150以下はミワや橋本かんなみたいに若くて可愛いくてオタウケする黒髪ロリ顔ならキモオタ限定でモテる可能性あるが
そうでないならそいつらからも全くモテない。モテても25過ぎたら完全アウト
少なくとも小さいだけで対等に付き合えないのは確かな不遇な身長
宝蔵院に飛んで行って茶漬け食う下りは覚えてるんだけど…と調べてたら
ふとそう言えばあれ忍術じゃなかったか?と思い出し調べてみると織田作の猿飛佐助だった。宝蔵院の下りで武蔵と勘違いして覚えてたらしい
銭にならないからやらないと思うんだ
ところが、男でもそのへんをなぜかうまくやれるやつがいたりする。
女系家族なのか?とか男子家族に生まれ育った俺なんかそう想像するしかないんだけど、
くっそーと思う。
「ここでカフェろうぜ」
「安物のコーヒーしか飲んだことないから、たまにはこういう所で飲んでみよう」
「注文、どうしよう」
「『よく挽いてください』とかでいいんじゃね?」
「ステーキハウスでも『よく焼いてください』で通じたし大丈夫だろう」
「○○○○円!?」
「俺たちが飲んだことのあるコーヒーの5倍かよ」
「でも、量は同じくらい」
「ということは味などの満足感が5倍ってことか」
「じゃなきゃ、安いコーヒー5杯飲んだほうがいいもんな」
「まあ、コーヒー5杯も飲みたくはないけど」
「さて、どんな味かな」
「……うん、香りがいい」
「苦味とか、酸味もいい感じ」
「まあ……コーヒーだな」
「おい、他に感想ないのか」
「他になんと言えと?」
女尊男卑とか俺はほんとむかつくんだよ。
レディースでー?せいぜいやっすいサービスを有り難がって享受してろよとか思う。
あああ、って頭がどっちいけばいいのかぐちゃぐちゃになる。
創作させたら女すごい。
なんなのあの空気感。
いや、男もすごいよ。でも違うんだよ。
そういうの使わないですごいの。
だからねー、ドラマとかアニメとかで男が作った女見てるともうなんていうか、息が詰まるの。
女、すごいんだよ。
だから無条件に崇拝してるわけじゃない。
ミソジニーっていうんだっけ?
できるならそういうのでゼン否定したいんだよ。俺。
俺、全力の男だから。
でもね、俺ね、好きなものは好きなの。
そんでね、その上でね、女ってね、すごいの。
主語でかいんじゃなくてね、ガチで、女というもの全てが、すごいの。
無条件で崇拝してはいないけど、
クリスマスプレゼントだろ!
人工知能技術が進む一方で、仕事が無くなるなんて逆、むしろ仕事は増えるんだ、
といった論調を言ってる専門家気取りがいるけれど、こういう人の言う事を逐一読んでると、
人工知能によって、よりプログラマーが必要になるから労働需要は増えるんだ、中には、判断は人間がするので仕事は無くならない、という呑気な意見もある。
要するに、情報処理産業の労働需要が増えて、他の労働需要は減っていく、という事だ。
百歩譲って労働量が仮に増えたとしても、情報関係だって一時的需要増にすぎず、今までの人間の仕事が人工知能に置き換えられていく事には変わりなく、失業件数が増えるのは必須。年齢上がってからの職種変更なんてきついだろうから、ニートかホームレスも多くなるだろう。
人工知能もそうだし、外国人労働者もTPPによって増えるだろう。そうなったら、ごく一部の職種以外、職にあぶれる人間は増えてくる。じわじわと。
今だって年間自殺者ん万人。そのうち年間自殺者10万人も夢じゃない。まだ戦争してた方が死ぬ人間少ないんじゃないか、てくらいの数字になるかも。
まるでバブルはじける直前の頃のような気配。一部のメディアではバブルはじける記事や本が出されるが、まさかという雰囲気がしばらく流れ、銀行が潰れ、倒産した企業が続出した。あの時期と近いものを感じる。リーマンショックの時も、似たような感じだったんだろう。
人工知能賛成論者はこういう考え方を意図的に無視しているか、さもなくば本気に気付かないで専門家気取りしているなら小保方並みだと思う。
労働組合のみなさん、もうちょっと、これ考えた方がいいよ。選挙活動や政治活動なんか二の次でしょ?本来の仕事やりなよ。
じゃないと、そもそもの労働者人数が減って、自分らの給料も減額間違いなしだぞ。
どうせ、またこれも無視されるんだろうけど。
地の文が少なく、会話が紙面の多くを占める「ライトノベル的な文章」が嫌、という意味ではない。
拙文の「ライトノベル的な文章」のように、キーワードをことさらに囲って強調するために使う「」が性に合わない。
はてなーの中だと、fujipon氏のブログの中でよく目にする。たとえば今日の、
>http://fujipon.hatenablog.com/entry/2016/12/30/131356>
その「最初の一瞬」のために、観光というのはあるのかもしれないけれど。
それも含めての「いろんな人が集まる場所」なのかな、って。
この2つのカギ括弧、どちらも別に付けなくても文法的に成立しているし、意味が取れなくなることはない。私的にはノイズに見える。
大学のレポートなんかでは、出てくる単語をその文章の中だけのルールで用いるときにカギ括弧をつける場合がある(以下、このサンプルを「A」とする、みたいな)けれども、「最初の一瞬」も「いろんな場所が集まる場所」も、その必要は認められない。読みくだす中でいちいち喉に引っかかる。いやなら読むなという話なのだけれど。
氏だけではなく、結構ネットの文章、特に感性の豊かさでマウンティングしてくる人の文章にこのカギ括弧はよくあらわれる。「何でそんなことするんだろう?」っていつも思ってた。
カギ括弧をあえて用いることで特別さを演出しているの?私が使う「最初の一瞬」は一般的な最初の一瞬とは違う、特別な人だけが感じ取って言語化できる特別な「最初の一瞬」である、ということ?