はてなキーワード: オタクエリートとは
「リア充の恋愛とか内心どうでもいいと思ってるけど好きな声優が出るから見る」
「ダークホースの青田買いをしたいので微塵も食指が動かないが5話まで耐える」
その癖アニメレビューとかは「オタクエリートである僕が語ってあげよう」みたいにしちゃうの痛々しいよ。
今はWEB最速配信も充実して録画パズルに悩まされることも減ってヌルゲー化したはずなんだけどな。
つうか「巨乳に興味ないからグレネーダーは見ません」ぐらいならまだしも、「ロリコンじゃないから女児主人公の作品は見ません」は世間の見方が狭すぎないか?
じゃあうさぎドロップやうどんの国もペドフェリアがシコシコしながら作ってると思ってるの?
異常者はお前じゃーん?
オタクエリートと言うのは、岡田斗司夫が「オタク・イズ・ビューティフル」と言い出した頃に、一部のオタクの間に流行った概念ですね。
オタクを極めた者はオタクのエリートであり、オタクこそが優秀な人間である、つまりオタクのエリートは人間の中でもとびきりのエリートである。
と言うのが、その論旨です。(それは彼の言うところのオタク第1世代である自分たちの世代のことである、となる)
当時の日本の世相はオタクを下等民族として扱っていたと言う背景があり、それを打破すべく「オタクこそが優秀な人間である」と言うパラダイムシフトを行おうとしたのですが、萌えにうつつを抜かす教養のないオタクが市場を席巻したため、教養ある優秀な人間であると言う意味のオタクは滅びた、と「オタク・イズ・デッド」宣言をして壇上を去ることになります。
最近だと元京アニのヤマカン氏がその思想を受け継いだオタク定義論をブログで展開していますが、こうして理解されないことからも分かる通り、懐かしのあの頃の残滓にとどまっている印象です。
(「オタクエリート」とはなんだ?)
(検索すると「オタク検定」とか出てくるが、それはSF関係なさそうだが?)
それとも、本気で心当たりがないのか?
果たして「見下せる相手がほしいから」「SF警察が悪い」という結論になるか?
「萌えを混ぜることで作品が台無しになる」そういう傾向(法則ではない)は確かにあるだろう。
有限であるリソース(時間、金銭コスト、労力)が萌えに割かれた結果、本筋がおざなりになるためだ。
SFファンは、そこを警戒している。ゆえに「萌え」はノーサンキュー。
萌えオタはしょうもない「事件」や「騒動」を起こしすぎるのだ。
萌えオタのターゲットは老若男女問わずあらゆるところに存在する。
しかも萌えオタは質より量の物量で押すスタイルの攻撃(嫌がらせとも言う)がやたらと目に付く。
(たった1つのレビューが槍玉に挙げられるSF警察とは対照的である)
SF警察が曲がりなりにも正論でレスバトルしようとしているのに対し、萌えオタは熱量を武器とする。
ブレーキの壊れたヤバイ萌えオタたちが世論を誘導すべく日夜せっせと働いている……。
しかも過激な萌えオタは場合によってはリアルアタックさえ辞さない。
それら努力が本人たちの望む形とは異なる形で実を結んでいるのだ。
つまり萌えオタの普段の振る舞いを考慮すればドン引きされて当たり前ということになる。
それが、なんで「SF警察による被害者」みたくなってるのか?わけがわからない。
(萌えオタの脳内では今流行のブロックチャレンジとかも全部相手のせいにされてそう)
(「コンプレックスを感じさせた」「だから敵であり悪なんだ」という屈折した理屈だ)
(勝手にコンプレックスを抱いて勝手に敵視するのは、なぜなのか?)
>>嫌われっぷりを見れば一目瞭然
「SF警察が嫌われているからSF警察は悪い」という不思議な理屈?(それはトートロジーじゃないのか?)
SFマニアが流行ってるオタクコンテンツに特攻して噛みつくたびに炎上するネット世界。僕ら世代には「またかよ!」って感じなんですが、世代交代による認識の変化で、SF警察がなにに怒ってるのか? とか、あれもこれもSFなのに、なんでSF衰退とか言っちゃってんのか?
