名前を隠して楽しく日記。
偉大なるコボラーである田中十蔵は田中コボリスト十蔵に改名し子々孫々と襲名してゆくのであったがライバルの井上パイソンのりみつの子孫が繁栄してゆく反面で凋落してゆくのであった。
なんで基本だと思ったんだろう?
おりこう?
すまん、確認画面じゃ全部入ってたんだけどなー
こんな長文読む人いるだろうかと思って投下したけど大勢読んでくれたみたいで感謝。
ブコメに少しだけ返事
穂高先生の一件で漏れてる視点としては、当時、女性弁護士なんて道がそもそもなかった時代に、子ども生んだあと弁護士に返り咲きなんて可能性は一切あり得なかった現実があるとも思うわ。今では想像もつかんと思うが
寅子の場合戻れるかどうかは雇用主の雲野が再雇用するかどうか次第だし、そこで寅子から頼まれたとして雲野が拒否するようなキャラには見えなかったけど。
(結果的にその後事務所の経営が悪化して雇えない状態になったがそれは結果論に過ぎない)
この話に共感してた人たち、自分の経験(恐らく一般会社員だった自分が出産で辞めて再就職先が見つからなかったという経験)
を寅子に重ね合わせてるんだろうけど前提が全然違うだろ。
久保田先輩が「仕事も家庭も満点を求められる」と言っていたけど、それもあくまで久保田の話であって寅子は家庭が0点でも家族皆許容してたし
出産後も家事も育児も何もしなくても多分誰も文句言わなかっただろうし、実際再就職後にそうしていても家族も「世間」も誰も何も言わなかったわけで。
新潟転勤の際にようやく花江がブチ切れたのだって「家事育児をしないから」じゃなくて「何も出来てない自分を自覚すらせず優未を連れて行こうとしたから」だし。
この辺は恐らく雲野を後に原爆裁判で再登場させるつもりだったから悪役に出来なくてブレたんだろうと思っている。
ここで雲野を使い捨てる予定で悪役にすれば、具体的には「産んだら戻ってくるからまた雇ってくれと頼む寅子に対して子供いる女が働くのは良くないと言う」とかにすれば
寅子の絶望がよく伝わったと思うんだけど。
実際は雲野は最後まで理解あるキャラのままだったし、資格があるんだから戻ればいい等の台詞(何でこれ入れた)もあるせいで
寅子が「戻ろうと思えば戻れる余地はあったのに勝手に切れて辞めて行った」ように見えた。
寅子自身がそれに批判的ではなく、逆にノリノリで調子こいて天狗になってたからね。
これも最初はそういう構図を批判的に描いてたんだよ。「明律大は女子部や女子学生をただの客寄せパンダとしか考えていない」とか
「婦人弁護士様と祭り上げられてるのは男がどんどん徴兵で取られていく中で人手不足を女で補おうとしているだけ」とか。
当時はそこに主人公たちが気付いて不快感を示していた、でも女が上に行くにはそれも利用しなければならないので割り切ろうとしていた…という描写だと思っていたけど、
後で考えたら「気付いていたのは周りの人間だけで寅子は無自覚、んで自分はそれに乗っかって喜んでしまうタイプ」だったんだなと。
或いは脚本家は最初はその辺も丁寧に描いていたけど中盤から「調子こいた寅子」を描く方を優先したので上手く描けなくなった、か。
あと雲野と同じく桂場多岐川ライアンのおじさん上司組も悪役にしたくない、ってのもありそう。
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切れたんで続き
インタビューを見るに、この脚本家はとにかく「母性」が描きたくなくて意図的に寅子を毒親にしたらしい。
あと恐らく「一般的な男女の恋愛」も嫌いだと思う(同性愛やその他セクマイは大好きみたいだけど)
そういう人が、「最初の夫と死に別れて一人で子供を育て、後に再婚した」
「家庭裁判所で多数の非行少年少女を更生させた、少年たちに真摯に向き合い心を開かせるのが得意で三淵マジックと言われた」
二度も結婚してるからそれなりに恋愛も描かなきゃならない(恋愛感情なしの打算婚を二度もする、ってのはドラマ的に共感されないだろう)
家裁で働いているからには少年少女と向き合わせなければならない。
なのに脚本家はそういうのを描きたくない、と来た。
これが夫がずっと生存しているなら「本人は子供が苦手だけど夫がフォローする」設定に出来るし
子供に関わる仕事をしていなければ子供と向き合わせる必要もない。
結婚だって若い頃一度するだけならもっと描きやすかっただろう。
なのに何でこんな題材を選んだ。
NHK側が提示したモデル候補数人の中から選んだそうだけど、他にもっと適したモデルがいなかったのか。
三淵嘉子を提示する時点で、NHKとしては「主人公の母性で少年たちが更生していく」話を期待していたんじゃないのか。
そもそもここまで史実を無視して自分が描きたいものをぶちこむ人だとオリジナルにするべきだったかもしれないが。
弁護士ならひたすら依頼人の味方でいいが、裁判官はどちらかに肩入れも出来ないし
守秘義務あるから抱えてる案件に対して同じ案件に関わってる同僚以外と語る事もできない。
ドラマ的に「映える」場面が作りにくい。
終盤の大きな裁判も、原爆裁判は寅子は史実通りの判決文を読み上げる汐見の隣に座ってるだけ(せめて史実を無視して寅子に判決文読ませては?)
尊属殺はそもそも直接的な関わりもなしで、どちらも「弁護士の」よねの方が明らかに活躍していた。
花江と並んで「寅子とは対称的な生き方」をする女性として作られたというよね。
つまり「仕事も結婚出産もする女」「結婚出産して家庭に生きる女」「結婚出産はせず仕事に生きる女」なわけだ。
更に「恵まれた育ちの寅子と花江」に対して「恵まれない育ちのよね」という対比もある。
でもこの時代に女が「仕事だけして生きる」「女の力だけで生きる」のは無理があるので、
でも恵まれない育ちなので身内設定には出来ない(というか父親が虐待親だし)
という事で若い頃はカフェ燈台のマスター、戦後は轟がよねサポートキャラとして設定されている。
となるとゲイ設定が都合が良い。
という事で(多分)轟はゲイになった。
ただ脚本家の主義主張の為だけで実はゲイでしたとやってるわけではなく、物語上の必要性があってゲイである。
マスターも裏設定でゲイじゃないかと思う。上野だし(上野は戦前からゲイタウンでもある)
因みによねと涼子はアセクシャルという設定もあるらしく、涼子が離婚したのもそのためだとか。
(ってかキャラ全員に裏設定ありそう。最後まで結婚しなかったキャラはもしかして…)
でもこういう構図って結局「同性愛者を都合よく利用している」ことでもあるんだよね。
自分を性的に求めてこないが助けてはくれる、イマジナリー「女の理想の男」感というか。
「NHKの朝ドラという注目度が高い放送枠で同性愛者を取り上げる意義」はあると思うが、描かれ方が「ゲイ=女にとって都合が良い男」ってのはどうなんだろうか。
その辺がもやもやした。