はてなキーワード: サイコフレームとは
ファーストしか見てないといったら、じゃあ逆襲のシャアからユニコーンを見るといいと言われた。
早速昨日逆襲のシャアを見たが、シャアがキモ過ぎて無理だった。
以下感じたこと
・作者はロボットに特に思い入れはなくて、ロボットものという資本を利用して自分が描きたい騎士物語を書いている感。
・しかもロボットものだから雑でいいでしょという甘えを感じる。
・シャアはアクシズを落っことすぜという機密をなぜ事前に演説するのか。この世界には諜報活動はないという設定なのか。
・全体的に女に甘えた話。
・「女は感情的な生き物だ。でも男を癒し許すべき。」みたいな扱いワロタ。
・アクシズが地球に落っこちなかった理由が素で分からんかった。
・Wikiで調べたらサイコフレームによる超常現象らしい。知らんがな。
・というか、あんなに核をカジュアルに使える環境なら直接地球を核攻撃すればいいのに。
そして作者がキモイ。
【追記】
集計してみた。漏れがあったらすまん。
Gガンダム 5
∀ 4
F91 2
MSイグルー 2
V 2
ポケ戦 2
Z 2
X 1
ウィング 1
オルフェンズ 1
サンダーボルト 1
08小隊 1
Gレコ 1
いろいろあるなあ。
とりあえずママ友さんのおすすめのユニコーンとMSイグルーを見てから、
一番たくさんの人がおすすめしてくれたGガンダムをみてみようかと思う。
順番はこれでいいのだろうか。
ZとZZを見ないと逆シャアのシャアの気持ちはわからないというブコメがあるが、
Zがだるくてやめたというブコメが2つあった。
でもおすすめも2つあった。
やあ (´・ω・`)
ようこそ、ズィージオンの泡沫拠点みたいな腐った地獄の底へ。このヘリウム3はサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。
機動戦士ガンダムNTは見てくれたかな? 機動戦士ガンダムUCは? それはよかった。
うん、まるで中立的なタイトルをしておいて、実は福井信者側の一方的なエントリなんだ。済まない。仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
でも、このスレタイを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない「ああ、こいつ富野信者が中立的な立場でナラティブ見に行ったのかな?と思って開いたブログが普通に福井こきおろしててゲルググのトサカに来た可哀想なやつなんだな」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐としたガノタ界隈で、そういう気持ちを忘れないで欲しい(もっとサツバツとしてんじゃねーか)
そう思って、この増田を立てたんだ。
(といっても真面目に多くの人に読んでもらいたいわけではないというか、書いているうちに気持ちが落ち着いてしまったため、増田に投げ捨てているというほうが正しいかも)
A1:富野ガンダムのZから逆シャア(あと一応Vも)がバリバリのオカルトだったんやで。またナラティブの話の筋は「富野ガンダムの一時期のオカルトは一体なんやったんや?」と問う側面もある。
Q2:シャアの反乱からF91までの30年間大きな戦争はなかったのに、福井とサンライズは勝手に戦争だらけにしようとしよる
A2a:マフティー「20年前首都にテロを仕掛けたんですけど戦争にカウントされませんでした」
A2b:オールズモビル「我々はここ数年で二回戦争をやりましたがカウントされませんでした」
A2c:時期は違うけど参考までにデラーズ「観艦式潰してコロニー落としたんですけど後者は事故扱いされました」
A2d:というように「大きな戦争」の基準がガバガバすぎるため、正直割と大丈夫だと思う(おい)。もちろんマフティー動乱は戦争というには小さすぎるのでテロ扱いだろうが、言い換えるとそれぐらいの規模ならよいということになってしまうし、とにかくオールズモビル戦役の扱いが際どい。
