ES出したり説明会行く時期だっていうのがネックだね。
これから自分で自分の中に行動動機を見出そうにも、なかなかそんな暇が取れないんじゃなかろうか。
インターンシップとかもう行ってると思うけど、そういうのやる中から何か見えてくるかもよ。
・奇形が出ている魚の種類は、ヒラメ、スズキ、ブリ。生態系の上にいる魚が多い。
・奇形魚のセシウム濃度は高い。スズキなら、1キロあたり700ベクレル近い。
・本当に親しい人には、「食べないように」と注意を促している。
・高濃度のセシウムが出ている魚は、穴子(アナゴ)、ハゼなど。
たぶん利根川のものだと思うが、ハゼの放射能汚染を計測したら、700ベクレルくらいだった。
・福島県沖の魚は、絶対ダメだと思う。「測ったから安全」というのは、まずあり得ない。
高齢者なら諦めもつくのだが、これが20代から30代まで広がりつつある。
前の部署だとそれほどなかったのに、こういった口癖は伝染するのか?
相手がそういう話をシャレとして判断できるかどうか判断しないで話すから馬鹿扱いされるんだろ。
自分が良いと思う物が常に全員が良いと思うとは限らない。
それを忘れる奴が多いからアニメアイコンのオタクは駄目なんだよ。
釣りか?
シャレが分からない国になったなと思う。
「小学生って最高だよな。ろーきゅーぶで」
ろーきゅーぶはあらゆる世代が楽しむことができるフィクションの傑作だ。小学生が読んでも全く問題ない。ところが文化を知らない「親」と呼ばれる奴らは勘違いして俺のツイートを目の敵にする。コーラを飲むと骨が溶けると本気で信じて子供を脅してる奴らが俺を憎む。俺という存在は憎むべきポップカルチャーやサブカルチャーの象徴なんだろう。俺は弾圧に負けてはいけないと考えている。だから俺は今日もつぶやく。俺は虚構世界への愛を叫ぶ。
女性が顔をしかめる。虚構と現実を混同してしまっているのだろう。かわいそうだ。俺は優しい。予めフィクションだと言っている。レイプ=悪だとしか認識することが出来ず、フィクションの中でレイプが豊かに表現されていることを知らない奴らがいる。そういう人にとってはたとえフィクションの話題であってもレイプが素晴らしいという発言は許せないのだろう。はっきりいうがレイプされる女も感じている。絶頂に達している。フィクションの世界では。
俺はいくつかわかったことがある。それはこの国は性が表現であることを憎んでいるし、性嫌悪症に陥っている。俺は小学生にはもっと性が生み出す豊かな表現を教えるべきだと考えているし、そのためには小学生に興味がある男をもっと活用するべきだ。排除からは何も生まれない。そして、子供と女性への過保護をやめるべきだ。女の性はフィクションでも守られるべきだと考えている奴らがいる。はっきりいうがアホだ。それがどれだけの悲劇を生んでいるかを知るべきだ。日本の豊かなフィクションによる性表現、あなたが差別・侮辱だと考えているそれは、実際の性暴力を防ぐために大きな役割を果たしているかもしれないのだ。そもそも全然差別でも侮辱でもないのだが(苦笑)。
俺は平和のためにもっと二次元ポルノの文化を拡散するべきだと考えている。ネットで、リアルで、ブログで、twitterで、どんどん広めていくべきだ。twitterでアニメアイコンを使って政治的なツイートをしている存在こそ本当に世の中をよくしようとしている者だ。それにしても全く被害者がいないゲームや漫画・アニメを憎んでいる方々の思考回路はどうなっているのか。全くわからん。現実の痴漢は被害者がいる犯罪だからまずいのであって、ゲームの世界の痴漢サイコーというのとは全く違う。いつになったら理解してもらえるのか(深いため息)。
自己啓発系のエントリでそこそこ人気のひとが、レシピ紹介しててブクマ数も多くてスゴイよ的な見出しだったので期待して見たら、ごめんね、おいしそうじゃなくてなんかガッカリした。これ以来、また啓発系で人気エントリとして上がってきてるけど、もう何か胡散臭く感じてしまう。別に変な事書いてないのにね、なぜかわからん。そんな気持ちにさせる雰囲気をあのひとつの記事から感じた。以前のエントリで、いいなと思ったものもあったのにね不思議。人の心は変わりやすいってか。
(これで届くのかな?)
