ニュース見てたらこんな記事があった。
28日午前4時35分頃、愛知県大府市共栄町の国道23号で、**県**市**、会社員**さん(**)のワゴン車が逆走して乗用車と衝突。
**さんが事故後、車外に出たところ、**県**市**町、会社員**さん(**)の乗用車にはねられ、死亡した。事故で止まった車に後続の車が次々と追突するなど、トラックや乗用車計7台が絡む事故となり、5人が軽傷を負った。
愛知県警東海署で、**さんが逆走した経緯などを調べる。現場は片側3車線の直線道路。事故のため、国道23号上り線は現場付近の約1キロの範囲で、約5時間半にわたり通行止めになった。
※「**」部分は住所や氏名や年齢。引用時に書き換え
この状況でハネた人のおおまかな住所と氏名、年齢を公表する必要はあるのかな?
悪意をもって轢き殺した可能性も考えられるけど記事には公表する正当性の説明がない。
芸能人は過半が貞操観念のない、気持ちの悪い下衆だ。見下す相手の結婚は祝えない。堕落して破滅してくれると、かえって良心が満足する。
横からすみません。
もしわたしだったら、
「○○さんは、人の多いところが苦手なんですか?」
と質問されると、
わたしに興味を持ってくれている(≒愛されている)と感じ、
好印象を抱きます。
それを踏まえて、
と言ったら
「GWをなくしたいのですか?人を減らしたいのですか?」
と驚いた顔をされた。
これがアスペというやつだろうか。
驚くってどういうことなんだろう。
「わたしは愛されていないんだな」
実際問題、その女の子のことには興味がないのでしょう?
表面上取りつくろったところで、事実は変わりませんし、
ゴールをセックス(単発)に据えるならば、
これは愛の話です。
適当に相槌を打たれるのが嫌という人の話がいるけれど、
人に叱られた話だとか小さな失敗だとか悪口だとかの話を
「ごめん、興味ないや。それよりエゾバフンウニの話をしよう」
とぶった切ったら、どういう風に思うか教えてもらいたい。
わたしの感覚が一般的かどうかは、わかりませんが……
わたしの場合、「好き※」と「性欲」が混ざり合ったかたちであらわれ、
付き合いを重ねていくと、これに「執着」がプラスされる感じです。
※「好き」についての詳細※
基本的には、「鉄道が好き」「昆虫が好き」「ピアノが好き」みたいなことと
同じだと思います。
「夢中になり、相手のことを考える時間が増える」
「相手を理解したくなる」「話してみたくなる」etc
相手がどんなことに興味をもっていて、
どんなとき嬉しいと感じ、どんなことで怒るのか等、
知りたくなります。
「わたしは愛されていないんだな」と感じます。
(長い付き合いで、相互理解が進んでいる場合を除く。)
一例としてご理解ください。
愛ってなんなの?
恋をしたり付き合ったりしたことはあるけど、そのときに自分が持った感情って、今考えてみると「性欲」と「執着」だった。「性欲」と「執着」を足すと「愛情」になるの?
それともふつうのひとはもっと違った何かを感じているのだろうか。
恋人と付き合っていく条件としては、相手が自分を攻撃しないこと、非難しないこと、嫌な態度をとらないこと、そばにいて落ち着けること、とかがあるけれど、それも愛情とは少し違う気がする。
「付き合っている人はいる?」って聞かれると「君は誰かに性欲と執着を感じているの?」って聞かれている気がして、いつもとても気まずい気持ちになる。
書いた人ですけども。
書き始めた動機は、ここ数カ月にわたって
・適当に相槌うっとけ。
・喋ってボロが出ないプランでいけ
っていう内容に身をつけただけです。はい。
適当に返事がえらい不評ですけど、適当な返事は男なら誰でも、というか女のほうが日常的にやってます。
親しくない関係なら、なおのこと。
「鳥がインフルエンザになることですか?人にうつることですか?あるいは死ぬことですか?」
みたいな会話をすべきですか?
