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はてなキーワード: 日韓共催とは

2022-07-14

黒柳徹子日テレフジには出演しない

基本、護憲派左翼から、「体制右翼」の日テレフジには出演しない。NHKテレ朝TBS以外で見たことが無いだろう。

久米宏日テレで「TVスクランブル」をやっていた時は、「友情迷惑出演」をしたことがあるくらいだ。

しかし、その左翼黒柳徹子からは避けられているフジが、フジテレビ嫌韓デモ右翼の標的になったのはなぜか。

統一教会からカネが出て、韓国べったり姿勢に終始しているからだ。

日韓共催W杯では、FIFAが未だに疑惑試合に選ぶほど、韓国不正はすさまじかった。飯島愛が、「みんなちゃん批判しようよ」と言わなければならないほどには、その不正日本の全マスコミ沈黙していた。そして飯島愛は不可解な引退に追い込まれて、死亡した。

韓国が対日本やらかしている諸々のこと、一件一件でも、「常識的には2国間関係ではあり得ない」ことばかりだ。平和条約がないロシアとの関係ですら考えられないことばかりだ。

左翼は、韓国よりのため、批判が出ず、右翼統一教会べったりのため批判が出ない。

既に日本侵略されているのだ。

韓国関係は、ヘイトスピーチ云々のようにこちら側だけの問題対処できるものでもないし、その内容も深刻だ。

統一教会を叩き潰すことなく、日本保守右翼は、国防をまっとうできないと自覚するべきだろう。

2002年日韓共催ワールドカップ

直前まで日本単独で開催するはずだったと関係者が語っていたが、まさか日本政治に食い込んでいる

どこかの韓国発の教団の影響で日韓共催になったんじゃないだろうな?

2019-08-13

#嫌いです。韓国

  1. 日韓共催ワールドカップ審判買収で4位
  2. ソウル五輪誤審ラッシュメダル
  3. 元慰安婦矛盾だらけの嘘証言
  4. 20万人の慰安婦強制的連行されたという荒唐無稽な嘘
  5. 大使館前に慰安婦像設置してウィーン条約違反
  6. 日韓慰安婦合意破棄
  7. キ・ソンヨン猿真似言い逃れ旭日旗に対する難癖を付け以後粘着
  8. WBCにおける反日パフォーマンス
  9. 火器管制レーダー照射で準宣戦布告
  10. 宣戦布告後の矛盾しまくりの嘘まみれの言い逃れ
  11. 徴用判決で、日韓請求権協定破棄
  12. 破棄後の条約に定められた全スキーム無視した上で言い逃れ
  13. 戦略物資会議を三年に渡って無視
  14. にも関わらずリストAから除外されたら大暴れ
  15. 仏像盗難して返さず居直り
  16. 日本の文化財への破壊行為の連発
  17. 海外犯罪行為を働いて日本人詐称
  18. 日本への盗難強姦殺人売春犯罪遠征
  19. 竹島不法占拠
  20. 以上、とっくに最後の一線を越えたにも関わらず、日本は一線を超えたという失笑もんの批判

改めて振り返ってみても、俺個人だけでも嫌いになる理由ありすぎて笑える。こりゃ好意もつことなんて生きてる間は120%無理だわ。

2019-08-11

anond:20190811110255

俺はネトウヨ前史として、1998~1999年当時のネットで、高卒差別マミー石田カタナカ書きの「ドキュン」という語句最初に広めた人物)の登場を挙げたい

ネット老人の記憶としては、あれが2ちゃんねる前夜の「差別ブーム」の先駆け

思えばあれが「公然と人を差別するオレ過激で格好いい」「差別って楽しい

という志向ネットに広まった契機

(同時期すでに在日部落暴露サイトもあったが、あくまアングラ系で、大衆的な人気はなかった記憶

2ちゃんねるの開設は1999年だが、初期には学歴ネタが多いに盛り上がった

1990年代の初期のネット民は、まだパソコン持ってる理工系高学歴が多かった残滓

ところが2001年ごろには10万円前後の廉価パソコンが普及してネット民の学歴多様化

学歴差別ネタが成立しにくくなってきた状況下で

2002年日韓共催ワールドカップ北朝鮮拉致問題を機に

差別ブーム対象朝鮮韓国に移った印象

2019-04-11

16年前に書いた文章が発掘された

やっと80年代回帰が始まった。この分だと、90年代回帰が始まるのは、2010年頃になるだろうか。

ラジオから流れてくる80年代ポップスカバー曲を聴きながら私はそう思った。

2010年。私が25歳になる年。同じ世代の大半の人がおそらくそであるように、私は25歳の私を想像することができない。21世紀に入ってからというものの、時間感覚が酷く曖昧で、今18歳であることすら、実感が湧いてこないのである

