はてなキーワード: 日韓共催とは
基本、護憲派左翼だから、「体制側右翼」の日テレ、フジには出演しない。NHK、テレ朝、TBS以外で見たことが無いだろう。
久米宏が日テレで「TVスクランブル」をやっていた時は、「友情迷惑出演」をしたことがあるくらいだ。
しかし、その左翼・黒柳徹子からは避けられているフジが、フジテレビ嫌韓デモで右翼の標的になったのはなぜか。
統一教会からカネが出て、韓国べったり姿勢に終始しているからだ。
日韓共催W杯では、FIFAが未だに疑惑の試合に選ぶほど、韓国の不正はすさまじかった。飯島愛が、「みんなちゃんと批判しようよ」と言わなければならないほどには、その不正に日本の全マスコミは沈黙していた。そして飯島愛は不可解な引退に追い込まれて、死亡した。
韓国が対日本でやらかしている諸々のこと、一件一件でも、「常識的には2国間関係ではあり得ない」ことばかりだ。平和条約がないロシアとの関係ですら考えられないことばかりだ。
左翼は、韓国よりのため、批判が出ず、右翼も統一教会べったりのため批判が出ない。
改めて振り返ってみても、俺個人だけでも嫌いになる理由がありすぎて笑える。こりゃ好意をもつことなんて生きてる間は120%無理だわ。
俺はネトウヨ前史として、1998~1999年当時のネットで、高卒差別のマミー石田(カタナカ書きの「ドキュン」という語句を最初に広めた人物)の登場を挙げたい
ネット老人の記憶としては、あれが2ちゃんねる前夜の「差別ブーム」の先駆け
思えばあれが「公然と人を差別するオレ過激で格好いい」「差別って楽しい」
(同時期すでに在日&部落の暴露サイトもあったが、あくまでアングラ系で、大衆的な人気はなかった記憶)
2ちゃんねるの開設は1999年だが、初期には学歴ネタが多いに盛り上がった
1990年代の初期のネット民は、まだパソコン持ってる理工系高学歴が多かった残滓
やっと80年代回帰が始まった。この分だと、90年代回帰が始まるのは、2010年頃になるだろうか。
ラジオから流れてくる80年代ポップスのカバー曲を聴きながら私はそう思った。
2010年。私が25歳になる年。同じ世代の大半の人がおそらくそうであるように、私は25歳の私を想像することができない。21世紀に入ってからというものの、時間感覚が酷く曖昧で、今18歳であることすら、実感が湧いてこないのである。
1995年と聞くと、つい最近のことに思えてしまう自分がいる。2001年、地下鉄の延伸。2002年、サッカーワールドカップ日韓共催。2004年アテネオリンピック開催・・・。小学生の頃教科書に載っていた未来の予定が、どんどん既成事実になっていく。あの頃の私には教科書の中の未来はどれも実現不可能なことのように思えたのに・・・。
ノストラダムスの大予言について、あれほど熱心に議論を交わしていた人々は一体何処に消えたのだろう?
ノストラダムスの予言の年、私は14歳だ。結構生きられる、と思っていた。そして1999年の7月1日のニュースでは、アナウンサーが笑顔で「さて、この世界もあと一ヶ月になりました」と言うはずだと思っていた。まるで年の瀬のニュースのように・・・。
人々は世紀末という言葉を忘れた。21世紀という言葉も、昔ほど使われなくなった。70年代や80年代のことはよく話題にのぼるのに、今が何年代と呼ばれるかについては、誰も口にしない。
物心がついてから10年余りが経った。総理大臣は何人代わっただろう。冷夏は何回あっただろう。巨人は何回優勝しただろう。
私たちの世代は昭和最後の一人になりうる。何歳まで生きたら、昭和の最期を見届けられるのだろう。明治はもうすぐだ。大正もすぐ後を追う。多くの人が愛した昭和が完全に歴史の中に入るのはいつのことだろう。
歴史は巨視的に見れば円軌道を回っているだけにすぎないのかもしれない。人はその一切片を直線であると思って生きていくしかないのかもしれない。
やっと80年代回帰が始まった。この分だと、90年代回帰が始まるのは、2010年頃になるだろうか。
ラジオから流れてくる80年代ポップスのカバー曲を聴きながら私はそう思った。
2010年。私が25歳になる年。同じ世代の大半の人がおそらくそうであるように、私は25歳の私を想像することができない。21世紀に入ってからというものの、時間感覚が酷く曖昧で、今18歳であることすら、実感が湧いてこないのである。
1995年と聞くと、つい最近のことに思えてしまう自分がいる。2001年、地下鉄の延伸。2002年、サッカーワールドカップ日韓共催。2004年アテネオリンピック開催・・・。小学生の頃教科書に載っていた未来の予定が、どんどん既成事実になっていく。あの頃の私には教科書の中の未来はどれも実現不可能なことのように思えたのに・・・。
ノストラダムスの大予言について、あれほど熱心に議論を交わしていた人々は一体何処に消えたのだろう?