Q3:サイコフレームやらNTが流行らなくなったのはF91までに大きな戦争がなかったんでNT概念が風化したからや、なんでそこ踏みにじって「サイコフレーム封印の切欠になる事件が〜」とか言い出すんねん
A3a:隕石一個動かすレベルの現象を、”愚”民どもが30年ずっと解析も模倣もせず放置して風化ってのはやっぱ厳しい気がするんですがそれは(小並感)
A3b:あとこれは反論というよりこじつけなのだが、「市井では廃れたが各軍、各企業の一部では密かにNT研究は続いていた」という(それ自体は福井以前からある)解釈を重視すると、意外とUCもナラティブも問題ない気はする(強引小並感)。結局ユニコーン無双は一部の局地戦で発生したに過ぎず、多くの一般市民が(正確に真相を)目撃した事例ではないから、市井のNT神話衰退を食い止めてはいないのではないか。もちろん一部報道や(宇宙世紀内の)オタク共がユニコーンの存在や活躍にある程度は触れているとは思われるし、その結果噂程度に真相が広まってもいようが、世間にどこまでインパクトがあったかというと微妙であろう。たぶん宇宙世紀内のミリオタ共も「サイコフレームがそんなイデオンみたいな力出す訳ないだろwww 架空戦記www」「っせーなじゃあこのアクシズどうやって動かしたんだよテメェ!!」って言い合って、周囲からキモがられてるに違いない
Q4:なんかダ・ヴィンチのインタビューで「F91以降ニュータイプはいない」とか意味不明なこと言ってるで福井
A4a:お前さっきQ3で自分で風化言うてたやんけ!!!(ごめんなさいこれはちょっと言いたかっただけです)
A4b:批判側の典型的なまとめサイト風意図的誤読。当該のインタビューは普通に読めば「世間的にNTの存在に関する話題がほとんど消え去った」であって「NT能力を持つ人間がいない」ではないのは明白。
A4c:ただこれはもう福井擁護ではなく余談になってしまうのだが、もともとNT論は「ジェリドはどうなんやジェリドは」「サイキッカーってなんやねん、NTとちゃうんか」みたいな謎もあって割とガバい。そのためマジでF91以降NTおらんやんって暴言も全く通らないわけではないような(通すのが良いわけではないにせよ)。「カミーユ級を(真の)NT言うんならシーブックは(レベル高低的にも健全的にも)NTとは言わへん」「ウッソはNTというよりスペシャルやないんか?」みたいな過激?意見もなくはないし(F91時代はみんな一種のNTなんや!っていう人見たときは流石に度肝抜かれてしまいましたが……∀時代の話じゃなくて……?)
Q5:新訳Zで肉体を持った健やかなNT像が示されたのに、福井はまだそんなところにいるの?
A5a:「まだそんなところにいるの?」ではなく「そんなところを無視すると、新訳ファが拉致されて強化人間にされるんよ」という悪意の問題。
実を言うとナラティブを批判するために新訳Zを持ち出すのは、福井を憎むあまり富野の最新動向を無視することになるので富野信者は気をつけた方がいい。というのも、新訳Zは「肉体と生活を傷つけられ、健やかさを奪われた人々はどうすればいいのか」という視点を欠いた、ゆとりNT論あるいは富裕層NT論となっているため。「シロッコみたいな傷つけるやつ片付けよう」だけで止まっており、「手遅れ」や「傷つけるのは特定悪人ではなく社会構造」といったケースに対応しているとは言い難い。富野本人はGレコですでにこの課題あるいはそれ以降に挑戦している(厳密には∀の時点で萌芽はあるし、もっといえば強化人間はもともとそうだったわけだが、では新訳でのフォウとロザミィの扱いはなんだったのか)。「人を家畜のように扱ってはいけない」とは言うが、ナラティブには手遅れで家畜にされてしまった人達の物語という側面もある。