1995年と聞くと、つい最近のことに思えてしま自分がいる。2001年地下鉄の延伸。2002年サッカーワールドカップ日韓共催2004年アテネオリンピック開催・・・小学生の頃教科書に載っていた未来の予定が、どんどん既成事実になっていく。あの頃の私には教科書の中の未来はどれも実現不可能なことのように思えたのに・・・

ノストラダムスの大予言について、あれほど熱心に議論を交わしていた人々は一体何処に消えたのだろう?

ノストラダムス予言の年、私は14歳だ。結構生きられる、と思っていた。そして1999年7月1日ニュースでは、アナウンサー笑顔で「さて、この世界もあと一ヶ月になりました」と言うはずだと思っていた。まるで年の瀬ニュースのように・・・

人々は世紀末という言葉を忘れた。21世紀という言葉も、昔ほど使われなくなった。70年代80年代のことはよく話題にのぼるのに、今が何年代と呼ばれるかについては、誰も口にしない。

物心がついてから10年余りが経った。総理大臣は何人代わっただろう。冷夏は何回あっただろう。巨人は何回優勝しただろう。

私たち世代昭和最後の一人になりうる。何歳まで生きたら、昭和最期を見届けられるのだろう。明治はもうすぐだ。大正もすぐ後を追う。多くの人が愛した昭和が完全に歴史の中に入るのはいつのことだろう。

歴史は巨視的に見れば円軌道を回っているだけにすぎないのかもしれない。人はその一切片を直線であると思って生きていくしかないのかもしれない。

anond:20100912211411

2018-01-24

北朝鮮もっとゴネてほしい気持ちもある

五輪に出るだの出ないだので延々と揉めてもらいたい

何を譲歩すれば丸く収まるのかわからず、どうにかまとまったと思ったらまた難癖つけてくる

それがどんな気分か、自分がやられる側に回って学ぶこともあるだろう

そしていきなり北朝鮮に横入りされて不満げな韓国市民気持ち理解できる

なぜならそれこそがずっと昔にW杯日韓共催ねじまれ日本人の心境だから

同族の面倒くささを思い知ってほしい

2016-10-06

学歴就職年収に関する独り語り

今年38歳。

関東だけど人口1桁万人の港町に産まれ、育った。

小中くらいはさしたる努力もせずにクラストップクラスの成績。

ミニ四駆ドラクエが好きなどこにでもいるような子供だった。

なんとか通学できるか、って距離まで伸ばしても圏内には進学先の高校は5,6校。

商業科や工業科、水産科なんかもあって、大学進学の可能性が残る普通科があるのは2校程度。

そのうち1校に入ったものの、ガクガクと成績は落ちていった。赤点をなんとか回避、ってことも何度か。

Jリーグが始まったのがこの頃か。

大学進学の可能性が残るという表現を使ったけど、田舎学校なんでレベルは低い。

平均の偏差値は50切ってたと思う。

同学年でMARCHに入れるのが5人以下、早慶は数年に一人いるかも、くらい。

実際には高卒就職する者、専門学校に進む者も多い。


低成績の俺は地方私大しかからず、親に頼み込んで浪人させてもらった。

条件は予備校の寮に入ること。ほぼ軟禁生活。泣いて嫌がったけど仕方なかった。

それでも、そんな環境であっても勉強は怠けてしまっていた。

当時田舎者にはあこがれだった渋谷タワレコに平日昼間から行って、 TK新譜試聴したな。

高校の頃からそうだけど、「勉強法勉強」は好きで、あの方法勉強すれば俺の成績は上がる、って謎な自信だけもっていて、でも勉強はしない。

明日やれることは今日やらない。よって数学的帰納法により、受験日まで勉強しない。

本当にダメ人間だった。

メタ勉強だけは好きってのは10年前にライフハックにハマったのと、今思えば同じ根っこだったんだろうな。


そんな訳で一浪しても入れたのは偏差値50アンダーの私立理系大。Fランク。最近はGランクであるんだっけ?

