はてなキーワード: 凡才とは
最近ものすごく優秀な修士就活生が増えている→機械翻訳『DeepL』を巧みに使って論文を書いていた「すごい時代が来たな」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1758185
英語力という研究内容とは全く別の要素がボトルネックになって長年多くの修士が適切な評価をされておらず、さらには英語ができるだけの凡才が過大評価され続けてたっていう残念な話なのでは?
トップブコメ見て驚いた。評価対象として考慮されるような論文雑誌に、英語ができるだけの凡才が投稿して受理される訳ないだろ。
審査する側は英語関係ない専門的な部分できちんと評価してんだぞ。だから1st author論文持ってる修士って時点で十分凄い。過大評価もクソもない。
この人の他のブコメはチェックしてないが、いつもこんな見当違いな事言ってて見過ごされてるんだったらはてなブックマークってアレな場所では。他所のコミュニティなら突っ込まれてるだろ。
復習は1回だけといわれても俺らは凡才なので、なんどもやるで、
「天才になれなかった全ての人達へ」というキャッチコピーはとても秀逸だった。
天才であるエレンに対して凡才だった主人公光一が並び立つとまではいかないがエレンが街中で光一の名前を見かけるという感じの少年マンガだ。
では「凡才にすらなれなかった人達へ」というキャッチコピーでひたむきに努力するも誰の目にも止まらず夢破れるというか設定で誰か描いてくれないかな?
あれは天才でなければ正しく理解できない、もしくは著者と同じ思考をしている人間でなければ正しく理解できないのだと思う。
しかし、凡才であっても、あの文章を参考にして天才的思考に近づけるのではないかと考えるのが人情である。
私は、初めてあの文章を読んで以来、何度も読み返し、また著者の当時のブログを読み進めて天才の思考に近づこうと試みている。
しかし、あの文章を読んで変化があったことは、文章を書くときの制約を取っ払ったということだ。
プログラミングと同様、文章を論理的に正確に書こうとすることは、文章量を制約することになる。
書けなくなるのだ。
正しく書こうとすると、書けなくなる。
例えば、この文章を書いているが、これは公開することを念頭に置いて書いている、すると途端に文章が走らなくなる。
失敗を恐れるからだ。
しかし、この文章は公開しないと決めると途端に文章は走り出す。
実際のところ、この文章は走らなくなっている。公開することが念頭にあるからだ。
正しく書こうとしてはいけない。
文章を日頃から書いている人には当たり前のことなのかもしれない。
まずはとりあえず書く。書けないと感じるときほど書く。
しかし、思うのだが、文章を書くときに、しかし、を何度も繰り返し使ってはいけないという文章作法があるが、それはおかしいと思う。
しかし、などという接続詞はある程度、込み入った文章を書こうとすれば、何度も登場させたくなるものである。
しかし、しかしは何度も連投してはいけなくて、しかしを何度も使いたいのであれば、言い換えをして他の接続詞に置き換えて、うまくやらなければいけない。
しかし、それでは本来、文章の内容において頭脳を使うべきであるところを、文章自体を構成することに使用するという本末転倒な現象が起こる。
本来、文章作法などというものはある程度の、読みやすさを担保すればよいだけの話であって、論理が破綻していなければ、厳密にこれはいけない、やってはいけないと制限するべきではないのだ。
そのような制限があるから活動が制約されて、成果も収縮してしまうのだ。
なぜかといえば、制限しないとミスやエラーを起こして、失敗して大事故を起こすからだ。
しかし、同時に私達は大抵のことを制限しなくとも、正しく実行できる。
しかし、アクセルとブレーキを踏み間違えると大変なことが起こるから、私達は運転に集中しなければならない。
大切なのは集中するということだ。
正しくは制限することではないのだ。
アクセルとブレーキを踏み間違えないためには集中することなのだ。
話が脱線した。
ミスを起こさないために、失敗をしたくないために、過剰に制限する。
社会的迷惑行為でなく、自分の範囲で収まることであれば、どんどんとやるべきなのだ。
これは文章を書きたいと思っているのだけれど、書けない人に読んでもらいたい。
別に間違っていても、あとから読んで恥ずかしくなっても、しかし、を何回使っても、別になんだっていいんだ。
こういった考えを公表すれば批判があるかもしれないし、あるいはなんの反応もなくて苦悶するかもしれない。
でも、それでいいのだ。
我々社会は間違いを許容できない。
これは正しい面も多々ある。
しかし、間違いを許容しないことは、制限をすることだし、そのことで何も生み出されない無を生み出していることは留意する必要がある。
ブレインストーミングでは間違いを気にしない、などといいつつ、絶対的に制約があって、正しくブレインストーミングを集団で行うのは至難である。
そのような状況は脱却するべきだ。
間違っている、間違っている、間違っている。
そうだね、間違っているね、だから、どうした?