とか理解不能に陥ってる方も続出している模様。
そんなわけで、過去を知る者として、ちょっとまとめてみました。
ただ、だいぶ背景をさっぴいてます。
受験戦争の加熱とから、今よりさらにひどい男性中心主義社会である昭和日本での負け組男子化への怯えとか。
○
今でもその名残はありますが、かつて、オタクというものはヒエラルキーによる特権意識を良しとする人の集まりでした。
全員ではないとは思うけど、なんかそう言う感じのが台頭してました。
『オタクの教養』をたっぷり学んだオタクエリートがクールで良しとされたのですが、これもまた、今でもその名残はあります。
クールジャパンとかが、その流れですね。
どこの誰とは言わねぇでおいてやりますが、京アニ事件の時に、どっかの大学教授が書いた懐古エッセイみたいな記事。
今時の人たちからは謎扱いされてましたが、あれが、あの世代の『オタクエリート』意識のあらわれです。
彼だけの特殊な思想ではないことは「記事の内容には賛同できる」とか言ってる人が、ちらほらいたことから分かりますね?
今でも名残はありますね?
○
ところで
『オタクエリート』
政治家ですらオタクに媚びる今では、下手したら生死に関わることだとまでは信じられないかもしれませんが、昔は、オタクであること自体が恥でした。
今でも自嘲ネタではあるし、からかわれることもあるとは思いますが、かつて、「オタク」と呼ばれることは、社会的死や、学校や家庭でイジメの対象になることを意味したのです。
ググれば怨嗟の声で溢れているとは思うので割愛しますが、オウム事件や宮崎事件は「オタク」を犯罪者予備軍として世間に認知させる結果を生みました。
当時のオタク的趣味を持つ人たちは、自分はオタクではないことを証明するのに躍起になっていました。
あるいはオタクではない人のフリをして、その行為を自嘲気味に「擬態」などと呼んでおりました。
今でも名残はありますが、生活や生死が関わってるので真剣度が段違いです。
そこで『教養』の出番です。
○
オタクにとっての『教養』とは、自分が頭のいい人間であること、社会にとって有益な優れた人間であること、犯罪者予備軍=オタク以外のなにかであること、それを証明するためのものでした。
と言う事にしかなりえず、オタクであることを認めるか、認めなくても勝手にレッテル貼りさせられました。
しかしながら、そうすると犯罪者予備軍の一員にさせられてしまいます。
自分がオタクであることを認めながら、『ただのオタク』以上の上位の存在である事を示す概念を必要としました。
それが、『オタクエリート』です。
○
世間ではいっしょくたにされる『オタク』カテゴリー内での優位的立場を築きたいオタクエリートにとって、自分を相対的に上位に位置付けてくれる下位の『オタク』たち、それは「フィギュア萌え族」とすら揶揄された二次元美少女オタクでした。
……今でも名残はありますね?
誰とは言わないが…と言うよりも、京アニ事件の記事でアニを持ち上げる時に使うのは
『萌え』ではないこと。
『萌え』でないこと。
○
そして、そんな知能の少なそうな動物的オタクたちを堂々と見下し、自分はあいつらとは違うと胸を張りたいオタクエリートのための教養のひとつが
だったのです。
なにしろ動機がそれですから、あちこち弱そうな敵を見つけては出張って「批評」したりweb日記に書いたり、得意げにウンチクを吹聴しまくり、相手や相手の趣味を貶して、論破論破とサディスティックな優越感に浸る日々を送ることになります。
やがてハードSFは衰退し、論拠としているものの権威が失墜してしまいますが、それでもやることは同じでした。
そうでしょう、そうでしょう。
いい迷惑なのが、ただのSF小説好きや、そんな歪んだ時代を知らない新しい読者です。
彼らは
あれもあれもSFだ。
と言います。
残念。
のですよ。創元やハヤカワから出ていて、各種映画化されている大家のディックはSFには入らないのです。
彼らの概念では、SFにはなんか厳格な作法があり、その作法を守るものだけがSFなのです。
どんな作法かって?
……知るか!
