はてなキーワード: リベラリストとは
ソーシャルリベラリストとかフェミニスト扱いされてる人、もしくはそのように自分自身を誤認している人も居るように思えるけど、GNUが掲げる「自身の所有物の制御権は自分自身が掌握すべき」という提言に物凄くしっくり来る人はかなり多いんじゃなかろうか
そしてそれは他者にも及び、他者の制御権を奪っちゃいけないよねとなっている
更に言えば自身の制御権を掌握できる仕組み作りをGNUに賛同する皆でしようというのがGNUの試みだ
インターネット黎明期1985年以来、ずっと続けられている運動がGNUなんだ
あなたの居場所はソーシャルリベラリズムとかフェミニズムではなくGNUなのでは?
そう思えてならない人がインターネット上に多すぎる
複数のMastodonサーバーが存在し、それぞれが異なるレギュレーションを運用しているという時点で拒否感が出るだろう。
何せリベラリストが信じる公正公平という基準的価値観が、その他のMastodonサーバーでは基準的価値観であるとは限らず、しかも価値観の違うその他のMastodonサーバーの書き込みが連合(グローバルタイムライン)で普通に流れてくる。
本来ならばリベラリストだからこそ理解できる概念なのだが、今のリベラリストからするとMastodonの仕組みはリバタリアニズムなので受け入れることが中々難しいのだ。
有識者に言わせればMastodonやActivityPubプロトコルなどの背景はハッカー文化であるし、ハッカー文化が影響受けたのはヒッピー文化であるので、むしろ今の日本のリベラリストよりもMastodonなどのFediverseネットワークSNS界隈はずっとリベラルなのだ。
しかしTwitterを愛用したい今のリベラリストは「Mastodonはリバタリアニズム」「陰謀論者が使ってる」「移行するのは意識が高いやつだけ」などとキャンペーンを打ち、どうにかしてMastodonはリベラルでないという印象を作りたがっている。
自称リベラリストでありながらレギュレーションやルール、価値観が単一でないという状態へ「理解」を示すことができない今のままでは日本のリベラルは嫌われたままなんだろうと思う。
Mastodonへ移行するもしないのも「自由」なので好きにしたら良いとは思うけどMastodonがリベラルでないというレッテル貼りはやめた方が良いぞと個人的に主張したい。
このエントリは昨今の暴力性について思うところがあり書かれた。
具体的に言えば「直接的な暴力は禁忌されると主張されながらも言葉の暴力については無頓着である」ことに違和感を覚え、皆様が抱える心の問題について何らかのヒントになればと考えて作成している。
猟師とは、現代でもある意味でその暴力性を野放しにされている職業の1つだ。
銃火器や罠が法的に制限されている程度で猟師の暴力性がすべて制限されているわけがなく、私自身も含め家の業(わざ)として猟師の技術を継承している人たちは箸一本あれば大抵のことはなせると言うだろうし、それがナイフやキリであればより効果的な使い方が出来る。
言うまでもなく私達は様々な命を奪い取り生計をなす者達であり、警察や軍隊や武術家や格闘家などと近似した暴力の専門家である。
法的な制限が緩いのは偶然であり、単に目立たないからそうなっているだけで機会が訪れればいくらでも法的に制限はされるものであると推測している。
私は猟師の技術を祖父と父に仕込まれたが普段から口すっぱく言われ続けたことがある。
「みだりに暴力を奮ってはならない」
私の心の成長に合わせ「みだりに暴力を奮ってはならない」の解像度は高くなっていった。
多くの人々は「みだりに暴力を奮ってはならない」と目にしたとき「そんなことは当たり前だろう」と考えるだろうが、今まさにあなた様が直感した意味の「みだりに暴力を奮ってはならない」とは少々違う教えを私は受けている。
なぜ私があなた様の想定を推測できるのか?と言えば、私自身も幼少期の頃はあなた様と同様の「みだりに暴力を奮ってはならない」と考えていたからである。
もしかしたらこれを聞くと大反対したくなる方も居るかもしれないが「みだりに暴力を奮ってはならない」は「みだりに」なのだ。
つまり絶対的な禁忌として暴力を封じた教えではなく、限定された条件がであれば暴力を発動しても良いとした教えである。
そもそも我が家は猟師であり、暴力の発動をなさねば食うに困り生きながらえることが困難になるので絶対的な禁忌として暴力を封じることができないという事情もある。