例えば、突然ワニの話をし始めたりされても困るでしょ。
相手にとって興味ない話を延々続けてるからモテないんであって、それと反対に自分に興味ない話に延々頷き続ければ、まあなんとかなる。
そういうものでしょ。
とにかく数多くチャレンジしろってのは、女性には理解できないかもしれません。
出来るだけ多くの相手に、好印象をつけといたほうが得、という処世術。
えらくクソミソにブコメで言われちゃいましたが、営業の定石と、男も女もみんなやってる適当に相槌を打つ技術と、男なら誰でも知ってるデートのプランと、ポジティブになれる心構えを書いただけです。
番組見ずに批判かYO!というツッコミは全くおっしゃるとおりで、手足を椅子に縛り付けて見た。見た結果、理解できた。
あれはコミュ障こじらせたまま老いてしまった男が大切な人をまえに勇気を出す話。b:id:t-tanaka:20130428
あの話は、諦めずに口をきいてくれない夫に話しかけ続けた素晴らしい奥さんの話だ。返事がかえってこない相手になかなか出来ることじゃない。b:id:yukimi1977:20130428
そうだ。確かにそういう話だった。
自分が書いた「23年無視され続けた奥さんの気持ちや、両親の会話がない環境におかれる子供の苦しさ」なんか無いから、「イイ話」なんだ。
だけど、あの話に感動した人にどうしても伝えたい。
人が人を無視するのは、「あなたは反応する価値の無い存在です」と相手に伝える、一番確実な手段だ。
特に家庭内で、誰かを無視しつづけるなんてのは、現実には、絶対にあってはいけない。
たとえ無視する側とされる側に、言外のコミュニケーションがあったとしても、子供はその無視から「この人は価値の無い存在なんだ」ということを学ぶ。自分もまた、相手にとって価値がなくなれば無視されるのだと知る。
それは、とてもとても悲しいことなんだ。
おっさんだけどニコニコ超会議にいってきた。面白かったんだけど反面、なんかとっても置いてけぼりにされたさみしさにとらわれてる。どんなコミュニティもやっぱり人と人とのつながりなんだなと、ぼっちのおっさんは思ったわけで。
もともとニコニコ初期からのメンバー。往年のネタをウルトラマーン!とかを会場で聴いちゃうとうれしくなるそんなおっさん。プレミアム会員ですしなんとなくニコニコを支えてきたよって意味のない自負を持ってる老害です。
お仕事は個人作業が多くてチームワークあんまりな環境で、深夜の帰宅繰り返しながら社内引きこもりに育つ。さいわいにも妻と子にも恵まれるも帰宅も遅く、土日も仕事な時期が長かったためか家族の枠の中で引きこもる。地元のコミュニティにも属してなく、誰かと会話できるような趣味もやらずに今に至ってる。そんな社会的になんとなく、ぼっちのおっさん。
ニコニコに飛びついたのは、時間と場所を超えてつながれるとこに目を輝かせたから。おんなじMADをみて、その時に思ったツッコミやよろこびなんかを(ホントはずっと遠くのずっと昔なんたろうけど)共有できて、ああ、おもしろねぇ!なぁみんな( ゚д゚ )!ってたぶんドヤ顔で楽しんでたんだと思う。
そんな気持ちでリアルの場所にニコニコ動画をほぼ再現するというニコニコ超会議へ。そこで思ったのが冒頭の置いてけぼり感。ああ、俺ってぼっちだったんだなという思いをさらに強くしたり。
だってさ、どのコンテンツだって、なんだかんだいって誰かと作ってるものだよなって。ひとりで最初は作りはじめたのかもだけど、そこからなんだかんだでつながってこの場にきてる。すげえと思いつつ、ああ、俺ってなんにもやってないなという思いに。そしてそれをリアルで楽しんでる、ニコニコしてるふたり連れや三人、四人連れなどなど、誰かといっしょに楽しんでるのも目の当たりにしてもうね。
MAD流行りだした頃になんでもっとハマって作る側にいかなかったんだろ。ミクがでてきた頃になんでボカロ買わなかったんだろ。演奏してみた流行りだした頃になんでギターを実家から取り寄せなかったんだろ。踊ってみた流行りだした頃になんでおっさんでもナイトフィーバーって踊ってみなかったんだろ。こんなに大きくなったニコニコに後悔の念も抱いたり。
とはいえそこで飛びこむ勇気も、もっと拡大してくコミュ力もない自分には、コンテンツを楽しむぐらいしかないわけ。それもさびしくぼっちでね、と、さらに凹んで。
ああ、おっさんから、じいさんにジョブチェンジしても、必要になってくのは結局はコミュ力なのかもなって。ちゃんと育ててかないとダメだって。ネットがあればコミュ力なくても大丈夫なわけないじゃんね。それを時と場所を超えて加速させてくれるのがネットの力なんだろなって、なんだかまとまらない思いのままニコニコしてます。
そんなことどうでもいいのになって思ったんだけど、そうかー、やっぱりそういうの気になるんだな、、。
彼女には彼女なりの誠意があってNOと言われ続けてきたのは理解してたつもりだったんだけど、なんか急に現実としてのしかかってきたわ。
幸せになって欲しいか、、、悲しい。俺の人生の中にあの人はいないんだなー。
自分が幸せになるにはその人が必要だってずっと思ってきたから、切り替えられるかどうかわかんないけど、いつまでもこのままでいられるわけじゃないとも思うんで。
色々ありがとう。すごく参考になった。
「そういうひとたち」はなんとなくイメージできたけど、
そのひとたちを元記事「『話せばわかる』と言ってくる人は要注意」に落とし込んでみると、
なんだかよくわかんなくなる。。。
コミュニケーション楽観論者?を装った悪意のケース??
