はてなキーワード: くしゃみとは
・咳をするときに口や鼻を覆わない
・くしゃみをした人に対して「健康を!」とか言わなきゃいけない(=くしゃみが細菌・ウイルスをまき散らす迷惑行為だといまいち認識されていない)
・公衆トイレが極度に少なく、高級住宅街ですら道端で排泄してる人を見かける(!)
・公園にもトイレがないので茂みから変な臭いがしたり、拭いたティッシュらしきものが落ちている
・マスクを着ける=感染症患者と見なされるため誰もマスクを着けない
・ティッシュがしっかりしているので一度鼻をかんだらまたポケットにしまってまた使う!!!
仕事で使う作業着の類が油まみれになる。油抜きの手っ取り早い方法を調べ、学び、実践する。翌日使う場合もあるため、早く乾く干し方も学ぶ。必然的に洗濯に対するこだわりが生まれ、得意になる。
体調管理も仕事のうちであるため、日頃の食事に気を使う。健康的な食事をするために、多少の栄養学を学び、タンパク質、脂質、糖質の目標摂取量の計算もできるようになる。完璧ではないにしろ、必要な食材を選び、使い切れるように献立を組み立て、実践する。必然的に自炊ができるようになり、料理に関しては趣味・特技と言えるまでになった。
仕方なくやっていたことでも、こだわりを持ち始めたらうまくなれる、というのが私の経験則だ。
生ゴミの処理はハエがわかないようにちゃんとやる。キッチンシンクも臭くならないよう定期的にきれいにする。風呂もカビが生えるとくしゃみが止まらなくなるので定期的にきれいにする。しかし、居室に関しては床にペットボトルが散らばってても、棚にホコリが積もってても、「ああ、散らかってるな」「ああ、汚いな」で終わってしまう。部屋が汚いという感情はあるが、それ以上のものが湧いてこない。何となくやる気になることもあるし、工夫の余地も多分にあるが、脳味噌が動かない。私の掃除は、気まぐれでしかないのだ。
掃除に対してのこだわりを持ちたい。
今年増田に猫投稿してたけど今一緒にいない、実家の猫だからさわれんのよ。
感触を思い出してまくらを猫に見立てて文面を書き込んでるとブックマークやトラックバックをもらえて嬉かった。
私のかわいいひとがみんなに誉められてる気がして嬉しかった。猫はかわいい、愛をくれる。最近、近所に猫エイズの子だけを集めた猫カフェがあるのを知った。
くしゃみをよくするらしいけど行ってみたい。
これに関するクレーム出した方は遠回しに店員に死ねと言っているのでしょうか。
去年は客から貰って熱が41度まで上がりましたね。予防接種してです。
死にそうだったわクソ。
重症なのと薬が効きにくい体質が合わさって毎年花粉の時期は鼻たれクソ野郎かましてますよ。
マスクって確かに表情分からんし、声こもるし、本当に無愛想なやつもいるだろうし、言ってる事の理解はできるよ。理解は。
でもね、お客さんだってイヤホンしたままで、話しかけても無反応で返事もしないじゃんね。
こういうのってさ、店員とお客さんお互い様なんじゃないのかな。
あなた達はこの仕事しないから分からないかもしれないけど、一般企業がお休みの時期にお店をあけるための人員が感染症でぶっ倒れて店あけられないなんてことになったら…なんて考えたこと、ある?
マスクをしているから感染症にかかる人が出ないって訳では無いけど、かかってしまう確率は下がるよね。
お店があいてなくてもどうせ文句言うんだから、お店を安心してあけるためにもそのくらい許してくれよ。
という、愚痴。
くしゃみの瞬間って、反射反応だから、理性が支配していた身体を本性(ほんせい)が奪うともいえる。したがって、身体を奪われた理性が身体から剥離するという想像は難しくない。剥離体が再び身体を支配する(すなわち本性が鎮まる)とき、その定着を錯誤なく完了するために(アブラハムの)神の手が必要だと思わせたのだろう。
しかし、理性から身体を奪った本性(生命維持のための反射反応)こそが人格の主人だと考えると、話は逆になってくる。普段、身体を支配しているのは本性であり、理性は時間的領域的に一部の支配権を移譲された状態でしかないと考える。すると、くしゃみの瞬間は人間の本質の顕れであるといえる。その結果は、二通りの反応とスペクトラムになる。すなわち、第一に、本性の発露は正しく善であるのでそのままを容認する反応。第二に、本性の発露は動物的で人間らしくないので容認しない反応。あるいは、社会性に因る分別を通過して容認か非容認かを選択する反応である。
以上のことから