私が中学生のとき上級生と殴り合いの喧嘩をしたことがある。
今振り返れば喧嘩という表現すらおこがましく、先輩から最初の一撃を食らったので反撃へ移り一方的な状況にしたと表現したほうが良い。上級生は肋骨と肘関節にヒビが入った。もちろん意図的にやったことである。解体の応用だ。
それを知った祖父と父は激怒した。特に祖父は激怒しながら私へこう言った。
「男の暴力は大事なものだ!大事なものだからこそ最後まで取っておくんだ!男にとって大事なものなんだ!宝物なんだわかるか!」
祖父は激怒していたので「男にとって」と勢いあまって言ってしまったが、今の大人になった私は「人間にとって」と解釈している。
あなた様が「みだりに暴力を奮ってはならない」と聞いたとき「暴力は宝物」という解釈はあっただろうか?おそらく無いだろう。
中学生だった私は祖父のこの言葉へ衝撃を受けた。今まで暴力は絶対的な禁忌として教えられていたものと確信していたのに、そうではなく大事なものだからこそ簡単に奮うなという教えであったことに気付いたからだ。
あまりの衝撃に当時の私は自分はなんてことをしたのだろうと心から深く反省したし、2度と喧嘩で暴力を使わないと自分ルール、戒めとして持つようになった。
(※中学生時代の私から暴力を受けた先輩はオブラートに包めば普段から大人たちを困らせる「やんちゃ」なタイプであった。偶然にも私へ「ちょっかい」をかけてしまったのだ。)
私はこれらのことから「皆様の大事な宝物である言葉の暴力」について今一度考えて欲しいとお願い申し上げたい。
特に子供を持つ親であるのならば「暴力は大事な宝物」という表現の解像度は一層高いように思う。私も親となり解像度が高まった。
独身であっても例えば「法律上の緊急避難」や「法律上の正当防衛」「警察や国軍の暴力は合法」がなぜ成立するのか?という部分で高い解像度を得られると思う。子供が出来るまで私は「暴力は大事な宝物」という点で納得感を得ていた。警察や国軍であってもみだりに使えば違法化しますしね。
「言葉の暴力」を「大事な宝物」と解釈したとき、その答えは十人十色となることが予想されるが私はそれで良いと考える。
最後に、男であっても女であっても、リベラリストであってもフェミニストであっても、あなた様の言葉の暴力は大事な宝物であるからこそ、みだりに奮ってはいけないのではないか?と提言をよせてエントリをしめたいと思う。
戦争反対の主旨には同意するけど、読んでから言及しような。「希望は戦争」ってそんな無責任なお気楽な文章ではないよ。
「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html
苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
しかし、それでも、と思う。
それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。
おまえリベラリストだったのか草
とりあえず最初にまさか...そんな...猫耳カチューシャ...を最近知って素晴らしいものを読ませて頂けたことへ最大級の賛辞を贈りたい。
猫耳カチューシャは心を豊かにするのだと心新たにすることができた。
では本題だけれども、ボクのリベラルの根源はGNU宣言とフリーソフトウェア運動というエントリを読み、猫耳カチューシャ増田であると記名して書こうという思いに至って実際に行動している。
端的に言えば「猫耳カチューシャを装着するという自己決定を擁護する側のケモノミミストであり、その自己決定の制御権は他者に侵害されるべきではない」と考えている次第だ。
男であれ女であれ性別の型に依らず猫耳カチューシャを装着する自由があるべきだし、年齢がどうのとかどうでも良いじゃんと、猫耳カチューシャを装着したいなら、猫耳カチューシャでパートナーを誘惑したいなら好きにやったら良いじゃんと思うのだ。
これまで猫耳カチューシャ増田はソーシャルリベラリズムに「猫耳カチューシャの自由」の根拠を求めていたが、近年の、特にインターネット上で支持される類のソーシャルリベラリズムはその理念に反して自己の発露を抑制し、あまつさえ規制しようという動きがあるのは否定できないはずだ。
あろうことか野党は与党が自己の発露を擁護しようという立場へ立った際に、与党と差別化しようと政局しか考えず自己の発露の抑制へ歩みを進めるという愚を犯してしまった