○
彼らSF警察が、ことあるごとにグチグチと高圧的かつ上から目線どウンチクを語っては、嫌われまくってるのは見ての通りです。
「SF衰退はSF警察のせいじゃない」、それは、あるいはその通りかもしれません。
しかしまあ、そのSF警察が、現在進行形で「彼らが信奉するSF」の衰退や、「正しい科学知識」への嫌悪を植えつける大きな要因になっているのは、その嫌われっぷりを見れば一目瞭然です。
……とは言え、です。
うーん。普段「オタクは多様性を尊重する」「老害になるな」「ニワカを叩くな」とかそういう事言うのにこういう時は地が出てるねー
少なくとも20年ほど前私が所属してるオタク系サークルでは「何々という作品はオタクなら当然知っているはず」などという事は成立しないし逆に言えば「何々を知らないなんてオタクじゃない」というのは成り立たないというのが共通理解だったけど、今はそうじゃないの?
いや「アレくらいは抑えておけよ!」とか、自分が熱を入れてる物をスルーされるとカチンと来るのは分かるけど。
でも「何々を知らないなんてオタクじゃない」ってのは「多様性を尊重しない」「ニワカ」を叩く「老害」そのものでしょ?
足りないなら足せばいい。
間違ってるなら直せばいい。
論ずるに足らないならスルーすればいい。
それにコミケを語るのに何々を知らなければならない!
みたいな主張は「コミックマーケットの理念」とは正反対まではいわないけど、かなりはずれた感じだよね?
増田は確かに偏りも穴もあるけど、まあこれくらいなら十分オタクでしょ?
天地無用!スルーとかどうなんだよ?と思わないでもないけど、オタクはこんなオタクの与太話も許さないくらい偏狭になっちゃったの?
最近、twitterのトレンドで、#オタク老化問題が上がったり、他のSNSでも話題に上がるのを目にする事が増えてきた。
恐らく、同世代のネット民の高齢化でシンクロニシティ的に結構な人が同じような事を無意識的に思っているのだ。
オタクは快楽受給者、漫画やアニメ、ゲームで快楽と共に文化を享受している。メインは快楽(ポルノ)。
それが加齢に伴う知能の発達や、性欲の減退(こっちが大きい)で、ポルノを過剰に受け取れなくなった結果、
流行オタクコンテンツに対する興味離れや同世代オタクコンテンツにだけ固執するおじさんになるのだ。
若い頃は有り余る熱意や活力から『アニメ漫画は文化作品、オタクは作品性を見てるエリート』てな妄言を吐いたりもするが、
歳とると皆こうなる。有名人でもほぼそう。オタクエリート論を掲げてた岡田斗司夫なんて只の出会いオフパコ厨だったでしょ。
駄菓子から僅かに残る栄養分を摂取するが、栄養(文化芸術性)の積み重ねが無いので、歳とってオタク趣味に興味が無くなると
後には他に何も残らないおじさんになる。結局オタクなど思春期にだけかかるはしかのような物で(宮崎駿もインタビューで言ってる)、
いかにそこから蜘蛛の糸につかまり抜け出すかの地獄の底。それまで(性欲減退)に何も積み重ねなかった人間には何も残らない。
どうでしょうか??
【悲報】ポケモンGOやはり初日から事故続出www pic.twitter.com/6Kn71LsSeG— BLACK (@blacknikonama) 2016年7月22日
https://twitter.com/tm2501/status/756562497444847616
マナーも守れない非オタが、オタクの世界に勝手に入ってきて勝手に迷惑をかける種類のことが一番イラつくので「マナーが守れないなら入ってくんなクソが」とは思う。
まあ、マナーの悪いし、カネも落とさない種類のオタクにも出て行けと思ってますけど〜
@_zco_ マナーがいいとか、拡散・普及に貢献しているとかそういうのがあれば、許してあげていいと思います。オタク趣味はカネがかからないことが良さでもあるし…。
学校で携帯禁止
↓
授業中にポケモンGOが配信される
↓
昼休みに隠れてみんなダウンロードする
↓
何人か先生に見つかる
↓
携帯没収される
↓
モンスターごと持っていかれる
↓
先生達がロケット団と呼ばれるようになる←イマココwwww— しいなくん (@shi_7kun) 2016年7月22日
ロケット団のリーダーが最も強いジムリーダーという「権力」のウラとオモテみたいなもんだから…学校の先生がロケット団でもあんまり違和感がないwww
つーか、学校の先生や塾講師の方が社会に出て接する大多数の大人よりも頭がいいような人もいるから、学校の先生が実は上位ボスは…定番設定かも
まぁ、私はしょぼい学校にぶち当たって、先生がラスボスどころか、「こんな奴らがもっと若くて才能あるやつよりも金もらってるとか、世の中狂ってる。」と闇堕ちの原因にしかならなかったですけど
「○○産の△△は□□地方特有の××で育成されただけあって芳醇な…」
それは確かに高度な楽しみ方なのかもしれないけれど、別にそんな事が言いたいわけじゃない。僕らは、ただ単に感じたいだけなんです。
「あー、おいしかった」
って。
過剰に作画スタッフの名前をあげることで、そのような反応をされることは避けたいのですが、現状の反応をみると、包装のキレイな食材を観て喜ぶだけで実は食べてもいない、とか、見た目優先で管理されたキレイな野菜を喜んで、ホンモノの美味しさをわかって無いんじゃね?とか思ってしまうわけで。というとすごい山岡っぽくていやーん。
アニメ界の山岡士郎が必要?むしろ岡星?ていうか富井副部長が誰か気になる!!
