2023-12-11

ある書籍出版するべきではないという主張にも表現の自由はある

https://querie.me/answer/ST8s9I6rozezVXc5z41p?timestamp=1702007027

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既に回答欄で必要なことは書かれているが、「有害な本を出さな道徳的義務があるに決まってますよ。」等の表現にひっかかってしまう人はいるようだ。誰がその正しさを担保するのかというような噛み合わない指摘がブコメには散見される。そもそも質問自体が少し混乱した内容になっているように思われるので、前段の「事実誤認や著しい誤りがある本は出版するべきではない」という主張について、少し内容を変えて「(ある書籍を)出版するべきではない」という表現表現の自由が認められるだろうかという観点から考えてみたい。

まず、おそよどのような主張であれ、その内容に一切かかわらず、言う(表現する)ことが正しく、言わない(表現しない)ことが間違っているという価値観を持っている人は、恐らくいないだろうというところから始める。「どのような」という中身は、回答者のいう「デマ」や「他人に害を与える」内容のものかもしれないし、名誉棄損(他人に害を与えるに入るだろうが)やステマ広告かもしれないし、ある表現をするべきではないという内容の表現かもしれない。その範囲に関しての価値観はそれぞれに違いがあっても構わないし、むしろ違うはずだが、およそ常に表現がされることが正しく、されないことが正しくないという主張は、誰にも支持されないだろうとういことは前提にできると思う。

その中で、具体的にどの表現がされるべきでないものなのかということについては、社会構成員間で価値観の違いがある以上、社会的に決定せざるを得ない。その決定は、各々の異なる意見表現によって交換すること、すなわち、議論によって形成されていくべきだ。そうやって、名誉棄損や著作権法違反への表現規制は認められてきたわけで、その議論担保するからこそ表現の自由は民主主義社会において重要性があると言える。つまり表現規制についてもその限界議論によって定められるべきだということも前提にしていいだろう。

ここで、「出版表現)するべきではない」という主張に表現の自由が認められないとすれば、表現に関する規制について、常に片側の議論の主張を欠く状態になってしまう。無論、あらゆる表現において表現されることに価値があるとか、表現すべきではないことについては議論余地なく決めることができるという前提があれば、そのような表現規制も許されるだろうが、これは今まで書いてきた前提とは反する。つまり出版するべきではないという表現にも表現の自由は認められ、一定尊重がされるべきであるに決まっている、ということになる。

その上で、質問者に戻るのだが、出版するべきかどうかという判断に「事実誤認や著しい誤りがある」かどうかという観点を入れた場合、いわゆる思想の自由主義市場問題、すなわち、誤っているかどうかという判断自体表現を戦わせることによってしか得られれないものではないかという問題が出てくるという側面がある。その点から、およそと事実誤認等を理由にした表現の事前の抑制は行うべきではないという主張はあり得るだろう。ただし、医薬品に関する虚偽の効能広告規制のように、実際には事実に反することを理由法規制される出版行為がある場合もあることからかるとおり、少なくとも現行法解釈上は思想の自由主義市場的な価値はほかの価値との相対的な衡量の中で認められるものにすぎない(出版という一行為態様が禁じられるということが直ちに表現のものを封じられるわけではないということも考慮すべきだろう。)。抽象的な議論を離れ、個別の事例の判断になれば、消費者保護等の観点から規制をおよそ認めないという人は少ないのではないかと思われ、そうだとすれば、その限界判断批判を含めた議論の中で決められるべきという上述の議論に戻ることになる。

インターネット上では、いわゆる反キャンセルカルチャー的な文脈から批判表現自体ですぐに表現の自由を持ち出し反批判を行う意見散見されるが、批判表現表現の自由で認められるべき重要表現である。少なくとも、近時話題になっている角川の事例においては、表現の自由な交換による意思形成を超えた、事実上の表現規制的な圧力がかかったとは私には到底考え難い(まあ、そう考えたい向きがいることも仕方がないことだなとは思う。)。他方で、個人ツイッター(X)上の大したことのない発信に鬼の首でもとったかのような大量のリプライが付くような場合など、この時代において考えるべき問題存在しないわけでもない。批判表現という表現の自由にとって重要表現一般論で封じ込めて「論理的にすっきり」しようとするのではなく、一つ一つの事例にきちんと頭を悩ませることが重要なのではないかとふわっとさせて終わりたい。

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