はてなキーワード: 会田誠とは
ならばこの場合の「表現を自粛せざるを得ない」は「津田大介が自重する」だけであって真の表現者たる会田誠さんとか氏賀Y太先生とかには一切響かないってことになるわけだが。
うむ。ということは、津田大介が開催した「表現の不自由展」はつまり「表現の不自由というテーマに関した作品を並べて沢山の人に見てもらい、それで補助金をせしめるためのイベントだった」ってことで、ここで言う所の「表現者」もしくは「表現」を行ってる人間とは関係ないじゃん。
結果的にというかそもそもが「表現の不自由」ってタイトル背負った芸術作品があればよかっただけの話で、本質的に表現的に不自由な作品かどうかよりも「津田大介が不自由だと思った」作品が並んでるにしか過ぎないじゃん。
「表現の不自由」を展覧することはできても「不自由な表現から表現者を解放する」なんてそもそも目的とされてないよな?
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
さすが津田氏の本業だけあって、文章だと何を考えてどのようなことをしてきたのかがきちんと伝わってくる。普通に危惧されるくらいのことは可能な限り対処してきたのか、とか。これを読んでしまうと津田氏のトークやイベントコーディネートのスキルは文章力に比べて相当劣るように感じてしまう。
この文章で何度も出てくる「検閲」という言葉だが、他人の言葉の引用部分を除くと津田氏本人はかなり慎重に使っている。これは今回の炎上のキーポイントでもある。
辞書的な意味で検閲とは、公権力が表現物を検査し発表を禁止することである。
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E9%96%B2-60273
しかしながら、図らずも今回あきらかになったように作品展示を中止する要因としては公権力ばかりではない。むしろ現代日本ではそれ以外の方が多いようだ。
(3) キュレーター
(4) アーティスト本人
(5) 一般市民
このうち公権力によるクレームや強制力によって排除されるのが狭義の「検閲」。
主催側の立場は「金は出すけど口は出さない」のが理想ではあり今回もわりとそうだった。ただし事業である限り本来の主旨に合わないものやデメリットがメリットを上回る場合は、主催側が展示会の方向性に意見する自由はあって当然。
キュレーターはむしろ何を展示して何を展示しないかの権限を任されているので、それを行使するのが本業。
アーティスト本人の意向。ときとしてキュレーターの意思よりもアーティストの意思は尊重される。ある意味当然だがこれが強すぎると美術展がキュレーターの思惑とズレることがあり得る。そして今回ズレた。
声の大きいのが実は一般市民。ネガティブ、ポジティブに関わらず主催に対して意見を言うことは原則として問題ではないが数が多すぎると窓口業務に支障が出る。
そしてそれが悪い方向にエスカレートすると反社による脅迫になる。
実際のところ多数の一般市民からの苦情や反社からの脅迫が原因で、このままでは来場者やスタッフの安全性が確保できない、という判断を主催側、キュレーターがすることで展示中止となっているものが多いようだ。
「表現の不自由展・その後」各作品の展示中止理由について調べてみた。
https://censorship.social/artists/
ちなみに「《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない」という言葉が津田氏のエントリーにも作品のキャプションにもあるが、これはかなり微妙な言い方で、「慰安婦像」という“名称”ではないものの、慰安婦を表現したものであり、日本政府に慰安婦問題の謝罪を求める目的で作られた一連の像のひとつであることは作者が明言している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%83%8F
https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8F%89%ED%99%94%EC%9D%98_%EC%86%8C%EB%85%80%EC%83%81
https://en.wikipedia.org/wiki/Statue_of_Peace
これらを見ると、多くの場合主催側やキュレーターが公共性や展示会の主旨を理由に展示中止しており狭義の検閲にはあたらないように見える。また、天皇関係のうち3作品は、富山県立近代美術館事件に関するもので、これは反社(右翼団体)による脅迫が契機となっている。
表現の不自由展実行委員会は、表現の自由 vs 公権力による検閲 という構図に見せたがっている。ただ公立美術館や芸術祭の主催自治体は、公権力というよりも主催側という立場であり、中止の判断も現在の体制では安全性が確保できない、公共性ポリシーに反するなどである。
そこを巧妙にすりかえて、「検閲」という強い言葉を使うことにより強大な国家権力に立ち向かうアーティストという演出をしている。
現代日本における検閲らしい検閲といえば、表現の不自由展実行委員会メンバーである永田浩三氏の受けたNHK番組改変問題があり、こういった経緯の作品があれば説得力は増したと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E7%95%AA%E7%B5%84%E6%94%B9%E5%A4%89%E5%95%8F%E9%A1%8C
ここからは完全に余談。
津田氏のエントリーには、候補として上がった作品として、会田誠《檄》や、鷹野隆大《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子《デコまん》シリーズが挙げられている。
