はてなキーワード: 思想の自由とは
表現の自由についての「二重の基準論」(アメリカの判例学説に由来)によれば、政治的な表現は民主主義的な価値が高いから憲法上強く保護されるのに対し、政治的でない表現は民主主義的な価値が低いから憲法上の保護が弱くても良いと考えられている。
そもそも表現の自由がなぜ憲法上の保護に値するかといえば、それは主権者たる国民が思想の自由市場を通じて国家運営についての意思を形成するためである。
およそ全ての表現がたとえば居住移転の自由や職業選択の自由よりも強く保護される筋合いではない。
エロ表現の自由はせいぜい、経済活動の自由である職業選択の自由あたりと同程度の保護にとどまる。
というのがまぁ、学部の1年生で習う話。
根拠なく賢いと思い込んでいる人間は自称インテリというのだが、そいつらは常に低学歴を見下すような言動をしているね。そう、君みたいに。
「間違ったことをいうことに問題がある」ということと「間違ったことを言う自由がない」ことは直接繋がらないでしょ普通。間違いを言わない人間なんかいないんだから。
間違ったことを言うことに問題があったとして、だから何だというのか?気に入らないなら無視していればいいだろう。
それに問題があったからといって常に指摘しなければならないということはない。荒らしは無視と母ちゃんから教わらなかったか?
問題意識、なんて意識の高いことを言う必要はない。問題意識を持とうが持つまいが思想の自由だ。優劣をつけようとするところがお前の自称インテリ仕草が垣間見えるところだろう。
https://querie.me/answer/ST8s9I6rozezVXc5z41p?timestamp=1702007027
既に回答欄で必要なことは書かれているが、「有害な本を出さない道徳的義務があるに決まってますよ。」等の表現にひっかかってしまう人はいるようだ。誰がその正しさを担保するのかというような噛み合わない指摘がブコメには散見される。そもそも、質問自体が少し混乱した内容になっているように思われるので、前段の「事実誤認や著しい誤りがある本は出版するべきではない」という主張について、少し内容を変えて「(ある書籍を)出版するべきではない」という表現に表現の自由が認められるだろうかという観点から考えてみたい。
まず、おそよどのような主張であれ、その内容に一切かかわらず、言う(表現する)ことが正しく、言わない(表現しない)ことが間違っているという価値観を持っている人は、恐らくいないだろうというところから始める。「どのような」という中身は、回答者のいう「デマ」や「他人に害を与える」内容のものかもしれないし、名誉棄損(他人に害を与えるに入るだろうが)やステマ広告かもしれないし、ある表現をするべきではないという内容の表現かもしれない。その範囲に関しての価値観はそれぞれに違いがあっても構わないし、むしろ違うはずだが、およそ常に表現がされることが正しく、されないことが正しくないという主張は、誰にも支持されないだろうとういことは前提にできると思う。
その中で、具体的にどの表現がされるべきでないものなのかということについては、社会の構成員間で価値観の違いがある以上、社会的に決定せざるを得ない。その決定は、各々の異なる意見を表現によって交換すること、すなわち、議論によって形成されていくべきだ。そうやって、名誉棄損や著作権法違反への表現の規制は認められてきたわけで、その議論を担保するからこそ表現の自由は民主主義社会において重要性があると言える。つまり、表現の規制についてもその限界は議論によって定められるべきだということも前提にしていいだろう。
ここで、「出版(表現)するべきではない」という主張に表現の自由が認められないとすれば、表現に関する規制について、常に片側の議論の主張を欠く状態になってしまう。無論、あらゆる表現において表現されることに価値があるとか、表現すべきではないことについては議論の余地なく決めることができるという前提があれば、そのような表現規制も許されるだろうが、これは今まで書いてきた前提とは反する。つまり、出版するべきではないという表現にも表現の自由は認められ、一定の尊重がされるべきであるに決まっている、ということになる。