本当に後悔するのはそんな女掴まされた旦那なんだけどね。
「中年ってなんだろうと思ったときのこと」(http://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/20130428/1367154990)というブログ記事を読んだ。
私は今すでに31歳で、今年32歳になるけど、まったく自分が中年であるという意識は無い。また、今自分が31歳であるという事実自体、まだうまく馴染めていないように思う。
31歳というと、10代や20代前半だったころのイメージでは、もう「立派な大人」で、社会の中でそれなりの役割を果たしていて、その後の人生を生きぬいていく上での土台やそこからくる自信が、ある程度確立しているはずと思っていた。しかし、実際のところ、まだとても、そのころイメージしていた「立派な大人」にはなれていない。たしかに一応仕事にはついているし、自分の家庭もある。でもまだまだ仕事の上で自分にしかない専門性を身に着けているとは言い難いし、数年先自分がどうなっているのかさえまるでわからず、迷うことばかりだ。あと数か月で32歳(!)になるなんて信じられない。
このイメージと実態のギャップは、ブログ記事の筆者の方同様、私も学生生活が長くて、社会に出るのが遅かったという影響もあるかもしれない。
ただ、時間があっという間に過ぎていくこと、まだ何も成し遂げられていないことへの焦りはある。いつも頭の中の端っこのほうで、『このままだと何もできないまま40歳をむかえてしまう。体力のある30代のうちに必死に頑張って、今後の人生の生き抜ける実力を磨きたい』という思いと、『いつ死ぬかわからないのだから、今を精一杯楽しむべき』という思いが葛藤している。特に、昨年子供が産まれてからは、どれだけ子供との時間を過ごすかと、仕事や勉強への時間を費やすかの配分で悩むことが多くなった。
こんなグダグダな感じだけど、まあこんなグダグダ感が31歳というある意味中途半端な年齢にはふさわしいのかもしれない(世間一般の30代前半というのは、どんなもんなのだろう?もっとちゃんとしてるのだろうか)。
あれ、ニーターパン先輩のトラバがまた付いてない・・?
t時点のキャッシュフローがΔc_0(t) (給与収入)、Δc_1(t) (運用益)、-Δc_2(t) (返済)だとして、資産額をU(t)、負債をD(t)とすると、
Δc_1(t) = r*U(t-1)、Δc_2(t) = c (= const.)で、U(t+1) = U(t) + Δc_0(t) + Δc_1(t) - Δc_2(t)、D(t+1) = (1+s)*D(t) - cであるから、r,sをgivenだとしたときに、
cを色々に変えてみるとどういうUの時間発展が得られるか
与えられた条件を代入し式を整理すると
U(t+1) = U(t) + Δc_0(t) + r*U(t-1) - c
D(t+1) = (1+s)*D(t) - c
ここで2つの式の差を取ると、
U(t+1)-D(t+1) = U(t) + Δc_0(t) + r*U(t-1) - (1+s) * D(t)
資産額と負債額との差は正である、すなわち左辺>0であることから、
Δc_0(t) + U(t) + r*U(t-1) - (1+s)*D(t) > 0
である。
なんでcが関係あるんですかね?