共産主義政党は別として、与党よりもソーシャルリベラリズム政党として認識されていながらソーシャルだけに注力しリベラルを棄てるとは、そしてそんな政党を支持してしまうインターネット上のソーシャルリベラリズム界隈には猫耳カチューシャの自由を預けることが正直出来ない。
いつしか猫耳カチューシャが店頭やネットショップから消えて流通されなくなってしまうのではないかと恐怖を覚えてしまうのだ。
あなた達は言ったじゃないか、特定の商品が流通しないように社会合意をはかっていくと。
そんな恐怖に怯えている最中に読んだのが上記の「ボクのリベラルの根源はGNU宣言とフリーソフトウェア運動」だ。
読めば読むほどGNU派にはケモノミミストが求める猫耳カチューシャの自由があるではないか!
猫耳カチューシャを装着する自由、ウサ耳カチューシャを装着する自由、4つ耳であっても良い、髪でヒト耳を隠せば良いじゃないかという自由、そしてケモノミミを装着しなくても良い自由すらある!
我々とあなた達の自己決定をGNUは担保する!
ソーシャルリベラリストよ、このエントリのバカバカしさを受け止められるか?
「夫に猫耳カチューシャを着けたら最強じゃね?」という妻のバカバカしい声を受け止められるか?「猫耳カチューシャを着けた妻の可愛い姿を観たい」という夫のバカバカしい声を受け止められるか?
自分は、猫耳カチューシャ増田はGNU派へ転向したからこそソーシャルリベラリスト達の「GNU派ってバカなのか?」という声すら受け止めようじゃないか!
リベラリストの根拠は(中略)個人へ委ねられている。この問題点は現在まさに問題視されている特定の宗教団体の問題と殆んど違いがない
現在まさに問題視されている特定宗教団体、すなわち旧統一教会の問題は、霊感商法によって破産にまでいたる多額の献金プレッシャー、マインドコントロール、合同結婚による海外への日本人女性に対するhuman trafficking など人権無視の疑いのある諸活動と、そのような団体と政権与党の関与の疑いでは?
ほかには自称愛国者たちの言論活動と反日を掲げるカルトの関係も世論的には重要なポイントになるだろう。
思想的な対立であるかのように言ってるけどどこまでも卑近で単純な話だと思うんだがなぁ
追記)元増田は要するにリベラルだってカルトじゃん!と言っているっぽくて、そのうえで同じカルトなんだからこれは思想内容の対立だ!と持っていこうとしているように見える。しかし実際はリベラリズム、あるいは保守主義でさえ思想そのものは特定個人の権威に頼ったものとは言い切れず、さらに本件の問題は統一教会の活動内容そのものにあると思われるがいかがか
ほかでも言われてるけどリベラルの根拠が政党だからそうなってる
現在の、現在のソーシャルリベラリズムな。
現在なので変化をしたら将来的にはソーシャルリベラリズムが最も悪くない選択肢と言われるかも知れない。
んで、現在のソーシャルリベラリズム、いやもっと狭めようか、現在の日本のソーシャルリベラリズムを信望するリベラリストの根拠は特定の政党もしくはインフルエンサー的な個人へ委ねられている。
この問題点は現在まさに問題視されている特定の宗教団体の問題と殆んど違いがないと言って良く、政治団体だから良いのだと言ってしまえば、それは過去に暴力革命を行おうとした政治団体の存在の歴史を軽視していると言わざる得ない。我々はそれを実際に経験しているのだから。
現在の日本のソーシャルリベラリズムの限界とは、そのソーシャルリベラリズムの根拠が特定の政党もしくはインフルエンサー的な個人へ委ねられているということなんだ。
しかもその限界は、アンチ思想であっても同じこと。反自民であれ反共産であれ反オタクであれ反フェミニズムであれ、自民党や共産党、オタク、フェミニストの存在が根拠として駆動している。
例の事件の根拠は反統一教会だ。反自民や反フェミニズムと何が違うのか。安倍に恨みがなくとも統一教会を擁護する立場にあればこの世から抹消する、その漫画に恨みがなくとも表現の自由を擁護する立場にあればこの世から抹消する。何が違うのか。
現在のソーシャルリベラリズムの限界を認めよう、そして新しいソーシャルリベラリズムを模索しよう。
そうしなければ違いなど決してありはしない。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220705/k10013703161000.html
あーあきたねBA.4 BA.5。もうこれ、君たちがワクチン打つからよ?アホだから分からんでしょ?