ノストラダムスの予言の年、私は14歳だ。結構生きられる、と思っていた。そして1999年の7月1日のニュースでは、アナウンサーが笑顔で「さて、この世界もあと一ヶ月になりました」と言うはずだと思っていた。まるで年の瀬のニュースのように・・・。
人々は世紀末という言葉を忘れた。21世紀という言葉も、昔ほど使われなくなった。70年代や80年代のことはよく話題にのぼるのに、今が何年代と呼ばれるかについては、誰も口にしない。
物心がついてから10年余りが経った。総理大臣は何人代わっただろう。冷夏は何回あっただろう。巨人は何回優勝しただろう。
私たちの世代は昭和最後の一人になりうる。何歳まで生きたら、昭和の最期を見届けられるのだろう。明治はもうすぐだ。大正もすぐ後を追う。多くの人が愛した昭和が完全に歴史の中に入るのはいつのことだろう。
歴史は巨視的に見れば円軌道を回っているだけにすぎないのかもしれない。人はその一切片を直線であると思って生きていくしかないのかもしれない。
遠くはないけど近くもない。
そんな日々を少し振り返ってみた。
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~序章~『ワールドカップで思うこと。』
僕は予備校生だった。
大阪上本町にある河合塾大阪南校にて受験に向けてがんばっていた。
ほとんど試合は見なかった。
それから4年たったんだなあ。
4年前の僕は何ももっていなかった。
ただがむしゃらに勉強していた。
辛さはなかった。
楽しかった。予備校による、効率的な学習システムが心地よかった。
体系的なサイクルになっており、偏差値40ぐらいだった僕も、
各種、終盤の模試ではかなり上位にランクインし通用するという実感に浸っていた。
ひたすら机に向かう毎日。
朝7時~8時には起床。
9時過ぎには、自習室にいる僕の姿は定番 だった。
一番乗りのことも何回もあったし、大体座る位置も決まっていた。
電気がちょっと暗い場所。
入り口付近はうるさくなる。
あのへんは高校生が増える。
奥に行くと、出にくくなる…
ちょっとしたことだけど、5時間、8時間といると、こういうことは大事になってくる。
僕に昼休みは無かった。食事はしない。
この時期の僕の食事はというと、一日2食、朝と晩。大量の野菜スープと納豆などが中心。減量中でもあったからだ。
お風呂上りにはいつも立ちくらみをしていた。がんばって意識を保とうと思っても気づけば天井を見ているときがいつもいつも繰り返された。
こんな僕でも、
たまに友人の付き合いで昼食にいった。
『おお!今日は●●(僕の名)くるんや!』ってな感じだった☆
それまではみんなが食べてるときに僕は単語帳を手に持っていた。
夜は10時まで。
こんな毎日だった。
こうして、
4年前の春、僕はどこかほんの少し罪悪感と後ろめたさを抱え、自分の能力に不安を抱きながらスタートした。
自分の能力に対する不安ばかりで自信など全く無かったが、結果が伴うことにより、次第にこの状況は改善されていった。
しかし、予備校生というモラトリアム的身分であり、社会的に胸を晴れるというわけではない現実。
僕はただひたすらプリントに目をやっていた。
第二章へ
日本のワールドカップが残念ながら終わってしまった。予選リーグが始まる前はほとんど期待していなかった。しかし予選リーグが始まって試合を観戦しているとグイグイ引きつけられて目が離せなくなってしまった。
他の多くの日本人も同じだったのではないだろうか。視聴率は深夜にもかかわらず驚異的な数字をたたき出したと、何かの記事に書いてあったようにも思う。しかし、何故こんなにも日本人を虜にしたんだろうか?