ここでさら実験科目の出席日数が足らず、留年

成績不良じゃないくて出席日数不足ってところがつくづくダメだな。


ただ、振り返ってみてこの頃ラッキーだったのが2つある。

1つはコンピュータサイエンス教官実力主義者で、当時の第二種情報処理技術者、今の基本情報処理技術者試験合格すれば単位をやるって人だった。

ちょうどインターネットが普及し始めて、テレホタイムになると同時にISDNで繋いでいた時期。

コンピュータ勉強面白くて、出席外で単位とれるならと合格できた。ここで基礎を固められたのはラッキーだった。

もう1つは留年したせいで一般教養科目を余計に取れる余裕ができたこと。

心理学の少人数上級版で、自分テーマを決めて教授と毎回議論できるってクラスだった。

就活に備えた自己分析を、心理学者とサシでできたのはラッキーだった。(ドラッカープロフェッショナルの条件を読めたのもこの頃だったな)


で、就職活動2002年卒、有効求人倍率 0.54 倍。世はまさに大氷河期時代日韓共催ワールドカップの頃。

周りや就活相談室の(ストレートな分、俺より有利な奴の)を聞くと、数十名の小規模企業に入るひと、地元に戻って地元会社に入るひとも多かった。

一浪一留偏差値40台という自分スペックと向き合った。

このままだとヤバいなと、底辺だなと(当時は今のような使われ方をしていなかった言葉だけど)思った。

どうするか。資格もあったせいで業界IT特に SI が有利だろうと思った。

計算機室でCOMPUTER WORLDを読み耽けり、大学図書館日経コンピュータバックナンバー2年分を通読して業界を知った。


そして採ったのは某国コンピュータメーカー1社のグループ会社に絞る集中戦略

親会社企業研究(成り立ち、歴史挫折チャレンジ)を深めれば子会社はいくらでも応用が効くし、心理学者と深めた自己分析と付きあわせて「あなた出会えた私」のストーリーでっちあげれば、志望動機入社後の目指す姿も十分語れた。

