硬派なアニメ」と「面白いアニメ」と「売れたアニメ」は全部イコールではないわけだけど
そうじゃないの?
で、女が何なんだっけ?
きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版のテレビ放送だった。
悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったからなのだ。
起こったのはごく単純なことで、僕はネットでたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。
そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みにゲームをクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。
冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここから、WHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマを想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンドの二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。
ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲーの歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマは積極的に表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞とわずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人や超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマをささやかな心理学や物語に還元するのに対し、先の3作品は、トラウマを表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。
さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正面からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭をきっかけとした主人公とヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇は成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。
大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味で原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療の過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやかな日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療の過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間。
冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグを強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年もの間ピアノを毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからみあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいたものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまるで馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後の最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷なリアリティをもたらすために。
"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語の総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍の起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまり、ほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年のファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。
顔が好みだったからだよ!
一目惚れだよ!
これが、この巨大な地獄の起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常の現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、
* * * * *
ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティックな主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップの機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスのクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎なものがあろうか)し、CGをコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが、彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。
ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー的主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、
眠たくてしょうがなかった。
一度は掴みかけた謎を手のひらからこぼしてしまったことにはそんなに悔やむべくところはない。
そもそもがこの塔の最果てに何かがあると想定すること自体間違っているという可能性もあるのだから。
たとえ、肉と血を機械にまでして何かを守っているように彼らが見えるからといって、機械である以上、何も考えてないのかもしれない。
彼らが大切そうに格納しているのが、虚ろな遺物ではない保証などないのだ。だから別に悔しさも口惜しさも特に無い。
ただアイツは絶対怒るだろうな。こうして監禁されていても、彼女がいたならば脱出の糸口を探す努力を惜しまないだろうし、たぶんこの作戦の続行を主張しさえするだろう。
この伽藍の中、おそらく数週間は過ぎている。人でなしである自分は食物を恋しがることはないが、アイツの嫌味は少しは味わいたかった。
Eric Raymondのオープンソースのソフトウェア開発に関する有名な論文「伽藍とバザール」があるが,ソフトウェアってのは別にコンピュータプログラムに限らないわけで,例えば小説もソフトウェアだ.小説なんかは普通は一人の作家の創造性に大部分依存しているところがある.つまり,上記論文でいうところの「伽藍方式」で制作されている.
一方でLinuxに代表される,大人数で寄ってたかって制作するタイプの「バザール方式」では,意外なほど高品質なソフトウェアができるという経験則がある.これを小説にも応用できないか.
上記論文の解説にもこうある.
伽藍方式は村上龍が自分で村上龍の長編を書く方式、バザール方式は読書参加で村上龍の長編を書く方式。有象無象を集めて村上龍の小説を書かせた方が、村上龍一人が書くよりも優れた小説が書けると村上龍に言うようなものがこの論文。
では実際に優れた小説は書けるのか.バザール方式で書かれた小説はあるか.
もともと,出版の世界では作家の出してきた文章を編集者がチェックするというある種のコラボレーションの結果として成果物の品質が洗練されるところが大きかった.インターネットが出てきた結果,文章を公開するのはとにかく簡単になったが文章を真面目にチェックしてくれる第三者の欠如による品質の劣化は避けられない.
多人数で文章をつくりあげていく例はWikipediaをはじめとして色々あるような気はする(Wikipediaの記事が高品質かどうかは別として・・・).それを小説でやったというサイトやプロジェクトを知っていたら教えていただけないだろうか.
二次創作系の同人作品とかを見ていると,ネタさえあれば人は寄ってきそうではある.こういうのはSSを集積するサイトはあっても設定からして俺設定満載だったりでとにかく統一されていないので一つの作品にはならない.
少なくとも世界観の構築にはバザール方式は向きそうだ.第一に設定は多ければ多いほど良く,皆の思い付きを集積することによって世界観はより深化される.また,大勢が参加することにより設定の矛盾は即座にチェックされ修正される.
小さい頃、ヒーローになりたいと思っていた。
腰にベルトを巻いて、悪者が悪さをしているところに駆けつけて変身。キックやパンチを駆使して、いろんな人の助けになりたかった。
だから、その夢を忘れないように、大切に大切に小箱の中に仕舞っておくことにした。
鍵をかけて、目立つよう部屋の中央に置いておくことにした。
時が経って、ぼくの部屋には様々なものが溢れるようになってきた。
漫画やゲーム機、野球のバッドにサッカーボール。勉強机の上には様々な教材が年々増えていった。
そのそれぞれを、その都度適度に整頓していく。中央の小箱は次第に物陰に身を潜めるようになってしまっていた。
このままではいけない。小さいままだと、整頓したものに隠れてしまう。
気が付いたぼくは、一回り大きな箱に小箱を仕舞い込むことにした。鍵をかけると、とても安心することができた。
また時が経って、ぼくの部屋には更にたくさんのものが溢れるようになってきていた。
ギターにバイク、煙草にお酒、いやらしい雑誌なんかも床を埋め尽くすようになっていた。
とてもじゃないけれど生活するだけの場がなくなりかけていたので、かつて部屋を埋め尽くしていたものたちは隅に堆く積み上げることにしていた。
あるとき、そんな山の中にかつての夢を詰め込んだ箱があることに気が付いた。
ああ、あんな場所にあったのかと煙草を咥えながら思ったぼくは、山の中から箱を引っ張り出すと、更に大きな箱に仕舞って大切に鍵をかけることにした。
これで大丈夫。目立つし、まだ夢を失くしたわけじゃない。
思って箱を抱えると、そっと暖かな気持ちになることが出来た。
やがて、ぼくの部屋の中にものが入りきらなくなってきた。
もともと部屋の大きさには限度があったのだ。至極当然のことだった。
だから、仕方なく仕舞い込んだたくさんのものを整頓することにした。
かつてのぼくには必要だったかもしれないけれど、今のぼくにはもうまったく必要のないものがたくさんあったのだ。
ぼくは、漫画をまとめてゲーム機を捨てて、勉強机を処理し、一度使っただけで二度とは読まなかった教材を紐で縛ると部屋の外へと放り出した。
とっくに飽きてしまっていたギターは売り払って、禁煙に成功していたから煙草はいやらしい雑誌と一緒に燃やしてしまった。
掃除機をかけて、雑巾で拭き清め、様々なものを片付け終わった部屋を眺めてみると、存外広かったということに初めて気が付いた。
部屋が、ほんの少しだけ虚しくなってしまうほどに広かった。
その中央には、かつての夢を詰め込んだ大きな箱が鎮座している。
埃を被り、少々薄汚れていたけれども、ずっと大切にしていた確かな宝物だった。
――これさえあれば、ぼくはぼくとしての指針を作っていける。
胸を張って誇らしく思うと、鼻が大きく膨らんで空気が逃げていった。
ただ、これだけ伽藍堂になった部屋の中では、箱の大きさはかえって邪魔になってしまっていた。
もう少し小さな箱の方がちょうどよかった。
思い悩んだぼくは、かつて箱の中に小さな小箱を入れたのを思い出す。早速鍵を開けようと内ポケットに入れておいた箱の鍵を取り出そうとした。
けれど、どれだけ探したところで、小さな小さな鍵は見つからなかった。
――おかしい。失くすはずなどないと信じていたのに。
焦ったぼくは、更に恐ろしいことに気が付いてしまう。
――箱の中にはどんな夢が入っていたんだったっけ?
すっかり広くなった部屋の中で、ぼくはただただ大きくなってしまった夢の箱と対峙する。
部屋から出すこともできないその箱は、ぼくを非難するようにじっと黙り続けていた。