例えば日韓共催だった2002年のワールドカップと比べてどうか?個人的にはあの時よりも何倍も楽しませてもらったように感じている。あのときもスター選手はいた。というより、いまよりずっと多かったように思う。
今回はワールドカップの予選リーグが始まって、カメルーンとの試合が始まるまで誰が出ているのかほとんど知らなかった。登録選手も中村俊輔や中澤くらいまでなら分かるが、それ以外はほとんど知らない。本田?松井?長谷部?誰だそれはというレベルだった。
しかし、そんな無名の選手たちのプレーに魅せられた。昨晩のパラグアイ戦で敗退したときにまず一番に「彼らの試合をもう見られないのは本当に残念だ」と思った。
どうしてそんな気持ちになったのか、今日一日ずっと考えていた。そして思ったのは、彼らのプレーに「明確なチームメイトへの意思」があったからだと気付いた。
月並みな表現になってしまって、非常に伝えにくいんだけど、頑張って補足してみる。
明確な意思だけであれば、中田ヒデのスルーパスだって該当するものだが、あれとは異質なものが今回は展開されていた。
中田ヒデのスルーパスはある意味杓子定規なもので、フォワードは「中田ヒデに合わせて」動かなければいけなかった。
でも、今回のは、定石に従いながらも、チームメイト(相手)の状況にあわせてボールをまわしたり、自ら切り込んだりできていたように感じた。
要するに、メンバーそれぞれが対等な関係で、うまく補完関係がとれており、状況に応じて柔軟に役割を変えながらも、チームとしてのパフォーマンスを最大限に発揮していた。根底には、常にチームメイトへの配慮があった。
常に、というと言い過ぎだった。たとえば、パラグアイ戦で玉田がゴールエリア内で横パスをだして誰もいなかったシーン。あれは昔の日本のようでがっかりした。
チームメイトの姿が見えていないが故のミス。コミュニケーションがうまくいっていない、一方通行のパス。今大会、引きつけられたのは、こういう一方通行のコミュニケーションが少なかったからだと気付いた。
両思いのコミュニケーションが数多く行われたとは思えないけれど、数少ない機会で思いをつなげられた、そういう両思いコミュニケーションの成功率は際立って高かったと思う。残る課題は、両思いコミュニケーションの量を増やすことではないだろうか。頑張れニッポン!!!
2002年、日韓共催のサッカーワールドカップで「Fare Judge Please」 ってやってた運動をご存じの方はおられるだろうか?。私はそれをやっていたのでそのときのことを思い出した。
負けた国のマスコミも選手も 「ちょっとおかしい」 って言っている。
これは問題じゃないか?
このままじゃホスト国としての資質、ホスピタリティが問われる。
何てことを感じたモノです。
一人主観的な義憤に燃え、使命感を感じ、マスコミとかにもメールしたり。
まぁ、ネガキャンみたいなモノですね。
しかし自分たちが行動したからといって、すぐにみんなが自分たちに共感を示してくれるわけでもなく。
冷静に考えれば当然のことなのですが、すでに燃え上がっている自分から見ると、そーいう人を責めたくなってしまった。
国立でパブリックビューイングが開かれたとき、「Fare Judge Please」 と書いた横断幕やらをもって観戦した。
それでも自分たちの運動を、マスコミはあまり取り上げてくれなかった。
ただ、「Fare Judge Please」 と書かれた横断幕をどこかのカメラマンが撮影していて、その写真がYahoo!の写真(だったかな?)に掲載された。
記憶違いもあるかも知れない。でもそんな感じ。
今、私はあのときのことを思い出し、そして話題主の姿をかつての自分に重ね合わせている。
今、私はあのときの成果を「1枚だけ」 と否定的にではなく、「1枚も」 と肯定的に考えている。
話題主のこの少年さんの怒りや使命感、そしてそれに基づく行動で少年さんは何を得たのだろうか?
個人的に推察すると、「自分と真正面から向き合ってくれる親族がいる」 ことの確認・発見を得たのではないだろうか。
そのことを肯定的に認めて欲しいと思う。
iPhoneやiPod touchに魅せられている人は本当にたくさんいると思う。
まだ手に入れてはいないが、もちろんぼくもまたその一人だ。
iPhoneも、touchも、事実魅力的だと思う。だが、数年前のことを思い返して欲しい。
2002年、ワールドカップ。日韓共催の祭典に、数多くの外国人が日本を訪れた。ぼくらがテレビを通して見たのは、日本の携帯に驚愕し、持ち帰っても使えないのにこぞって携帯を買う海外のスター選手たちだ。
「日本の携帯電話はすばらしい」。彼らは口をそろえてこう言った。わざわざ着メロを聴くために、故郷に買って持ち帰るのだという。日本人のテクノロジーとセンスが世界に通用するのだと誇りに思えた。
しかし現在の状況はどうだろうか。過去に海外で評価された日本の携帯も、海外にうってでることは無く、国内規格の中に安住を続けた。iPodを中心としたapple製品の台頭。現在iPhoneは使うことができないが、国内で使用可能になればiPod touchを上回るセンセーションを呼ぶのではないか。気がつけば日本の製品は、海外では珍しいものでは無くなるだけでなく、魅力の無い、凡庸なものとなりつつあるのだ。
総務省が同じように考えたのかは知らないが、彼らは販売奨励金が問題だとした。それが正しい答えなのかは分からない。
とにかく言えるのは、日本のキャリアは「世界で通用するものを作っていたのに、それを広めなかった」ことは間違いない。そしてスターの座は当面国内に戻ることは無いだろう。