変異の早い風邪ウイルスに対して、ワクチンを大規模接種すればウイルスの方も学習するわけです。
これを選択圧と呼ぶ。お中国も含めて、ゼロコロナ政策は完全にパワフルバカ理論。
おまけに何が最悪かって、mRNA接種国のみなさんはシュードウリジンによって免疫抑制されちゃってる。mRNAを接種してる思考停止した蛋白豚野郎ほど感染して重症化しやすいって状況なわけさ。あーあ。これから酷いことになるわ。
これね。君たちがもっと賢くて勤勉で慎重な真のリベラリストでワクチン未接種なナイスガイだったのなら、BA.4 BA.5なんてものは、今頃そこまで恐怖ではないんだよ?栄養のあるゴハンを食べて、デブは運動して、ビタミンDや亜鉛のサプリでも飲んで免疫を上げて、そうゆう対処の仕方で良いわけ。
もうさ、はてぶのコロナ関係のコメント見てたけど周回遅れだよな。なんで色々とデータが出てきてる中、お前らはまだワクチンで消耗してんのさ?
ねぇ、マジでアホでしょ?命が惜しいなら、調べる手間を惜しむなよ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20220705-00303906
ねぇ。なんでファイザーの広告塔・日本支部さんが、いつもは「ワクチンを打て」とか煽ってたのに、今回の記事では言わないのか分かる?
ヤフコメはゴミの掃き溜めだと思うけど、良く調べて本質突いてるやつ多いと思うわ。
そろそろ、ちゃんと考えようぜ。
何が表現の自由界隈だよふざけんな
ほんの十年前まで男オタクが腐女子に何をしてきたかすっかり忘れたのか
生きるゴミクズゴキブリウジ虫様々な蔑称で楽しそうに罵って嫌がらせしまくったくせに
証拠が見たいならニコニコ大百科の腐女子やゴキ腐リといった記事のコメント欄を見ればいい
当時の男オタクは正義のこん棒で楽しそうに腐女子を殴り、表現の自由を規制しまくった
一定年齢以上の腐女子なら具体的に受けた嫌がらせエピソードなんか無数にある
彼らの常套句は「腐女子は批判してない。俺が叩くのはゴキ腐リ」
ゴキ腐リの定義とは、公共の場所で腐女子を自称しそれを匂わせる表現をする腐女子のことだ
この場合の公共の場所とは駅前でも官公庁とのコラボでも公式関係の場所のことでもない
腐女子が居てもいいと男オタクからお目こぼししていただいた場所以外のすべての空間のことだ
男オタクは腐女子は実在の同性愛者を性的搾取していると言いながら淫夢ネタで馬鹿笑いしてた
今表現の自由を守れと大騒ぎしている奴らの多くは楽しんで腐女子の表現の自由を殴りまくっていたか
それをぼーっと見ながら「でも腐女子も悪いじゃん」と放置してたやつら
あの時、それはおかしい、表現の自由を守れと言ったのはリベラリストやフェミニストだったし
抗議してくれた人たちは今も様々な場所で表現の自由を守る戦いをしている
表現の自由界隈の人たちはもう忘れてしまっただろうが、やられた方は忘れない
表現の自由はとても大切だ
だがお前らと手を組むことはない