余談だが、このあたりはAGE、オルフェンズ、AOZ黒兎の火星組にも通底する部分があり興味深い。三者が上手にやっているかというのは議論あるにせよ、である。また新訳Zにある意味隣接しているはずのクロボン系もまた、この生活貧困問題には新訳Zより常に切り込んでいる。
A3b:またこれはちょっと勘違いされているケースが多いかもしれないのだが、厳密に言うと福井側も肉体の放棄を手放しで賞賛している(できている)わけではなく、「遠い未来にある姿としてはそうなんやけど、いま無理してそれになろうとするのはアカンで」という風に言っている。ナラティブはまさにこの無理に関する話であったことと、先達としてバナージが結局肉体に戻って来たことに注意されたし(特に原作ではカミーユの真似して体貸そうとしたら幽霊にdisられてやめる、というくだりがあり分かりやすい)。
A6a:よく引き合いに出されるクロボン系列であるが、実はUCやナラティブと言っていること自体はそこまで乖離してなかったりする(『しかしもっと長い長い年月をかけて、いつか人は”NT”に進化するでしょう』)。どちらかというと現存するNTに対し周辺技術含めての評価(長谷川「現NTなんか山道12km歩くだけやん」福井「サイコフレーム使えば1000km歩けるで。めっちゃ危険やけど」)と、目の前の困難に立ち向かう際のスタンス差(福井「例え戦争連発を止めることができなくても、今ここで人間が止めようと努力して、未来に祈ることは無駄ではないんやで。そのことを証明するためにちょこっと1000km歩く危険デモンストレーションもしとこ」長谷川「今ここで戦争連発をせめて100年だけでもガチ止めるべきだし、そのために人間が努力のみならず結果を出すべきなんや。1000km歩く危険デモンストレーションは——どうか手をお貸しにならないで——決着は0〜12km歩く人間達だけでなんとかせなあかん」)が対立の主である。
だから実は、福井と長谷川は確かに対立軸にあるものの、それは同じ棒の両端だと考えた方が良い。無論そこで右がいい左がいいという対立は大きいにせよ。黒歴史という自己責任人災に対して祈るしかなかった人々を見捨てないのが福井、手近な資材で立ち向かうよう人々を陣頭指揮するのが長谷川、という乱暴な要約でいいかもしれない。(黒富野は人災はお前らのせいだ!と丁寧に説明し、白富野は人災だけではない人の魅力を描き、Gレコ富野は「そういや白だと魅力描くのに専念し過ぎた、人災の具体的な説明や対処はまだやる余地あるな」という境地)
A6b:すみません反論になってませんねこれ……。具体的に人々救済のために奔走する長谷川クロボンの方が面白い好きだという意見は多いにあると思う。
A6C:これも反論でなく補足だが、幽霊ネタは長谷川ガンダムでも時々やっており、「富野ガンダムを真面目にリスペクトすると割とオカルトに向き合ってしまう」というのは割と福井長谷川とも共通してそう。(向き合い方の問題ではあるにせよ)
A7:エンジェルハイロゥも分解後光速移動してるからええんちゃうか(小説版)
A8:根拠出典はアムロとララァの「人はいつか時間さえ支配することができるさ」やろ(まぁさすがにここで怒る気持ちはわかる)
Q9:サイコミュ技術そんな凄いんならエンジェルハイロゥのあの中途半端な性能なんやねん
A9a:いやあれとんでもない性能でしょ(小並感)
A9b:眠らせるだけやなくてもっと気合い入った洗脳や全滅できるやろ、という意味ならば、クロボン幽霊の「もともと暴動鎮圧用だった」ので(あとで高性能化したとはいえ)設計レベルではそこまで気合い入った威力設定してないんじゃないか、っていう感もある
A10a:ごめんなさい、これはちょっとトピ主が用語の理解ちゃんとできていなくって「幽霊と残留思念なにが違うんや……?」ってなってます。単にあの世がないとか鳥に輪廻転生はしないとかいう意味なのだろうか。
A10b:自律思考する魂ではなく、死亡時点の意志キャッシュデータである、という意味なのかもしれないが、これはこれで意味のある差なのかどうかちょっと分からない(強いAI弱いAIの差みたいな感じ?)