鷹野隆大《おれとwith KJ#2》は男性器が写った写真を展示していたところ、通報されて警察から注意を受けたというもの。明確に違法な図画を作品としてクローズドな場所に展示するのはOKかNGかという議論は見たかった気がする。
https://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/pdf/2014/apmoabulletin2014p54-63.pdf
ろくでなし子作品が展示スペースの都合で候補から落ちたという件、カヌーみたいな大きなものではなく手のひらサイズ(実物大?)のものもあるので、スペースなんかどうにでもなるだろうと思ったものの、慰安婦や天皇がらみの作品のすぐ横にデコまんがあったらそれはそれで別の意味が発生しそうなのでやむなしか。
掲示されていた「年表」にそれらが含まれているか知りたかったがよくわからない。ネットに上がっている写真を見ると「イケメン官能絵巻」の文字が見えるので「年表」にはエログロも含まれているのかも。誰か知っていたら教えてください。
あいちトリエンナーレで津田大介さんが監督の「表現の不自由展・その後」について、納得できない点を頭の整理を兼ねて書いてみます。
憲法上の「検閲」とは次の通りであり、本展における河村市長、官房長官のいずれの言動もこれに該当しないことは明らかなので、憲法上の検閲ではあり得ません。
「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」(判例)
したがって、本案件で「違憲」と言い出した者(例えば大村知事等)は明らかに失当です。というか憲法上は事前の規制を重く見ているため、事後的に批判した河村市長や官房長官(この二者には取り止めさせる権限なし)よりも事前に強く要請した大村知事(実行委員長として権限あり)の方が判例の趣旨からして危なそうです。
『あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告』を読んでもわかるように、津田大介さんは「検閲」という言葉を「何らかの理由により効率の美術館で展示できなくなったもの」と自らに都合よく恣意的に用いています。
憲法上の検閲でないとしても、この意味で検閲という強い言葉を用いることはミスリードです。本件の場合、事後的にも発表が禁止された事実はありません(あいちトリエンナーレ以外の場所で公表を続けることも十分可能です。)。
「公権力が,表現行為ないし表現物を検査し,不適当と判断する場合には発表を禁止すること。公表以前に行う事前検閲,公表後に行う事後検閲とに分れる。」(ブリタニカ国際大百科事典・コトバンク)
ヘイトスピーチ規制法の正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」とあるように、「本邦外出身者」をターゲットにしているため、本件展示が法律上のヘイトに該当しないことは明らかです。
(法律の規定する範囲が狭すぎる、という議論はあると思います。例えばDV防止法は成立当初、男性は被害者とは規定されていない法律でした。)
「自国であった負の歴史を思い起こさせる作品を展示することが、その国や国民に対するヘイトにあたるとは考えていません。」「大浦さんは昭和天皇の肖像は日本人としての自画像であり、天皇批判ではないとしています。」とあるように、津田大介さんは、自国民同士のヘイトは想定していないようです。
ただし、国民を分断し、他のグループにに対して差別的言動を行うことは十分に考えられます。
津田大介さんは、過去、RADWIMPSのHINOMARUという楽曲を「国威発揚」であるとして激しく批判をしています。また、そういった批判を受け、RADWIMPSは謝罪に追い込まれています。
更にTwitterにおいて『今後もどんどん「国威発揚」の依り代として芸術が利用(寄生)されていくんだろう』ともコメントしています。
昭和天皇の写真を焼く行為に比べてはるかに穏当(少なくともヘイト的な要素はありません。)なものに対してこのような反応を見せており、極めて左派的な思想であると思われます。
津田大介さんは「不自由展実行委によって拒絶」、「そのまま展示することはコンプライアンス的にハードルが高」(い)、「展示スペースの都合」という理由で、会田誠さん・鷹野隆大さん・ろくでなし子さんの展示はしなかったと言っており、言外に自身の政治思想は反映されていないことを含ませています。
少女像や昭和天皇の写真の焼却などが選定されたのは自らの意思ではなかったかのようです。
しかし、その一方で『約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。』(7/8北海道新聞インタビュー記事)とあるように自ら選定していったことを明かしています。
津田大介さんの言動をまとめると以下の通りになります。少なくともダブルスタンダードと言われることはやむを得ないでしょう。
1.検閲の意味は憲法どころか辞書よりも広くとるが、ヘイトの意味は狭く(法律通りに?)とり、いずれも自らに都合よく解釈した。
2.過去に保守的な楽曲に対して激しく批判し、更にそれに公金が用いられることに慨嘆したが、自らの政治思想に沿った展示を公金を用いて行った。
3.自らは中立かのように装いつつ、自らの思想に反する展示はテーマに合致したとしても排除した。
津田大介さんは今回の謝罪文で『自国の現在または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会となっている』とコメントしています。
しかし、前述のHINOMARUに対する批判を行ったにも関わらず今回のポストが手に入れられたということは、少なくとも「日本が好きという者を批判しても言論界ではプラスにはなってもマイナスにはならない」ということを体現したと言えるでしょう。
旭日旗(平和の少女像にまとわせ、日韓表現の自由の架け橋にしよう!)