なんで公益法人や独立行政法人を目指しているのか知りたいんだけど、就活って「こいつが使えるかどうか」を判断されるんじゃなくて、
「こいつがウチに来たら活躍させてやれるかな」って相手が考える場だと思うよ。
あなたはまだ、自分を活かしてくれる人や会社に会っていないだけ。
早い遅いはあれど、みんなそんな場所を探したくて生きてるんじゃないだろうか。
話は変わるけど、親にとって子供って、いてくれるだけで価値のある存在、幸せを感じられるものなんじゃないかな。
あなたが仰るように、両親は本当に人だっていうなら、なおさら。
あなたが死ぬことが、「世界で一番」の親にしてあげられることなんだろうか。
オレは違うと思うよ。
あれは最初に教会で主人公とヨヨをイチャイチャさせて、主人公とヨヨの名前をつけさせたのが一番の間違い
あーこいつが主人公でこいつがヒロインねって誰でも思う
きっと自分の名前と好きな女の子の名前をつけて辛い思いをした子供が山ほど出たはずだ
ヒロインの為に戦う主人公を支えて、成長していく主人公に惹かれて恋に落ちるキャラを爺にしたのも大きな間違い
ヨヨは帰ってからはNTR男とセックスしとるし、周りのキャラはNTRれた主人公を憐れみまくりながらもイチャついとるし
あげくに爺にすら「ワシ…姫の代わりじゃないよ?」って捨てられるし
で、きみのやりたいことは何なの?
「で、きみのやりたいことは何なの?」
わたしが就活生だと言うと、まるで世界中のひとが帳尻を合わせてるんじゃないかって程に、こう聞いてくる。バイト先のお客さんも、友達も、恋人も、面接官も、わたしをとりまく世界中のひとみんなだ。わたしはその質問に閉口して、絶望して、「んーよくわからないんですよね」と口に出すたびに泣きそうになる。ほとんど泣いている。それでも、泣いたら変なので、泣かない。
やりたいことなんてわからないし、だからと言って口先だけの嘘もつけない。インターネット越しに、なんとなく興味があるかな?という企業にエントリーをする。説明会を聞きに行って、なんとなくいい感じかも?と思う。OB訪問をする。数時間かけてこしらえたエントリーシートを出す。面接をする。もちろん会社は素敵なのだ。業績とか人とかサービスとかビジョンとか、そういうの。一緒に働けたら、わたしも頑張れるだろうなと思う。だけど、わたし個人にやりたいことがなければ、働く理由や目的を他人に依存していては、だめらしい。気持ちの入りかたが違うから、「御社」の当事者になりきれないみたいだ。それでも、嘘とも本当ともつかない回答を、わたしは面接官にプレゼントしなければいけない。
やりたいことなんて無いのが当たり前なんだから、と優しいなぐさめをしてくれる人がいる。それでも、経験と論理と情熱に裏立てられた「やりたいこと」が無いと、わたしは働くことができない。
小さなことでもいいから、やりたいことを100個リストにしてみた。30個くらいで一旦手が止まったけど、なんとかひねり出すことができた。よかった。人に見せた。「行きたいところいっぱいあるね、どうしてここに行きたいの?」と聞かれた。ヨーロッパのきれいな街並み見たいとか、きつね村に行きたいとか、そこには書いてあった。「あ、なんか友達が行きたいって言ってたから・・・」と答えると、「そうかあ、それはきみが本当に行きたいところなの?」と聞かれた。途端に、分からなくなった。行けたら嬉しいかもしれないけど、別にどうしても行きたいわけじゃない。だってわたしは飛行機に乗ったことがないし、旅行もほとんどしたことないから楽しさなんて知らないし。だから、お金をためる気も、プランを考えるやる気も出ないし。他の項目も、「それ本当にやりたいの?」って問いかけたら、どんどん消えていった。それでも、わたしは、「本当にきみ自身がやりたいことをリストアップ」しなければいけない。
