はてなキーワード: コモンセンスとは
自分と馬が合わずに付き合い無くなったり数回しか会わなかった人と、
今も付き合いが続いていたり何度も会うようになった人。
ふと考えてみたら前者の大半は中・高卒、一部だけ専門・短大卒で職場も転々として長続きしない感じで、
後者は殆どがそれなり以上の四大卒・院卒でそれなりのポジションの人が多いってことに気付いた。
馬が合わなくなったのもバレバレのウソでドタキャンやらこちらが損するだけの予定変更を繰り返したり、
人によってあからさまに態度変えたりとか最低限の礼節に欠けてるパターンが多くて、
そういうのやめてねってやんわりと伝えるけど大体が逆ギレかあとで陰口叩かれる感じ。
(その大半がサバサバ系とかデキる人間を自称してて、相変わらず何かの集まりやらSNSで人生論講釈したり、
未だに何年も前にやんわり指摘したことについて都合いいように捻じ曲げて被害者として陰口叩いてるらしいけども)
もちろん今付き合いある人だってウソの理由で予定変えてたり陰口も叩いてるかもしれないけど、
そんなバレバレじゃないし予定に穴開けた分の補償は何かしらするし、そもそもよっぽどのことがなきゃドタキャンはしないし、
陰口だって相手の耳に入る可能性がある範囲では叩かないだろうしね。
常識力というかコモンセンス的なものは育ちとか周囲の環境の方が与える影響は大きいんだろうけど、
やっぱ傾向としてそれなりのとこに進学する知識を養える環境にいた人のが育ちが良いってのはまあ今更な話か。
http://anond.hatelabo.jp/20141122174138 と考えている人と、
「騙してやろう、捏造してやろうなんて別に思ってない、ただの演出だよ、暗黙の了解だろ」と考えている人がいて、
などをどう捉えるのだろうか。
いや、「男性が自分の主張を架空の女性に代弁させるなんて気持ち悪い」とか、
「外国人という権威を利用して日本人的な主張をさせるなんて許せない」とか、
そういう意見に一理はあると思うよ。
でも「騙される人もいるかもしれないけど面白いじゃん、そんなに悪いことじゃないだろ」っていう人も多いんだよね。
小学四年生のやつだって企画段階で「捏造って思われて炎上するかも?」なんて欠片ほども考えてなかったんじゃないかな。
「みんな面白がってくれるんじゃない?」と思ってたんじゃないか。
学校なんて行かなくていいと俺は思うぞ。
ただし、リスクを自分で享受できるならな。俺は中学はほぼ行かなかった。
ちなみにだ、「高校中退」は世間的には「モノスゲーバカ」と看做される。「使い道のないゴミ」と判断される。
また、他人と違うルートを辿ってきた人間は、他人より優秀じゃなければ許されない。
しかしまぁ、一流大学に入ればその後色々めんどいことはあるだろうが、基本的になんとかなるので
自信があるなら独学で行け。俺はそうした。
しかし中卒で、その中学も碌に通わず大学も行かないとなるとそれは本人の能力に関わらず
世間は「ゴミ」と判断する。世の中、個人が「ゴミ」か「有為な人材」かを判断するのは他人なので
要するに、学校で得られる「社会って大体こんなもん」っていうコモンセンス
それを君は得ないま大学へ行き、社会に出ることになる。結果として、君はわりと「変わった人」
になることだろう。その変な人を「個性的で優秀な人」に転嫁する自信が自分にあるなら
ちなみに、大学はどんなに低くても早慶旧帝(意味知らんかったらググれ)以上だ。
つーわけで、「俺は世の中のしきたりになんかしたがわなくても、自分で生きていけるぜ!俺は優秀だ!」と
思うなら、君は学校なんか行く必要はない。是非そうしたらいい。俺もそうしたし、君もそうしろ。
ただし、君が自ら学ぶことが出来ず「やっぱり学校に行かずに独りで学習なんて無理でした」って程度の能力だった場合
君の人生は円満終了、君はゴミとしてゴミ以下の一生を送るだろうが、それはギャンブルだ。
ちなみに、この文章が理解出来ないなら素直に学校行った方が得だとは思うがな。
なにせ、学校に頼らず誰の力も借りず君はこれから意思決定していかなきゃならない、誰も君のためにわかりやすく教えてくれたりしない。
それをやる自信があるなら、学校なんて放棄しちまえ!楽しいぞ!自由に生きろ!