A10c:たぶん本気ではなくネタだと思うのだが「NTの洞察力で相手の思考を完璧に洞察しているだけ(残留思念は受信側脳内残留説)」という話を見かけたことがあって、ええ……「(脳内)ララァにはいつでも会い(妄想)に行けるから」は辛すぎるんちゃうか……?とドン引きしたことはある。ゲームオタクのゲイナー君でさえ恋した相手はNPCではなく生身の女だったというのに。
A11b:一応現時点だと、サイコフレーム封印事件云々はUC2の方メインで、閃ハサは流石にそっちには(一部設定を繋ぎやすくするだけで)持っていかないのではないかとは思っているが……。
A11c:そもそも福井以前にベルチルと映画ちゃうやん問題、小説の内容そのまんま映画にできるんか(できたとしてもアニメとしてテンポ等おもしろいのか)問題どうするんだろうか。ベルチル問題はあえて原作ママンにして「別に映画ともそこまで乖離しとらんやろ?」とか厚顔無恥フルアーマーしていいと思うんだが、無理だろうか。
Q12:人の褌でスモー取ってるのが許せん!
A12a:逆に富野はもう古い褌脱いで次のステージ行ってる(繰り返すが新訳Zよりもっと先行ってるんで注意)からそっち追えばいいやんけ、と簡単に思っているのだが、そうはいかないだろうか。
A12b:かつて「ペンタゴナは永野にくれてやった」という富野発言があったらしいが(ソース不明)、同じように「宇宙世紀前半は福井に、後半は長谷川にくれてやった(あるいは積極的にくれてやったわけではないが好き勝手にやってろ)」と、サンライズ・バンダイ経営層だけでなく富野本人が思ってそう……というのはうがちすぎか。
A13a:現状だとしてもあまり意味がないのでは?(時系列的に直接重複するパラレル作品がないと、大抵のガノタから「パラレルいうてもシリアル解釈も不可能やないやん」程度に思われてしまう危険性が高いため。つまり原作版オリジンとはちょっと状況が違う)
A13b:上記には、結局パラレルにしてもUC2自体はF91に繋ぐ気があるためという側面もある。ZZをばっさり斬り捨てた新訳Zという前例もあるにはあるが、あまり斬り捨てていくとその亡霊を背負った外伝が出てきて話をさらにややこしくしてしまうので注意は必要だぞ(なんせUCの背後にいるものの一部は、まさにそのZZの亡霊である)
Q14:サイコフレーム封印したのになんでF91に積んでるんや
A14a:条約は破る物。(割と冗談抜きで、南極条約ガン無視でNBC兵器抱え込むような宇宙世紀人たちが封印を守るとは思えない。もちろんUC2で示されるであろう危機に瀕して「使いすぎはやめよう」にはなるのだろうが、「適量や代替(ネオサイコミュ)ならいいよね!」という麻薬みたいな思考回路に落ち着くのではないか)
A14b:あとF91のサイコフレーム搭載はホンマ公式なんかな、ってのちょっと気になるんですよね。最近は曖昧になってきたみたいな話もあるのと、そもそも初出ソース(寡聞にして知らないのですがどこでしたっけ)からしてうっかり無断で書いちゃった程度なのではないかという気もしている。EB大図鑑には書いてなかったはず(こういう文脈でEBをソースにするのは普通は鼻で笑われるところなのだが、やっぱ現在も隠然とした影響力は残っているのと、F91時代はむしろ割とオフィシャルに食い込み気味だったという事情もあり、一応参考として挙げても怒られないと思う)
まだまだ左右どちらも色々あると思いますが、本トピはここまでということで。君も自分だけのガノタ憎悪を育てよう!!(育てるな)
https://anond.hatelabo.jp/20171107120730
https://anond.hatelabo.jp/20171107121239
MSタイマン勝負での決着という意味では、アムロが勝ったということに異存はないんだけど(たぶんサイコフレームのリークがないνガンダムでも、アムロはシャアには勝つだろう)、オフトピになってるかもしれないが、アムロとシャアの“決着がつく”ってのはそういうことではないような気がする。