その上で、質問者に戻るのだが、出版するべきかどうかという判断に「事実誤認や著しい誤りがある」かどうかという観点を入れた場合、いわゆる思想の自由主義市場の問題、すなわち、誤っているかどうかという判断自体が表現を戦わせることによってしか得られれないものではないかという問題が出てくるという側面がある。その点から、およそと事実誤認等を理由にした表現の事前の抑制は行うべきではないという主張はあり得るだろう。ただし、医薬品に関する虚偽の効能の広告規制のように、実際には事実に反することを理由に法規制される出版行為がある場合もあることからわかるとおり、少なくとも現行法解釈上は思想の自由主義市場的な価値はほかの価値との相対的な衡量の中で認められるものにすぎない(出版という一行為態様が禁じられるということが直ちに表現そのものを封じられるわけではないということも考慮すべきだろう。)。抽象的な議論を離れ、個別の事例の判断になれば、消費者保護等の観点からの規制をおよそ認めないという人は少ないのではないかと思われ、そうだとすれば、その限界の判断は批判を含めた議論の中で決められるべきという上述の議論に戻ることになる。
インターネット上では、いわゆる反キャンセルカルチャー的な文脈から、批判表現自体ですぐに表現の自由を持ち出し反批判を行う意見が散見されるが、批判表現は表現の自由で認められるべき重要な表現である。少なくとも、近時話題になっている角川の事例においては、表現の自由な交換による意思形成を超えた、事実上の表現規制的な圧力がかかったとは私には到底考え難い(まあ、そう考えたい向きがいることも仕方がないことだなとは思う。)。他方で、個人のツイッター(X)上の大したことのない発信に鬼の首でもとったかのような大量のリプライが付くような場合など、この時代において考えるべき問題も存在しないわけでもない。批判表現という表現の自由にとって重要な表現を一般論で封じ込めて「論理的にすっきり」しようとするのではなく、一つ一つの事例にきちんと頭を悩ませることが重要なのではないかとふわっとさせて終わりたい。
whataboutismは自身は反省せず、あいつも悪いとか、こっちの問題はどうなんだって話逸らすヤツだろ
あまりに他人事のように批判するもんだから、自分事としても考えとけよって話でしょ。
私は私が認知もしてないような赤の他人がどっかで自分の陰口叩いたとして、わざわざその謝罪なんて要らん。
知らんところで勝手にCapricornusさんすみませんでしたとか書かれてたら見つけてしまった時逆にゾワっとするわ。
勝手に反省してくれるならそれでしまいだ。一人一人の謝罪なんて聞く気は起こらない。
そう言うのも考えた上で、増田にとっちゃ『いや私は私に陰口叩いた全人類からの謝罪が絶対に欲しいんだ』ってなら思想の自由として止めはしないけどね。
※ここでは政治宗教その他センシティブなこと関係なく、「こういう考えである。なぜなら〜」とはっきり説明出来るくらい強いこだわりを持つものを指す。時事のいざこざとかそんな話がしたいんじゃない。
思想の自由という言葉はあるが、私は思想を公の場で語ることが何故か下品なことのように思えてしまう。どこの国とも戦争せずめちゃくちゃな差別を受けて生きてきた訳でもない若造だからほざける戯言だと自分でも思うが、思想を持っている自分のことがどうも気持ちが悪い。
そもそも、思想なんてものは育ってきた環境が違えば考えることも好き嫌いも違う訳で、他人の言葉1つですぐ180度方向転換するような生ぬるいものではない。1人の人間が数十年という長い年月をかけて凝縮し生まれた結晶である。それっぽい言い方をすれば、思想とは内面的な自己の存在証明なのだ。
それなのに、インターネットの海を覗くとあら大変。大量の人間が素っ裸にマイナンバーぶら下げて歩いてるじゃないか。ぶつかり合ってディベートする訳でもなく吐き出した思想をポイ捨てして。
それを見て引く程度の思想を持ってた自分にも引いた。さっき存在証明なんて言ったが、私は別にしょうもない人生しか歩んでない。飛んでるハエの方がマシな生命活動を行っている。それなのにハエ未満の私は、一丁前に思想でガチガチの頑固オヤジになってしまった。人生の薄っぺらさと思想の分厚さが不釣り合いすぎる。この思想と実際のアンバランスさが、自分への不愉快さに繋がっているのだと思う。
とはいえ、思想とは裸と同じくらいパーソナルなものだ。全ての理論が筋が通っていて誰も何の文句も付けられないくらい正しい思想などこの世に存在しない。そして思想にだって相性が存在する。どんなに自分の思想が世論的に正しいとしても、相性の悪い思想の人とディベートする気がない限り、思想を見せびらかすのは紳士的とは言い難いと私は思う。そんなに安く自分の内面を切り売りするべきでは無いし、自分の思想が誰かを不快にさせる可能性は頭のどこかに置いておいた方がいい。
とここまで自分の思想を思いつくまま文字に起こしたから、言ってることがぐちゃぐちゃかもしれない。それもまた思想の揺らぎだと思ってほしい。
女ってバカだと思ってる人はどうする?