このストーリー説得力と、新人研修で取らせることの多い資格を既に持っていることがあれば、自分スペックをある程度カバーできるだろうと思った。


これはうまくハマって、そのグループ会社では全戦全勝、本体でも最終面接まではいった。落ちたけど。

自分が出た大学では「誰もが知っている名前のついた会社に(子会社はいえ)入れる奴」はレアで、まして一浪一留でってのは劇レアだった。


待遇親会社と同一で、初年度、24歳で年収300万円くらい。

でもトレーナーとソリが合わず(今に思えば子供じみた理由だ)、転職

就活の時にはコンサルなんて職種が世にあることを知らなかったけど、

たまたま募集してたITに強い外資コンサルに移って26歳年収400万。

国内限定学歴揶揄する人もたまに見るけど、ボストン採用の同期とか普通にいたな。

そこでのコンサルスキル海外経験のおかげで別のコンサルに移って28年収750万。貯金1000万超えたのもこの頃。

タイミングが超ラッキーで、この直後にリーマンショックがあった。こんな大幅年収アップの転職案件はすぐになくなった。

さら上級SEに戻って30歳800万円。

35歳くらいで外資ベンダー転職して年収1000万円超えて、38の今は1200万円。

年齢で見た年収は社内の平均からは下がるようだけど、まぁ十分満足してる。

株とETFで4000万円くらい持ってる。

金融資産の半分くらいは100年に一度の株の大バーゲンリーマンショック)の時に買った株のおかげ。

その時期にセールワゴンにしがみつくだけの定期定額収入があったのも、またラッキーだったな。


転職活動では、卒業したFラン大学一浪一留は何の問題にもならかった。

しろ英語力の低さを指摘されることが多かったな。



そんな感じ。



基本、世は学歴社会ではあると思う。

俺はあまりその是非の議論には興味はない。

学歴は時には一発でゲームを決める強力なカードであると思う。

でも自分対峙するフィールドでどういう力学が働くかを理解して、持ってるカードを限られたターンの中で増やし、切っていくだけだ。

現在自分収入タイミングの良い転職のおかげだと思う。

自分が好きなタイミングで職を選べるのは、2つ目の外資コンサルであらゆる「ビジネス知的基礎体力」を身につけさせてもらえたおかげだと思う。

自分学歴とは不釣り合いな場所にいられるのは、ここに、大学を出てからラッキーたちに、集約されると思う。

でも、それでも「大卒である」ことだけは一定程度以上の会社では最低条件、前提条件だった。

大手コンピューターメーカーの大ベテランの中には、時代的に高卒の人もいたし、高卒工場勤務から叩き上げで働いている人もいたけれど、もうそれはない。

今の勤め先も入社時にはbachelor以上の英文成績証明書必須だ。

俺はラッキーだけで現状があるとは思っていない。

ただ、ラッキーに加えて必要だったのは、俺の場合は「Fランだろうが大卒」というチケットそれ自体ではなく、浪人留年学費生活費を捻出してくれた両親だったと思う。

父は企業奨学金日東駒専クラスに通い、卒業後に職業選択の自由はなかった。意に添わない異動も俺たち子供のために受けいれてくれた。

母は家が貧しく、家族に反対されながら働きながら自費で通信制高校卒業資格を得た。

学ぶことで人生選択肢が増える。学ぶことは自由につながる。

そのことを身をもって知り、身をもって子に示し、ダメな俺が大学を出るまで支えてくれた両親こそ、俺が今の俺であるために必要だったと思う。

月並みだが、本当に感謝している。

繰り返すが、学歴は強力ではあっても、いくつかあるカードの一枚に過ぎないと思ってる。

俺は馬鹿ダメ人間だったから「Fラン一浪一留」なんて貧弱なカードしか得られなかった。

でもそれも、そんなカードも、両親が必死になって繋いで手渡してくれた大切なカードだった。

その大切な一枚を活かせるような生き方ができて本当によかったと思ってる。

そろそろ俺が浪人する許しを請うた時の親の年齢に、俺がなる。

あの頃の両親のようにありたいと、そうあるための今の収入資産だと思う。

読んでくれてありがとう

2012-06-26

日韓共催アニメ作品で名作ってなかったよね?

カレイドスターにしても三国志演義にしてもフリージングにしてもプリティーリズム無印にしても全部日本人が総指揮して評価されてるじゃん

韓国って名義貸し業でもやってんの?ww

2010-09-12

7年前に書いた文章が発掘された

やっと80年代回帰が始まった。この分だと、90年代回帰が始まるのは、2010年頃になるだろうか。

ラジオから流れてくる80年代ポップスカバー曲を聴きながら私はそう思った。

2010年。私が25歳になる年。同じ世代の大半の人がおそらくそうであるように、私は25歳の私を想像することができない。21世紀に入ってからというものの、時間感覚が酷く曖昧で、今18歳であることすら、実感が湧いてこないのである。

1995年と聞くと、つい最近のことに思えてしまう自分がいる。2001年地下鉄の延伸。2002年サッカーワールドカップ日韓共催2004年アテネオリンピック開催・・・。小学生の頃教科書に載っていた未来の予定が、どんどん既成事実になっていく。あの頃の私には教科書の中の未来はどれも実現不可能なことのように思えたのに・・・。

ノストラダムスの大予言について、あれほど熱心に議論を交わしていた人々は一体何処に消えたのだろう?

ノストラダムス予言の年、私は14歳だ。結構生きられる、と思っていた。そして1999年7月1日ニュースでは、アナウンサー笑顔で「さて、この世界もあと一ヶ月になりました」と言うはずだと思っていた。まるで年の瀬ニュースのように・・・。

人々は世紀末という言葉を忘れた。21世紀という言葉も、昔ほど使われなくなった。70年代80年代のことはよく話題にのぼるのに、今が何年代と呼ばれるかについては、誰も口にしない。

物心がついてから10年余りが経った。総理大臣は何人代わっただろう。冷夏は何回あっただろう。巨人は何回優勝しただろう。

私たちの世代は昭和最後の一人になりうる。何歳まで生きたら、昭和の最期を見届けられるのだろう。明治はもうすぐだ。大正もすぐ後を追う。多くの人が愛した昭和が完全に歴史の中に入るのはいつのことだろう。

歴史は巨視的に見れば円軌道を回っているだけにすぎないのかもしれない。人はその一切片を直線であると思って生きていくしかないのかもしれない。

2010-09-10

2006-06-28 『4年前の僕』

遠くはないけど近くもない。

そんな日々を少し振り返ってみた。

...................................

