それは教養じゃなくて野生の勘だよ
そういう体験でもなく実例の目撃でもなくどこからか得た情報だけなんだろ?
記憶の情報と経験と予想、想像に妄想のどれが知識で記憶で教養なのか区別はついてるのかい?
告白とかなんでもいいんだけどその追い詰められた状況からの出口が「どっかから聞いた記憶を頼る」ってことが教養だったのかい?
せめて養うって字が入ってるんだからどこかで見かけた記憶の事を教養っていうのは違うって感じてもいいんじゃないかね?
教えられたり教わったりした知識ってただの情報の記憶を再現するなり試してみたりして育てたものを持ってたらその場を乗り切る情報として自分用にカスタマイズできてたかもしれないよね
そういう養いが入ってるほうが教養っていってもらいたいよ
せめて押し迫った状況を妄想して練習していた結果、みたいな話にしてくれてたらそれは教養の育て方を失敗したことはまさに呪いとして発動したねと言えないこともないかもしれない
もうすっかり疲れてしまった。
もう何年も働けておらず、障害年金や障害者手帳を取れると言われたがその手続きもとても難しく今自分が何してるのか、どうしてこうなってしまったのかを事細かに説明せねばならず、しかし細かく書けば書くほど有利?らしくなるべく思い出して書け と言われた。しかしその思い出して表層したトラウマというか嫌な思い出のケアはどうしたらいいんだろうか。もっと生活が 人生が楽になるために始めた手続きなのに毎晩昔のことに囚われ悪夢を見て、どんどん体調が悪くなっていて、本当にすっかり疲れてしまった。自分で自分の部屋が片付けられず、風呂にも毎日入れないようなエネルギーのなさでは自分で死ぬことすらも、できない。 本当にこの、汚れた部屋で途方に暮れている。
うちの妻はミートソーススパゲティ作って、食卓に置いて、そのまま風呂に行こうとしたよ。
茹でたてのパスタにミートソースかけて、かき混ぜもせず、ラップもしないで。
とりあえず俺がかき混ぜてラップした。
そもそもが婚活で知り合った相手で、結婚を前提にお付き合いすることになった時点では割と冷静だった。
「この人となら多少の苦労をしてでも一緒に暮らしていけそう」
くらいの気持ちでいた。
それが、婚姻届を提出する少し前くらいから、冷静じゃいられなくなってきた。
夫が好きすぎて怖い理由は、いくつかある。
まず、この「好き」は恋愛というよりもっと幼い、幼稚園児が親に甘えるような感覚だと思っている。
そもそも私は気を許した相手の前では子どものようになってしまう性質で、夫にもしょっちゅうスキンシップを求めている(手を握る、肩にもたれる、ハグなど)。
言葉遣いも、うまく説明できないが、子どものような語彙と発声になってしまう。
夫は私よりも5歳ほど年上なので、余計に安心して甘えてしまうというか、同世代相手に比べたら、年齢の割に幼すぎることがバレづらいのではないか?みたいな慢心もある。
自分としては、もっと対等な大人同士の関係になりたいのに、実際は夫のことを親(父と母を足して2で割ったような)のように感じることが少なくない。
夫はサラリーマン、私は扶養内パートだ。家計はほぼ夫持ちだが、そのことについて何か言われたことはない。
その上、私は家事も苦手だ(特に掃除)。夫は一人暮らし歴も長く、料理も掃除も何でもできるので、多分私がいなくても普通に生活できる。
これこそが夫が好きすぎて怖い理由の2つ目だ。
私は物心両面で夫に依存しまくっていて、その依存心を「好き」という感情にすり替えている気がする。
だからこの「好き」は純粋な愛情じゃなくて、夫に寄りかかっている自分をごまかすための錯覚ではないか?という疑念は、いつもある。
そして、夫が好きすぎることの何が怖いって、重いと思われることが怖い。
夫婦にせよ友人にせよ、お互いの気持ちの量や質が同程度≒「両思い」でなければ絶対しんどくなる、というのが私の持論だ。
昔、別の男性と付き合った時、私が勝手に盛り上がってしまい、温度差から別れたことがある。