漫画ワンピース(展示内容には含まれないが、原作に旭日旗を思わせるイメージが数回登場するため、韓国戦争記念館での「ワンピース特別展」そのものが中止)
六四天安門事件 武力弾圧の映像(中国共産党による監視統制。天安門事件関連の学術雑誌ですら中国国内からはアクセス不可)
悪魔の詩(翻訳者が殺害された未解決事件。焚書騒動、イラン最高指導者ホメイニによる原著者の死刑宣告など)
ヒトラー人形(デ・アルチャろう人形館からヒトラーのろう人形を撤去。米国のユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」など海外から強い批判)
広島に原爆投下した米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」と原爆被害、歴史的背景(原爆被害や歴史的背景も含めたエノラ・ゲイの展示について、退役軍人団体の抗議により原爆被害、歴史的背景をスミソニアン博物館から撤去)
天皇コラージュ作品(昭和天皇の写真やきのこ雲、骸骨などのコラージュ。沖縄県立博物館・美術館で展示中止)大浦信行さんの作品は「表現の不自由展」に入っているらしい。
自衛隊車両(神戸市大丸須磨店のイベント「夏休みパラダイスin 須磨」の展示が市民団体の抗議により中止)
中止を阻止するために展示を充実させよう!
津田大介さんの全責任の下でこれらを展示するよう求めてバランスを取るほうがいい。
津田大介さんには文字通り命を懸けて、世界の表現の自由のために戦ってほしい。
あとなんか他にある?
反応から
シャルリーエブドは襲撃前から継続して風刺画を掲載しているので、一連の流れを展示すると見ごたえがありそうです。
「二度目の人生は異世界で」は中国からの抗議で、アニメ化中止、小説版出荷停止になった作品ですね。
ナチスっぽい衣装は乃木坂ではなく欅坂かな?欅坂から衣装提供を受けるのは難しそうですが、サイモン・ウィーゼンタール・センターからの批判に屈することなく表現の自由のために展示を続けてほしいですね。
という趣旨のブクマがホッテントリに入っている。 http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1344247 それに対して教師側を非難するブクマが結構あるが、そのうちの大半がわかっていない。 たとえば、好きだからと言ってドイツでハーケンクロイツの絵を描いて学校に提出したら厳しい指導を受けるだろう。 子供が気軽に絶対やってはいけないことだからだ。 同じように性的欲望を満たすために、若い女性の四肢を切断して自由を奪い、首輪をして裸で雪の中を連れまわす ようなことは21世紀の人間としては決して許されないタブーで、子供が気軽に絵に描いたりしてよいものではない。 もちろん、商業的な芸術家が、「人間というものは欲望を満たすために他者の存在を平気で否定したりするよね」、 ということを芸術的な文脈で表現することは自由だ。ただし醜悪なものを描いているわけだから褒められるはずはない。 性奴隷の絵は、自身の性欲の肯定はあるが、それを満たすために他者を否定・損傷している絵になっているため とても醜悪になっている。批判的な文脈なしでそれを好きだということは、「私は自分の性欲、支配欲のためなら 他人を丸裸にして手足をちょん切って動物扱いしても、されても平気です、そういうの良いと思う」と言っているのと同じだ。 子供がそういうことを言い出したら周りの大人は当然それはいけないことだと注意するだろう。表現の自由とかじゃない。 美術という以前に人間として軽々しく口にしたり描いてはいけない内容を学校で「好きなんです」と描いて出したりしたら それは厳しく指導を受ける。 「エロならどうだったろう?」「難病で顔が変形した人のポートレイトならどうだっただろう?」 というコメントがある。 たとえば、ブコメで上がっているクールベとかバルテュスなどは時代的な性的規範からは逸脱しているとしても基本に女性礼賛、人間礼賛がある。 難病で顔が変形した人の絵は、ハンディキャップがあっても生きている、生きていけるという肯定がある。 ゲイやレズビアンの性愛をテーマにした作品でも同様で、典型的な性的規範からは逸脱しているとしても基本的に愛と生がテーマであり、 21世紀においては一部のキリスト教カトリックなどを除いて徹底的に非難されることはない。 ボンデージには肉体の美しさへの礼賛があり、束縛は一時的なもので解放は約束されている。一方四肢切断には解放がない。