『風が強く吹いている』『ツルネ』付近を狙った作風で、両作の面白さには到底追いつけずに終了。
訴えたいメッセージは楽しんでるやつは強い、という検索したら出てきそうなもので、苦虫を噛み締めながら努力するライバルとの対比、自分の苦境に対しても明るい主人公をみて、それを応援する天才型バレエダンサーという比較も用意している。しかし主人公を囲んでいるそれらは天才型ばかりで、1話から主人公はどちらかといえばムラっ気のある努力型として描かれる。
しかし主人公にはどこか注目される華のような一種天才的な雰囲気があり。言い換えればこれは天才型メンタルを持つ凡才の話なのだということ。だから周辺の人物がいびつな努力型、メンタルの弱いナチュラル天才型という極端な構成になっている。これが競い合う話ではなく同じチームメイトだった場合、お互いの足りない部分を補強する話になっていたような気がしなくもない。
何れにせよ、「努力だけで天才に追いつけるなんて傲慢だろ」というセリフをすんなり受け入れさせる力を持った『風が強く吹いている』などにあるような強いメッセージ性は打ち出せず。よく読めば上のような構成ですね、という形で終わってしまった点が残念。わざと年代を古く設定した効果は余り出てない気がする。
そんな(о´∀`о) ただの凡才だよ(о´∀`о)
匿名でしか書けないことだが、私は小さい頃からR-18作品を見たり書いたりしてきた。
我が家には子どもが自由に使用していいパソコンがあり、私は時間があればネットサーフィンを楽しんでいた。母も父も特に使い方などを教えはしなかった。ネットリテラシーに欠けまくった私は検索して出てきた記事にあるリンクに片っ端から飛んでいた。そうすると怪しいエロサイトに辿り着いたりする。その衝撃的な内容に驚く間もなく、身体が疼いて興奮してしまった。性に目覚めたての小学生(この頃9歳〜10歳である)の執念は凄まじく、夏休みには一日15時間くらいひたすら二次系のエロ画像まとめサイトを延々巡っていたこともある。自慰をすることもなく(膣が勝手に収縮する感覚はあった)、ただ興奮しながら見るだけだ。もっとマシな夏休みの使い道があっただろうに…。
エロを見ることに対する罪悪感はまるでなかったが、いけないことだとは分かっていた。コンビニに置いてあるエロ本に近づいた時、「子どもは見ちゃダメよ」と側にいた母から言われたし、何よりサイトが「18歳以上ですか?」と警告してくる。それでもバレなきゃいいだろうと開き直っていた。
そして私は12歳の時に色々あって腐女子になった。ひたすらパソコンでカップリングを検索し、残されていた個人サイト(全盛期は過ぎ去っていた)をたくさん巡った。そこでも平気で所謂「裏」「背後注意」と表記されている作品を当然のように見ていた。何度「18歳以上ですか?」と聞かれてもyesと入力し続けた。
やがてpixivの存在を知った。ユーザー登録しなければ見られない作品が多かったので、悩んだ末にアカウントを作成することにした。
そこで私は年齢が20歳になるように誕生日を登録した。こうしなければR-18作品を見られないことを知っていたからだった。初めてそこで罪悪感と薄暗い後ろめたさが生まれた。
ROM専でいれば良かったものを、私には制作意欲が生まれてしまった。推しカプの作品を作りたくなったのである。絵で作りたいものを表現するのは難しかったので、先ず文章を書くことにした。pixivの作品投稿のページに直でチマチマと1000文字〜3000文字?の小説を書き込んだ。タイピングが遅すぎて半日くらいかかった覚えがある。とにかく無事に嗜好を詰め込んだ作品は完成し、その日中に投稿した。
12歳のクソガキが書いたその小説は思っていたより評価された。運が良かったとしか言いようがない。書いた推しカプは旬ジャンルで波に乗っており、私はそこに女体化と妊娠要素を乗っけていた。(人を選ぶ要素のある作品は一定のニーズにより評価されやすい気がする)ブクマは最終的に300程頂いたと思う。ありがたい話である。
勿論文章は下手くそ極まりなかった。めちゃくちゃ改行するしポエムのような心理描写が並べられているだけの小説だった。語彙もなく背景描写もなく、今でも内容を思い出す度恥ずかしくなる。今あのクオリティーで出せば3ブクマとつかないだろう。