カレーやハンバーグを軽んじるのは、ちょっと雄山ぽいな。どっちも奥が深いよ。
本音はね、動画大好きっ子も、ウンチクなんてのはどうでもいいから、「アニメーターの凄い仕事」ってやつを感じてくれよって思ってるだけなんですよね。
芸術性なんてものはだれも言及してないのに、なんでアンチ側からはこの言葉がでてくるんだー!という疑問も少々。
オタ知識なんざ、長く生きてるやつのほうが多いにきまってるんだから、知ってると偉そうなんて思わんでいいのですよほんと。だれだよオタクエリートとか抜かしたのは!考えるな感じろ!
いやもうまったく。
ニコニコ動画みてると、ハルヒとからき☆すた効果で絵を動かすことの面白さにはみんな気付いているように思えるんだけれど、これまた京アニというのは強力な社内教育制度と、統制のとれたスタジオパワーで頭っからケツまでやりきっちゃうという、あるいみ異質な存在であることも話の持ってきかたをややこしくしてるよね。
<分類>
(a) アニメを長く見ていて、アニメの見方の作法を確立している人たち=オタクエリート
(b) 好きだ!という理由だけで作品を楽しむめる人=非オタクエリート/一般オタク層/ライトオタク
(c) みんなが誉めた作品が良い作品だと思っているだけで自分の意見で好き/嫌いを判断しない、もしくはその勇気がない人=ミーハー?
(d) アニメには興味がない。ネットでみんなが褒めているのにその良さがわらないため、否定する人=ネットが好きなだけの人
私は、(a)と(b)の間に、"ある種の層"が存在し、増殖しているのではないかと感じています。
つまり、オタクエリートに成り損ねた非オタクエリートという人たちです。
成り損ねた、などと乱暴に書くと「貴様はオタクエリートの方が非オタクエリートより偉いと思っているのか!」
と叱られてしまいそうですが、どちらが上か下かという気持ちはなくて、
非オタクエリート>オタクエリートという通常であれば歩むラインから外れたはいいもののどこにもたどり着けない隘路に落ち込んじゃった、という意味です。
ぶっちゃけ、私は、彼ら特有の言説はオタクエリートにとっても非オタクエリートにとっても有害
(あるいはアニメという表現媒体そのものにとってさえ有害)な存在だと思っており、
その危険性をしっかりと指摘しておきたいなぁ……というのがここ一連の作文に至った動機であります。
一昨日、昨日の前置きがないといささか乱暴になってしまうと思いこれまであえて「オタクエリート」という言葉に"ある種の層"を仮託してきましたが、
前置きが完了したのではっきりと書いてしまおうと思います。
「なんちゃってオタクエリート」が、オタクエリートだと勘違いされている状況が多いのではありませんか?