自分でやれるなら、独りでやれるなら、学校に頼る必要なんてゼロだ!
文化人類学は、文化についての客観的情報を提供するのではなく、我々が彼らをどのように捉えているか、つまり我々の<文化>の一部を暴露しているにすぎない。したがって異文化の分析は、自分が所属する社会の<文化>についての分析を同時に意味するのである」 (太田 好信:1994,『人類学のコモンセンス』17ページ)
「お酌を強要するのは文化の押しつけだ」という反論も文化の押しつけという点では同レベル。
「それはおかしい、個人の意思は尊重されるべきだ」という反論も文化の産物。
出てきた順序、というよりは、小学校で教えられる教え方が一般に浸透するのだから、それがコモンセンスになるのでその通り教えればいい、と思っている。
のだから、逆に言えば「小学校で教えられない教え方は一般に浸透してはいない」と考えられる。
そして小学校では「数字が出てきた順に掛けるのが正しい」とは教えていない。
(例の大量にブクマを集めた宗派一覧にさえ、「問題文に出てきた順が正しい順だよ派」などいない)
従って「一般人は素直に数字が出てきた順に掛ける」というのはキミの誤認だ。
しかもどこから発生したのか全く分からない、頭のどこかで所謂「ボタンの掛け違え」が発生したまま生きてきてしまったのかなあとしか思えない間違いだ。
わかったらさっさと宗旨替えしたまえ。
「4人のお友達に3コずつアメを配ります。アメは全部で何個必要ですか?」って文章を数式に引き直したら4×3だろ。3×4じゃない。
それは違うよ。数学的な問題ではなく、常識、コモンセンスの問題。
「4人のお友達に3コずつアメを配ります。アメは全部で何個必要ですか?」を数式にひきなおした時に、日本人の多くが3x4と認識するならば、3x4が正解。
だからそうじゃなくて、
基本的には数字の出てきた順に書くのが一般的。まあ、個別に順序のルールが定着しているものはあるけど、小学生に教えるならまずはこの一般的な順序からでしょ。
長いものに巻かれることの是非とか以前で、キミは多数派に与する事自体が出来ていないんだよ。
「掛け算には順序があるよ派」が論拠としているのは学習指導要綱に出てくる「掛ける数」「掛けられる数」についての言及で、その解釈として「かけ算の式は『一つ分の数=掛けられる数』×『いくつ分=掛ける数』の順に書く約束になっている」が成立するというのが主な主張。
「順序はないよ派」は交換法則の成立を論拠に、順番を固定化することの正当性はないというのが主な主張。
どっちにしても「出てきた順に掛け算するのが正しい」というやり方は擁していない。
「順序があるよ派=学習指導要綱の解釈に則り掛ける数と掛けられる数の順番を重視して指導するよ派」と
「順序は無いよ派=順不同、不正解にはしないよ派」のどちらかがあって、
たぶん集計すればどっちが多数派=コモンセンスということになるかは判明するだろうけど、
どちらにしても「出てきた順番に掛けなければならない」と指導しているところは無い。
脈絡もなく唐突に言ったんじゃないの?唐突にいだせば、そらそういう突っ込みがあることは想定できるだろ。世の中にはいろんな人がいるんだよ。
世の中にはいろんな人がいるんだよ。というと、あぁ、バカいるよね。みたいなことをいいだす人がいるけど・・・そうじゃねーよ。
世の中みんながみんな、ギャグを理解する(理解する知能が有るという意味じゃねーよ)奴ばっかじゃねーよ。
ギャグを理解しないなんて偏屈な!と言い出す前に、そういう奴でも通じるようにギャグを言えよ。
ネットは村じゃねーんだから、コモンセンスなんか通じないよ。 コナン君をみてなかったら ただの誤記にしかならないってことに気がつけ。コナン君の視聴率は100%じゃねーよ。