~序章~『ワールドカップで思うこと。』

現在ドイツワールドカップが開催されている。

わが国日本は惜しくも決勝トーナメント進出は出来なかった。

しかし前回大会、そう2002年の日韓共催ワールドカップ

僕は予備校生だった。

大阪上本町にある河合塾大阪南校にて受験に向けてがんばっていた。

ほとんど試合は見なかった。

日本トルコ戦。

これを街角テレビでほんの少し見た記憶がある。

それから4年たったんだなあ。

4年前の僕は何ももっていなかった。

ただがむしゃらに勉強していた。

辛さはなかった。

楽しかった。予備校による、効率的な学習システムが心地よかった。

体系的なサイクルになっており、偏差値40ぐらいだった僕も、

一年偏差値60台半ばまで到達した。

各種、終盤の模試ではかなり上位にランクインし通用するという実感に浸っていた。

ひたすら机に向かう毎日。

朝7時~8時には起床。

電車の中で英単語帳を開く。日本史プリントを眺める。

9時過ぎには、自習室にいる僕の姿は定番 だった。

一番乗りのことも何回もあったし、大体座る位置も決まっていた。

ここはクーラーが直接当たるから寒い

電気がちょっと暗い場所。

入り口付近はうるさくなる。

あのへんは高校生が増える。

奥に行くと、出にくくなる…

今日はあの自習室管理の人はあの人か…

ちょっとしたことだけど、5時間、8時間といると、こういうことは大事になってくる。

無駄ノウハウが増えた。

僕に昼休みは無かった。食事はしない。

この時期の僕の食事はというと、一日2食、朝と晩。大量の野菜スープ納豆などが中心。減量中でもあったからだ。

風呂上りにはいつも立ちくらみをしていた。がんばって意識を保とうと思っても気づけば天井を見ているときがいつもいつも繰り返された。

こんな僕でも、

たまに友人の付き合いで昼食にいった。

『おお!今日は●●(僕の名)くるんや!』ってな感じだった☆

それまではみんなが食べてるときに僕は単語帳を手に持っていた。

夜は10時まで。

そして電車内でも単語帳とテストの復習。

こんな毎日だった。

こうして、

4年前の春、僕はどこかほんの少し罪悪感と後ろめたさを抱え、自分能力不安を抱きながらスタートした。

自分能力に対する不安ばかりで自信など全く無かったが、結果が伴うことにより、次第にこの状況は改善されていった。

しかし、予備校生というモラトリアム的身分であり、社会的に胸を晴れるというわけではない現実

行き帰りの電車内、サラリーマンやОL、学生

僕はただひたすらプリントに目をやっていた。

『特殊な存在者』であるという現実を肌に感じながら。

            第二章へ

2010-06-30

個人的ワールドカップ総括

日本ワールドカップが残念ながら終わってしまった。予選リーグが始まる前はほとんど期待していなかった。しかし予選リーグが始まって試合を観戦しているとグイグイ引きつけられて目が離せなくなってしまった。

他の多くの日本人も同じだったのではないだろうか。視聴率は深夜にもかかわらず驚異的な数字をたたき出したと、何かの記事に書いてあったようにも思う。しかし、何故こんなにも日本人を虜にしたんだろうか?

例えば日韓共催だった2002年ワールドカップと比べてどうか?個人的にはあの時よりも何倍も楽しませてもらったように感じている。あのときもスター選手はいた。というより、いまよりずっと多かったように思う。

今回はワールドカップの予選リーグが始まって、カメルーンとの試合が始まるまで誰が出ているのかほとんど知らなかった。登録選手中村俊輔中澤くらいまでなら分かるが、それ以外はほとんど知らない。本田松井長谷部?誰だそれはというレベルだった。

しかし、そんな無名の選手たちのプレーに魅せられた。昨晩のパラグアイ戦で敗退したときにまず一番に「彼らの試合をもう見られないのは本当に残念だ」と思った。

どうしてそんな気持ちになったのか、今日一日ずっと考えていた。そして思ったのは、彼らのプレーに「明確なチームメイトへの意思」があったからだと気付いた。

月並み表現になってしまって、非常に伝えにくいんだけど、頑張って補足してみる。

明確な意思だけであれば、中田ヒデスルーパスだって該当するものだが、あれとは異質なものが今回は展開されていた。

中田ヒデスルーパスはある意味杓子定規なもので、フォワードは「中田ヒデに合わせて」動かなければいけなかった。

でも、今回のは、定石に従いながらも、チームメイト(相手)の状況にあわせてボールをまわしたり、自ら切り込んだりできていたように感じた。

要するに、メンバーそれぞれが対等な関係で、うまく補完関係がとれており、状況に応じて柔軟に役割を変えながらも、チームとしてのパフォーマンスを最大限に発揮していた。根底には、常にチームメイトへの配慮があった。