あの頭の悪い文章たちをちゃんと読者は成人済の書いたものだと信じていたのだろうか?未だに誰かにはバレていたんじゃないかと思っている。
それでも作品を評価されたことが嬉しかったし、もっと書きたいと意欲的になった。時間が有り余っていた私はどんどん書いた。三日おきに投稿していた時もあった。ちゃんねる風にも手を出したり新しくはまったジャンルの小説も書き始めた。
好き勝手書いた作品に点数もブクマもコメントも頂けて、二次創作は順調に幸せだった。
しかし成人を騙れど中身は思春期真っ盛りの子どもである。イタイ時期が私にもあった。(これは現在進行形かもしれない)特にキャプションにそのテンションは如実に現れていた。腐女子特有のキャラ語りの気持ち悪い文章だとか、中学生イキリオタのノリだとか、ひたすらポエムを並べたりだとか…その辺だ。ここにも到底書けない。恥ずかしい限りである。
ちなみに当時の名前は“キルリマ”と読ませる当て字だった。好きな厨二臭い漢字を入れて下されば幸いである。
自分を何故か居酒屋の娘だと設定し、フォロワーとメッセージ上で交流したこともある。本当にチョイスの意味がわからない。高校の頃の苦手科目を聞かれて焦ったこともある。中学一年生には何も分からなかった。
結局最初に作ったアカウントは、「あ、やり直したいな」というある日の思いつきで消去した。使用歴は半年ほどである。
そしてすぐに作り直したアカウントは今日まで続いている。そこからは比較的真面目に書き始めた。依然性癖は変わらなかったが、文章はちょっとだけマシになった。
そして新アカウントでとうとうエロを書いてしまった。ギリギリ中学一年生だった。しかも内容は強姦である。馬鹿じゃないのと思う。その時にエロを書くのは難しいと知った。キャラに喘がせながら喋らせるのは難しいし(『ぁ』とか『、』などの適切な量が未だに分からない」の性器の比喩表現も一歩間違えたらギャグになる。あと単純に文章力が低いので艶やかな文体に出来ないのだ。出来上がったのはただの拙い成人向け小説であり、エロい文章ではなかった。
それでもこりずにいくつか書いた。挿入なしのプレイものばっかり書いた。意味がわからない。しかしネタに走ったわけではなく、大真面目に書いていた。
中学校三年間で書き上げて、今でも削除せずに支部に残してある小説は40程ある。評価数はブレブレでブクマだけで言っても1桁から4桁までまちまちだ。正直字書きとしてのレベルが分からないが、凡才だったことには変わりない。私の作品は「特殊属性(女体化、妊娠、過去捏造シリアス、嫌われ、ちゃんねる系)」がついていないと評価されない傾向にある。純粋な文章力はたかが知れていた。
最古の小説は6年前のものだ。それを怖いもの見たさで読み返しては勝手にダメージを食らっている。
高校に上がってから部活で忙しくなり、小説は書けなくなった。支部のアカウントはROM垢と化した。Twitterにも成人向けと騙ったROM専アカウントがあり、私は日々両方で二次創作を漁るだけになった。
途中うっかりnmmnにハマり、検索避けが備わった件のサイトでいくつか軽い小説を書いた。そこでも年齢を偽った。18歳以上じゃないとフォローできない方が多かっただけでなく、単純にエロを書いてしまったからでもある。内容は複数人ものだったと思う。未だにまともなセックスを書いたことがない。
そして今年の春に18歳を迎えた。4月1日になった瞬間に今まで我慢していた成人向け同人誌と目一杯買った。エロ同人もAVも買った。購入だけは18歳まで出来なかった。(だからどうしたということではあるが)
ここまで長々と自分の創作記録を書いてきたが、実は自分のしたことに今は全く罪悪感を持てていない。後ろめたさは確かにあるが、皆やってるんじゃないかと思い込んでいるのだ。
ちゃんと18歳まで一つのエロを見ることもなく過ごした人を心から尊敬する。とびっきりの自制心をもって制御できる方だと思う。いや、単に私の心が弱すぎるのか。それとも性欲が強いのか。
一つ思うことは、上に書いた支部のアカウントが特定されないか、ということである。別に晒されても燃えても仕方のないアカウントだが、上の情報だけで特定できたらすごいな〜と思う。