コメントやトラックバックで「君はオタクエリートという言葉を勘違いして使っているのではないか?」という指摘を頂戴し、
我が意を得たりと思いました。
■個人の好悪表明が評論と勘違いされる事の危険性
なんちゃってオタクエリートは基本的には(b)に属しています。つまり、「好きだ/嫌いだ」という気持ちが言論の主体にある人たちということです。
前回、前々回の指摘の繰り返しになりますが
http://anond.hatelabo.jp/20070326142734
http://anond.hatelabo.jp/20070327135230
彼らにはまず「まなびが嫌いだ」という気持ちがあって、それが発言の主体となっている。
「好きだ/嫌いだ」を表明することは大いに結構、キュートで好ましい、それが私のスタンスです(前回書いたとおりです)。
ただ、私は、彼らがその「好きだ/嫌いだ」をそのまま表明したがらないところに――
分析モドキや事実の捏造を含めて見解を正当化・権威化しようという試みがなされているところに歪みと危険性を感じます。
まず、非オタクエリートが、なんちゃってオタクエリートの見解を「権威」だと誤認し、それに流されてしまう危険性を挙げておきます。
「2chで絶賛されていたから面白いんだろう/糞と言われていたからつまらないんだろう」といった発言は、
"嘘を嘘と見抜ける人でないと2chでは有益な情報を得ることができない"というコモンセンスの敷衍によって淘汰されつつあります
(実は淘汰されていないんですけど、まあ、表面上は淘汰されたということにしときましょう。少なくとも、口にしたら恥をかくしね)。
しかし、前述のコモンセンスは"嘘を嘘と見抜ける人でないと『ネットでは』有益な情報を得ることができない"という形にまでは一般化していない。
顕著なのがwikipediaですね。「2chに書いてあったから」と口にするのを恥と感じる人が、「wikiに書いてあったから」と言うことを愚かな行為と思わない。
これはwikipediaがまとう"権威のかほり"が大きいのではないかと私は考えます。
「wikipediaってなんかアカデミックなかんじがするよね!」「なんかエリートなかんじがするよね!」ってことですな。
非エリートはそれを真実かどうか見極めるだけの経験や知識がないがゆえに、権威風のものに幻惑されやすいわけです。
さて。
なんちゃってオタクエリートの感想文は、分析に見えるものやそれっぽい言葉が多用されているので"権威のかほり"だけはまとっています。
そのせいか、実際は一個人の好悪の表明であるにもかかわらず、非オタクエリートにはそれが一般性をもった評論に見えてしまう。幻惑される。
http://anond.hatelabo.jp/20070326142734 この程度の明らかな事実誤認(捏造)さえもが
http://hibizaren.blog93.fc2.com/blog-entry-130.html こうしたニュースサイトなどを経て伝播し、
「ふーん、まなびストレートって結果としてアニオタの大部分に失笑を買ったまま終わる事になったんだ。糞なんだね」
というように非オタクエリートを洗脳してしまうのではないか、という危惧を抱く次第であります。
実際に見たら人生を変えるほどの傑作なのかもしれないのに、見て、自分で判断する機会自体を奪っているのではないかと。
ひいてはモノを自分で判断する思考実験の場を奪い、自分なりのアニメ鑑賞作法を確立する機会を奪っているのではないかと。
こうした「なんちゃってオタクエリートが非オタクエリートをなんちゃってオタクエリートへと導く構図」にもあるように思います。
作法さえ確立してしまえば、ぶっちゃけアニメの出来とは無関係にアニメは楽しめるものです(笑)。
自分ひとりで深く深く井戸を掘り下げてそこに水脈を見出すことができる。あるいは掘り下げる作業自体が楽しみとなる。
それができないとアニメに飽きちゃうわけです。
どんな美人だって三日すれば飽きるそうなので、10年も20年もアニメを見続けていればそりゃ刺激は落ちますわな。
アニメは愛している。
でも勃起できない。
愛しているからアニメと絶縁するわけにもいかない。
自然、「昔はよかった」「今のアニメは」という愚痴ばかりが出てくる。付随して「業界の体質が」「最近のアニオタは」という批判をおっぱじめる。
そんなオッサンをネットの辺境で見かけたことがありませんか?
私はそれをとても不幸なことだと思います。
さて。
これとは別に、「オタクエリートの真に価値ある評論がなんちゃって評論の叛乱によって埋没するのではないか」、という危惧も抱きます。
人間というものは、わかりやすかったり乱暴だったりダークな言説にぴょんと飛びつくものです。悪貨が良貨を駆逐するのではないかと。