常に、というと言い過ぎだった。たとえば、パラグアイ戦で玉田がゴールエリア内で横パスをだして誰もいなかったシーン。あれは昔の日本のようでがっかりした。

チームメイトの姿が見えていないが故のミスコミュニケーションがうまくいっていない、一方通行パス。今大会、引きつけられたのは、こういう一方通行コミュニケーションが少なかったからだと気付いた。

両思いコミュニケーションが数多く行われたとは思えないけれど、数少ない機会で思いをつなげられた、そういう両思いコミュニケーション成功率は際立って高かったと思う。残る課題は、両思いコミュニケーションの量を増やすことではないだろうか。頑張れニッポン!!!

2009-08-31

http://anond.hatelabo.jp/20090831052505

2002年日韓共催サッカーワールドカップで「Fare Judge Please」 ってやってた運動をご存じの方はおられるだろうか?。私はそれをやっていたのでそのときのことを思い出した。

誤審が度重なる。特定の国だけが誤審恩恵に預かっている。

負けた国のマスコミ選手も 「ちょっとおかしい」 って言っている。

これは問題じゃないか?

なのに日本マスコミはこの問題を放置して、報道しない。

このままじゃホスト国としての資質ホスピタリティが問われる。

何てことを感じたモノです。

一人主観的な義憤に燃え、使命感を感じ、マスコミとかにもメールしたり。

まぁ、ネガキャンみたいなモノですね。

しかし自分たちが行動したからといって、すぐにみんなが自分たちに共感を示してくれるわけでもなく。

冷静に考えれば当然のことなのですが、すでに燃え上がっている自分から見ると、そーいう人を責めたくなってしまった。

国立パブリックビューイングが開かれたとき、「Fare Judge Please」 と書いた横断幕やらをもって観戦した。

それでも自分たちの運動を、マスコミはあまり取り上げてくれなかった。

ただ、「Fare Judge Please」 と書かれた横断幕をどこかのカメラマンが撮影していて、その写真Yahoo!写真(だったかな?)に掲載された。

記憶違いもあるかも知れない。でもそんな感じ。

今、私はあのときのことを思い出し、そして話題主の姿をかつての自分に重ね合わせている。

今、私はあのときの成果を「1枚だけ」 と否定的にではなく、「1枚も」 と肯定的に考えている。

話題主のこの少年さんの怒りや使命感、そしてそれに基づく行動で少年さんは何を得たのだろうか?

個人的に推察すると、「自分と真正面から向き合ってくれる親族がいる」 ことの確認・発見を得たのではないだろうか。

そのことを肯定的に認めて欲しいと思う。

お爺ちゃんだけでなく両親、兄弟にも謝って、家族を大切にして欲しいと思う。

2007-10-10

携帯デバイスはオトコゴコロをくすぐるのだ

iPhoneiPod touch魅せられている人は本当にたくさんいると思う。

まだ手に入れてはいないが、もちろんぼくもまたその一人だ。

iPhoneも、touchも、事実魅力的だと思う。だが、数年前のことを思い返して欲しい。

2002年ワールドカップ日韓共催の祭典に、数多くの外国人日本を訪れた。ぼくらがテレビを通して見たのは、日本携帯に驚愕し、持ち帰っても使えないのにこぞって携帯を買う海外のスター選手たちだ。

日本携帯電話はすばらしい」。彼らは口をそろえてこう言った。わざわざ着メロを聴くために、故郷に買って持ち帰るのだという。日本人テクノロジーとセンスが世界に通用するのだと誇りに思えた。

しかし現在の状況はどうだろうか。過去海外で評価された日本携帯も、海外にうってでることは無く、国内規格の中に安住を続けた。iPodを中心としたapple製品の台頭。現在iPhoneは使うことができないが、国内で使用可能になればiPod touchを上回るセンセーションを呼ぶのではないか。気がつけば日本の製品は、海外では珍しいものでは無くなるだけでなく、魅力の無い、凡庸なものとなりつつあるのだ。

総務省が同じように考えたのかは知らないが、彼らは販売奨励金が問題だとした。それが正しい答えなのかは分からない。

とにかく言えるのは、日本キャリアは「世界で通用するものを作っていたのに、それを広めなかった」ことは間違いない。そしてスターの座は当面国内に戻ることは無いだろう。

 
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