決して世の中に無関心なわけではない。ソーシャル系のイベントもよく行くし、ひと月でいろんな人に出会うし出会おうとしているし、本だって週に1〜2冊は読むし、おしゃれだって好きだし、音楽も漫画もインターネットも消費するし。大学は二流の私立に通っていて、友達も多くはないけれど好きなひとたちに囲まれているし、刺激的ではないけれど、それなりにゆるい幸せがだらっと続いている。それでも、人生の目的なんてまるきり無い。
やりたいことがない、なんていう弱音の、すべての原因は自分にあることは分かっている。理屈では。飛行機乗ったことないなら乗ればいいじゃない、写真でも撮ってみればいいじゃない。とりあえず何でもいいから、できることからやってみればいいじゃない、と人は言う。プログラミングをやってみればいいのか、英語を学んでみればいいのか、文章を書いてみればいいのか、「とりあえず」で始めたことを、果たして続けることはできるのか。わたしは、何も続かなかった。それでも、「そんなこと言ってないで」、わたしは武器を身につけなければいけない。
今まで、与えられたことしかやってこなかった。つねに目の前にはやるべきことがあった。習うべきピアノがあり、取るべきテストの点数があり、歌うべき合唱コンクールがあり、演じるべき文化祭があり、いっしょに努力すべき仲間がいて、入るべき高校があり、入るべき大学があった。それを淡々とこなしていれば、それなりに日々は充実していて、それが生きがいだと思っていた。思い込んでいたの間違いかもしれないが、すくなくとも安心はしていた。こなすべきことたちが、目の前にいてくれることに。それを順々に片付けさえすれば、評価してくれる他者がいることに。21年間そうやって生きてきた。それでも、その考えかたを、根本的に、変えなければいけないタイミングらしい。
誰のためでもなく自分のために生きる。評価軸は他人では無く自分が持つ。そう考えるとしあわせになれるらしい、よく分からないけど、なんとなく、そういう時代らしい。でもわたしはそれにどうしてもとまどってしまう(みんながそうか)。「"自分のために"ってある意味ではとても利己的だよね」とかそういう理由ではない。ただ単純にそれは大変な作業なのだ。自分の頭のなかで考えることが何倍にも増える。正解不正解も分からなく、将来誰のことをしあわせにしてあげられるかも分からない。ひとの顔色をうかがいつづけて、他者の目標のために、生きてきたわたしにとってそれは、「強すぎる」生き方なのだ。
そんな強い生き方をしている人たちが言う。わたしがここ数ヶ月のあいだに出会い、素敵だ、と思ったひとたち。解放された、自由な人生は、ほんとうに楽しいものなのだと。彼らの目には、初めて見るようなエネルギーがあり、言葉には力が宿っていて、欺瞞が無く、周りのひとたちを、いるだけで一つ上の段階にひっぱりあげてくれるような、そんな力がある。あのひとたちみたいになりたいと、わたしは間違いなく思っている。間違いなく。
福島産米全くスーパーで見なくなったし、以前は仕入れていましたが今は一切取り扱ってませんって米屋も言ってたし。
どう考えても菓子や外食産業や総菜屋が、安い福島産にとびついてるんだろうな。
フードコートの店に「家は□産米」を使っていますってマジックで書きこんでおいておくもんがあったけど、マジックで国産米って書いてるの。
アホかと、言えないような産地の米なんだろう。
辞書を読み物として活用したまえ。