sotonohitokun 自分の興味がない事を強制的にさせるのは単に人権侵害。差別をなくそうと言う話と人権侵害は別の話なので、差別主義者を洗脳したり、社会的制裁するのは差別以上に危険。思想の自由は何人も侵されるべきではない。
男のサッカーは見るけど、バカな生き物である女のサッカーは見ない、って言ってるミソジニストは。
批判が即、洗脳や強制や社会的制裁になるわけじゃない——… あらゆることが批判される世の中なのだから、ことさら差別的価値観を尊重する必要なんてないと思う。差別主義者は人々の批判を受けた上で、自分はどうするかを自分の自由意志で決められるはずだ。
内心の自由はあるが、表現の自由もある。内心の自由とは内心が批判されない権利のことじゃない……と思うのだけど。
yzkuma 世の中はそんな単純じゃないんだよ。あと夏休みの宿題は早めに終わらせるのが吉だ。
この方のコメントの方が単純だと思う。夏休みの宿題だとレッテルを貼ることで知性を謗ってるのだろうけど、その割にご自身が中身のある反論をできてないので、敗北宣言にしかなってない。
私を見ているようだ
二次元萌えの方が強いけど三次元スポーツ選手で腐萌えもしてる女オタク視点で言うね
実在する異性に対して可愛いとか言っちゃう行為、普通にキモいでしょ
私が何かネットでイラスト系の創作活動をしてたとして、知らん男から「可愛いですね🥰」「今日はお絵描きちゃんとできましたね🥰」とかコメントされたらキッショ!!!!!って思うわ
画面の向こうの人も普通に人間なので、最低限人間に対して失礼のない内容を書いてくれ…いやそもそも創作活動してるだけだから作品についてのコメントをくれ…ってなる
だからその配信者がそういう発言に至った気持ちがなんとなく分かってしまう
しかし一方で本当に申し訳ない、こっちもガチムチ系の巨漢のおっさんみたいな人々に対して「小動物みたいで可愛い🥰」とかいう感想を抱いてるので、「可愛い」と思う事については全然良いと思う…思想の自由だから…
あなたも自分に置き換えて、男女逆にして、あなたの行為を顧みてみるといい
それで万が一キッショ!!!!!!!と感じてしまった場合は、多分相手も同じようにキショがるはずなので、表ではやらずに鍵でもかけたアカウントで書き散らすといい
アメリカ大統領の自認の男がいたとしよう
そりゃもう自認だろうが同一性だろうが関係ないくらい完全にアメリカ大統領だと感じて信じている男だ
もちろん信仰の自由も思想の自由も内心の自由もあるのだし、自分で認じるのは自由だ
自分の範囲で認じるのは誰も否定しないし、もちろん存在を否定なんてしない
ただ、彼にアメリカ大統領の立場や権限を与えるべきかといえば、無論それは違う
社会の中での立場はそれなりの手続きや資格が必要で、それは自認の範囲を超えているからだ
自分に関する範囲内において、男性が女性文化(そんなものがあれば)を纏おうが、その逆だろうが自由である
しかし社会制度に関わる部分については、それなりの手続きや資格が必要となる
トイレや浴場、またスポーツにおける男女区分は、単に文化によるものではない
男女には体格、筋力といった埋められない身体差があるため分けられている
トランスジェンダリズムでは身体差を外性器にのみフォーカスしようとするが、この点は明らかにトンデモである
さて、こんな当たり前のことをなぜトランスジェンダーや支持者は理解できないのだろうか
その原因はトランスジェンダーの教祖、ジュディスバトラーにある
攪乱を目指すバトラー信奉者の言動が支離滅裂になるのは当然のことなのだ
象牙の塔の中で攪乱を起こしても、学者が騒いであわよくば有名になれるだけだ
小児性愛が許されないのは、酒やタバコやギャンブルが成人してからなのと同じ。対人セックスというのはそれ自体が悪なので、本来であれば一生手を出さない方がいいものなんだけど、あまり厳しくしすぎると不満が溜まるので、愚行権の一種として、ガス抜きとして大人の自己責任でギリギリ許容されているだけ。
一方、エロやポルノといったものは、個人のセクシュアリティやアイデンティティと密接に関わるものであり、決して他人から侮辱されてはいけない神聖不可侵なもの。政治や宗教と同じように、思想の自由、信仰の自由、表現の自由が守られなければならない。とは言え、政治や宗教と同じように、中立と平等を強く重んじる場では、TPOが求められることもある。