名前を隠して楽しく日記。
「外見整える社会性」がなさそうで草
校長先生の話を覚えるほどの記憶力、あるいは地頭の持ち主がきわめて少なくめずらしいため
無言でいいじゃん。席を立つときに、ちらっと厨房をみて、目があえばそれでよし。会わなければそのまま出るよ。 丼を上にあげて、机をふけばそれでいいじゃん。
かつて、秋葉原は電気街として独自の文化を誇り、オタクたちの聖地として広く知られていた。しかし、時代の流れとともにその姿は大きく変わり果ててしまった。インターネットの普及により、欲しいものや情報が手軽に手に入るようになり、秋葉原で買い物をする理由も薄れてしまった。今では、狭苦しい雑居ビルに漂う酸っぱい臭いが、かつての活気ではなく、どこか閉塞感を感じさせる。
その狭い店内に並ぶのは、ティーンエイジャー向けの安っぽい食玩やトレーディングカード、価値の見出せないアクリルキーホルダー、そして精度の低いプライズフィギュアばかりだ。かつて個性を持っていた店舗は、今や凡庸なチェーン店に取って代わられ、街全体が均一化されてしまった。
メイド喫茶も、かつては独自の文化を象徴する存在だったが、今では弱者男性から金を搾り取るだけの、名ばかりのガールズバーへと変貌してしまった。観光客たちはガイドブックを手に期待を抱いて秋葉原にやって来るが、現実とのギャップに失望し、無気力な表情で街を歩いている。
かつての秋葉原は、ただの商業街ではなく、情熱と創造力が溢れる特別な場所だった。通りを歩けば、電気パーツを扱う小さな店が軒を連ね、手作りの電子工作やパソコンのカスタマイズに熱中する人々で賑わっていた。彼らは、秋葉原という街そのものを生きた実験室とし、自らの手で新しいものを生み出す場だと信じていた。
一方で、アニメやゲーム文化も花開き、秋葉原はオタクたちの聖地としての地位を確立していった。ここには、他では手に入らない希少なグッズや、熱意を持ったクリエイターが作り上げた同人誌が溢れていた。地下のショップや裏通りでは、宝探しのような感覚で新たな発見を求める人々が集い、確かに「何かを見つける」喜びが存在していた。
メイド喫茶もまた、単なる飲食店ではなく、訪れる客とメイドの間に築かれる特別な体験の場だった。メイドたちはただの接客スタッフではなく、その世界観を共有する仲間として迎え入れられていた。そこには、日常の疲れを癒し、非日常の空間で自分を解放する、独特の温かさと安心感があった。
秋葉原は、熱心なオタクや技術者が自らの趣味を追求し、仲間と交流し、未来を夢見る場所だった。それは、単なる物を売買する場を超えた、コミュニティであり、文化そのものだった。そうした情熱こそが秋葉原を特別な場所にしていた。しかし、時代の変化とともに、その魂は次第に失われ、今では過去の面影を探すことも難しくなってしまった。
もしかすると、秋葉原は初めから虚飾に満ちた偽りの場所だったのかもしれない。それでも、かつての秋葉原には、人々の情熱と夢が詰まっていた。しかし、今の秋葉原はその魂を失い、ただの観光地と化してしまったように感じる。
じゃあ参入すればええやん
弱者男性だが、男のくせにというマッチョ思想のおじさんとフェミニストの思想だと思う
現代社会はマッチョおじさん思想とジェンダー平等(と言いつつ女優遇)の流れの両方若い男が無理矢理受入れさせられる社会という印象しかない
こんなワンオブゼムの3分もすれば次の作業で忘れるどの店員もいちいち覚えてない記憶を勝ち誇れるの羨ましい
町中ですれ違うときも真っすぐ直進して道を譲らせて勝ち誇ってるのかな
「お前」がクソつまんなくて引くほど性格悪いだけだぞw
現行の法律ではIT技術の普及・発展のために製造物責任法(PL法)の中に無形物であるソフトウェアが入っていないこと、
長年それを常識としてきたIT従事者に一般的な倫理意識が備わっておらず、情報空間と人権(国内・国外問わず)に甚大な加害行為を行っている事、
被害が出ても責任の所在が曖昧な事で問題の根本解決が妨げられている、いわゆる『テクノロジー例外主義』によるものだと自覚させ正常化を求める。
(誰でも知識を得られプログラムを組め、既存の人間の価値を奪う方向に向かっている事から、IT技術自体は既に普及し終えたと見てよい。「発展」に関しても、ゴールを明確化させる事が大事。)
猫も杓子も人権人権とうるさいこの世の中で、大谷翔平だって三打席連続凡退に追い込めるくらいの剛速球ストレートの職業差別発言をする奴が人権を云々するとか、創作で出したら「現代の悪役としてあまりにリアリティがなさ過ぎる。もっと色々なことにアンテナを張って社会への解像度を高めて欲しい」って蹴られるレベル。反AI界の藤井聡太と呼んで差し上げよう。よ!反AI界の藤井聡太!