私がもっと気持ちを抑えないと、また同じことになってしまうのではないか?ということが怖いのだ。
私は夫と結婚したことで、「『既婚者』になった」「気の合う話し相手・遊び相手ができた」「経済的に豊かになった」「実家を出られた」「苦手な家事をやってもらえる」等々たくさんのメリットを享受させてもらっている。
一方、夫が私と結婚したことで得られたメリットといえば、上に挙げたもののうち、せいぜい最初の2つくらいだろう。
夫にとって、それがどの程度の価値を持つのかは分からないが、少なくとも私は夫にほとんど何も渡せていないし、それがすごく申し訳ないし、そのうち愛想を尽かされるんじゃないかとおびえている。
私が夫を好きすぎる気持ちの内訳の何割かは、こういう罪悪感と見捨てられ不安で出来ていると思う。「別にそれでいいじゃん」と思ってもいいのかもしれないけど、そう思えないから怖い。
いい歳をした成人女性のいうことじゃないだろうが、早くもっと大人にならなきゃいけないと思う。
夫を怖くない程度に好きでいられるように。夫が私を好きでいてくれるように。
でも、もし、自分が持っている落合陽一へのなんとなくの嫌悪感が、誹謗中傷により作られたものだとしたら、
そりゃ落合さんも文句の一つも言いたくなるわな・・・と、感じていた。
このヤバさを昭和のせいにすんな
今回のは九州生まれなら逃げろという内容だったのでその言い訳はきかねえんだよなあ
九州生まれということは、九州に生まれて1歳なる前に関東や関西に引っ越して
完全に差別
話したいことはきちんとあるはずなのに、言葉にしようとすると支離滅裂になる。
お客さんにも、もう一回言ってとか、ひどい時にはまともに話できる奴に代われとか言われる。
頑張って話そうと意識しているのに、脳みその中身が空洞になっているみたいにうまく働かない。
毎日毎日頑張って話して、否定されて、落ち込んで、それの繰り返し。
長くて緩やかな坂をいつまでも転がり落ちているようなそんな感覚が永遠に続く。
辛いけど死んでしまうほどの痛みじゃない。けれどずっと、ずっと息苦しくて、いつか耐えられなくなる予感がしてる。
分からない。
こうして書いている文章も読んでいる人に伝わるのか分からない。
正常になりたい。
成れないのなら死にたい。
2024/09/01
初めて閃輝暗点を見た。これまでもたまに視野に幾何学図形のちらつきが現れることはあったのだが、明確に視野が欠落するのは初めてだった。短い線分で構成されたカラフルな三日月状のきらめきだった。最初は眼の異常かと思ったが、片目ずつ閉じても状況は変わらず、視野そのものの問題と分かる。視野が欠けていると言っても、基本的には周囲の情報から補完されて見える。しかし、補完の困難なもの、たとえばその箇所だけ周囲と異なっている場所や、文章などに閃輝暗点を重ねると、補完に失敗してバグった光景が見えて面白い。最初視野の中心にあった三日月は、時間が経つごとに視野の外縁へと拡大しながら後退してゆき、十五分ほどで消えてなくなった。閃輝暗点は頭痛の予兆であるという記事があったので身構えたが、少し頭が締め付けられる感覚があるくらいで、たいした痛みはなかった。
今日も疲れていて特に何もしなかった。娘の相手をしていると1日が終わる。娘は最近指差しを覚えて、行きたい場所や欲しいものを右手の人差し指で指示してくる。なるべく応えてやりたいが、安全上つねにそうできるわけではない。私は人の頼みを断るのが苦手なたちなのだが、どうやら娘に対してもそうであるようで、それで精神的な疲労が重なっている。
どうも私にとって、家庭や子供は動機にならないようだ。娘のことは大事に思っているが、どういう人間になってほしいとか、成長した姿を見たいとか、そういう気持ちは特にない。結局のところ自分とは異なる人間であって、その在りようを楽しみに思う心は私にはない。ではなぜ自分に娘がいるのかといえば、どっちでもよかったからだ。私は流されてここにいる。だから流れが止まってしまうことを恐れている。のだろうか?そんなこともないような気がした。