たとえばアムロの立場でいうと、シャアを拘束して裁判にかけ、このおっさんが高邁な指導者でもなんでもなくちょっと能力の高いだけのマザコンのアダルトチルドレンということを世間に知らしめるとか、さもなくばフィンファンネルを突き刺してシロッコ並みの変顔をさせるとか、そうでなければ脱出ポッドを捕まえた時点で問答無用でその場で握りつぶしてしまうとか、そういうことができておらず、その後の歴史でも、UC以外のガンダムでも延々と仮面の男が出てきたりいまだに池田秀一がもてはやされたりというところに“決着ついてない感”を覚えてしまうんだわ。これはつまり監督が決着つけられてないということか(なお小説は未読)。
ガンダムシリーズはそのほとんどが、最終話においては「明日がやってくる、希望を持って生きよう」という方向性に収束する。
逆襲のシャアで、アムロは「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」と言う。それは「明日からやってくる日々の中で毎日努力してすこしずつよくしていけばいいじゃないか」ということを言っているのだ。これは、まおゆうにおいて魔王が言う「一緒に行ければ、どんなことでも乗り越えられるさ。それに何が起きたって幸せだけは約束できる。丘の向こうには、きっと“明日”があるんだから」と、努力の方向性として、ほぼ同一だ。
逆襲のシャアにおけるシャアというのは、急進的改革派なわけだ。現在に絶望してテロに訴えてでも世界を変革しようとした。
まおゆうにおける最終的な敵対概念は、守旧というか停止主義だ。既得権益をまもるために世界を静止させようとした。
これらにたいして、アムロと勇者/魔王は毎日の改良によって徐々に変革をなすべきだという主張をとなえる。ゆっくりでも、一歩ずつ、悪いところを直しながら明日へ進んでいけばいい。そういう主張だ。両者はその点において同じ側に立っている。
逆襲のシャアは素晴らしい作品だけど、あえて疵を探すとするならば、アムロの主張を実行できるかどうかに、疑義があることがあげられる。
これは主観も入るので、視聴者全員に「そうだったでしょ」と決めつけられる話ではないのだが、アムロのなかに、その主義を唱えるのとはまったく逆の個人的バックボーンも見え隠れするのだ。
アムロは「人類に絶望もしちゃいない!」と叫ぶわけだが、彼は一年戦争で心を通わせた少女をうしない、英雄として戦争終結に貢献したにもかかわらず戦後は体制派に飼い殺されていた過去がある。事実、その後、反体制派武装組織に協力している。彼は十分以上に絶望するような人生は歩んできているのである。
もちろん、それは悪いストーリーではない。彼が不遇を託っていたからこそ、アムロの叫びは読者の胸を打つ。自らの絶望から立ち上がったからこそ「人類に絶望もしちゃいない!」と叫ぶ彼は雄々しく、格好良い。その意味では、キラ=ヤマトの「それでも守りたい世界があるんだ!」も、ほぼ同一の文脈だ。
もっといってしまえば、まおゆうの勇者も確実に同じ文脈だろう。
英雄として世界を救うもにもかかわらず迫害を受け、絶望しかけるが、個人的な繋がりや精神的克己によって立ち上がり、人々を救うために奔走する。
「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、アムロや勇者は「信じられる!」と叫ぶ。それは、彼らが彼らの魂を担保として叫ぶわけだ。その強い輝きによって闇を飛び越える。
これらはストーリーとしてはよくできているが、じゃあ、それが、読者である我々にも適用できるか? といわれると返す言葉に困る。つまり、我々があの種の絶望におとされたあと、再び立ち上がって「人類に絶望もしちゃいない!」と叫べる保証はどこにあるのか? という点だ。「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、逆襲のシャアは「アムロなら叫ぶね」と答える。そして、現場にいた兵士もサイコフレームで思いが伝わった結果命を捨ててそれに賛成する。
この構図が、 id:Gaius_Petronius が批評したところの「英雄譚」であり、「英雄譚の限界」なのだ。
アムロは立ち上がり叫んだが、我々が同じ事を出来るとは限らない。というか、出来るようには思えない。サイコフレームの光があれば特攻くらいは出来る気がするが。
これにたいして、まおゆうは別の答えを読者に提供しようとする。それは歴史的な視点だ。
読者は現代日本に住んでいる。色々問題があるし、苦しみもある。でも、500年前とくらべてみれば明らかに恵まれている。みんなご飯をそこそこちゃんと食べている。電気が通っている。暖房も冷房もある。乳幼児死亡率は極限にまでへらされた。風邪は即死を意味する病ではなくなった。なんとネットにまで繋がってる。それどころか個人用の通信機器をみんなが持っている。これら視点で見れば、現在は、過去よりも、確実に具体的により良くなっている。もちろん大きな戦争もエネルギー問題もある。が、飢え死にばかりしてた頃に比べて、漸進していることは確実だ(この認識にぐだぐだ文句をつけてる人間が中国やアフリカ奥地に移住した例を知らない)。
その視点を提供した上で、魔王は「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問に答える。
「信じられる。だってそれは歴史を見れば明らかだ。人間は愚かかもしれないし、間違いを沢山起こすが、それでもここまでやってきた。この先にいけないはずがない」と。
この具体性や説得力は、アムロにもキラ=ヤマトにもなかったものだ。
主人公個人の精神的高潔さや勇敢さに仮託をせずに、読者にも実行可能なやり方で「英雄を超克」させてくれる物語上のギミックだ。
(この部分の指摘が、「物語三昧」には欠けているようにおもわれる)
まおゆうの提供する「丘の向こう」というのは「戦争が起こらないSF処方箋」でも「近代に続く血みどろの道」でもない。
「丘の頂上に立ったとき見られる向こうの景色=明日」と対になるようにしてあらわれる、「丘の頂上に立ったとき見られる歩いてきた景色=歴史」であり、未来と過去の両方をあわせた視界だ。読者に提供される「丘の向こう」というのは、この視界であって、それ以上でも、以下でもない。そしてこの視界は、英雄の苦難や高潔をもたないでも、誰にでも(それこそWikiを検索する程度の労力で)手に入る。
まおゆうがガンダムを踏まえて、より先へ行こうとした部分があるとすればここだし、物語の類型を一歩進めた部分も、まさにここにある。
バカにされたと怒っている人がいた。
自分は「バカにされた」という気持ちがよく解らないので考えてみた。
逆襲のシャアで、「情けないモビルスーツと戦って勝つ意味があるのか?」と、
サイコフレームの提供元がシャアだったことを知り、アムロは「バカにして!」と憤る。
これはサイコフレーム無しでもシャアと対等に戦えるというアムロの自尊心が言わせているのだろう。
であるならば実際の優劣は関係なく、受け取る側の気持ちの問題ということだ。
もしかしたら「僕はシャアより強い」というアムロの思い上がりかもしれないが、同じことだ。
とここまで考えて、「バカにするな」とか「お前のそういった態度が人をバカにしてる」という会話の戸惑う理由がわかった。
これは飽くまで受け手側の都合であり、そういうつもりがない話し手には唐突な話題転換なのだ。
バカにするなで思い出すのは、やはり朝生の田原総一郎x四宮正貴であるが、
田原は「これから聖徳太子の話をしますよ」と話題転換の意味で「聖徳太子を知っていますか?」と発言したのだろうが、
四宮にしたら、いい大人が知らぬわけなかろう!とバカにされたと受け取ったのだろう。
田原にしてみれば、それこそいい大人がといい迷惑である。文脈で分かれよ。
となったので、これから「バカにするな!」と言われたら(あーバカなんだ)と思うようになると思う。