2013-01-18

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20130115/1358256185

まおゆうガンダムを踏まえて、より先へ行こうとした部分

 ガンダムシリーズはそのほとんどが、最終話においては「明日がやってくる、希望を持って生きよう」という方向性収束する。

逆襲のシャアで、アムロは「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類絶望もしちゃいない!」と言う。それは「明日からやってくる日々の中で毎日努力してすこしずつよくしていけばいいじゃないか」ということを言っているのだ。これは、まおゆうにおいて魔王が言う「一緒に行ければ、どんなことでも乗り越えられるさ。それに何が起きたって幸せだけは約束できる。丘の向こうには、きっと“明日”があるんだから」と、努力方向性として、ほぼ同一だ。

 逆襲のシャアにおけるシャアというのは、急進的改革派なわけだ。現在絶望してテロに訴えてでも世界を変革しようとした。

 まおゆうにおける最終的な敵対概念は、守旧というか停止主義だ。既得権益をまもるために世界を静止させようとした。

 これらにたいして、アムロ勇者魔王毎日の改良によって徐々に変革をなすべきだという主張をとなえる。ゆっくりでも、一歩ずつ、悪いところを直しながら明日へ進んでいけばいい。そういう主張だ。両者はその点において同じ側に立っている。

 逆襲のシャアは素晴らしい作品だけど、あえて疵を探すとするならば、アムロの主張を実行できるかどうかに、疑義があることがあげられる。

 これは主観も入るので、視聴者全員に「そうだったでしょ」と決めつけられる話ではないのだが、アムロのなかに、その主義を唱えるのとはまったく逆の個人的バックボーンも見え隠れするのだ。

 アムロは「人類絶望もしちゃいない!」と叫ぶわけだが、彼は一年戦争で心を通わせた少女をうしない、英雄として戦争終結に貢献したにもかかわらず戦後体制派に飼い殺されていた過去がある。事実、その後、反体制派武装組織に協力している。彼は十分以上に絶望するような人生は歩んできているのである

 もちろん、それは悪いストーリーではない。彼が不遇を託っていたからこそ、アムロ叫びは読者の胸を打つ。自らの絶望から立ち上がったからこそ「人類絶望もしちゃいない!」と叫ぶ彼は雄々しく、格好良い。その意味では、キラヤマトの「それでも守りたい世界があるんだ!」も、ほぼ同一の文脈だ。

 もっといってしまえば、まおゆう勇者も確実に同じ文脈だろう。

 英雄として世界を救うもにもかかわらず迫害を受け、絶望しかけるが、個人的な繋がりや精神的克己によって立ち上がり、人々を救うために奔走する。

 「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、アムロ勇者は「信じられる!」と叫ぶ。それは、彼らが彼らの魂を担保として叫ぶわけだ。その強い輝きによって闇を飛び越える。

 これらはストーリーとしてはよくできているが、じゃあ、それが、読者である我々にも適用できるか? といわれると返す言葉に困る。つまり、我々があの種の絶望におとされたあと、再び立ち上がって「人類絶望もしちゃいない!」と叫べる保証はどこにあるのか? という点だ。「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問いにたいして、逆襲のシャアは「アムロなら叫ぶね」と答える。そして、現場にいた兵士サイコフレームで思いが伝わった結果命を捨ててそれに賛成する。

 この構図が、 id:Gaius_Petronius が批評したところの「英雄譚」であり、「英雄譚の限界なのだ

 アムロは立ち上がり叫んだが、我々が同じ事を出来るとは限らない。というか、出来るようには思えない。サイコフレームの光があれば特攻くらいは出来る気がするが。

 これにたいして、まおゆうは別の答えを読者に提供しようとする。それは歴史的な視点だ。

 読者は現代日本に住んでいる。色々問題があるし、苦しみもある。でも、500年前とくらべてみれば明らかに恵まれている。みんなご飯をそこそこちゃんと食べている。電気が通っている。暖房冷房もある。乳幼児死亡率は極限にまでへらされた。風邪即死意味する病ではなくなった。なんとネットにまで繋がってる。それどころか個人用の通信機器をみんなが持っている。これら視点で見れば、現在は、過去よりも、確実に具体的により良くなっている。もちろん大きな戦争エネルギー問題もある。が、飢え死にばかりしてた頃に比べて、漸進していることは確実だ(この認識にぐだぐだ文句をつけてる人間中国アフリカ奥地に移住した例を知らない)。

 その視点提供した上で、魔王は「この絶望の中にあって明日を信じられますか?」という問に答える。

 「信じられる。だってそれは歴史を見れば明らかだ。人間は愚かかもしれないし、間違いを沢山起こすが、それでもここまでやってきた。この先にいけないはずがない」と。

 この具体性や説得力は、アムロにもキラヤマトにもなかったものだ。

 主人公個人の精神的高潔さや勇敢さに仮託をせずに、読者にも実行可能なやり方で「英雄を超克」させてくれる物語上のギミックだ。

(この部分の指摘が、「物語三昧」には欠けているようにおもわれる)


 まおゆう提供する「丘の向こう」というのは「戦争が起こらないSF処方箋」でも「近代に続く血みどろの道」でもない。

 「丘の頂上に立ったとき見られる向こうの景色明日」と対になるようにしてあらわれる、「丘の頂上に立ったとき見られる歩いてきた景色歴史」であり、未来過去の両方をあわせた視界だ。読者に提供される「丘の向こう」というのは、この視界であって、それ以上でも、以下でもない。そしてこの視界は、英雄の苦難や高潔をもたないでも、誰にでも(それこそWikiを検索する程度の労力で)手に入る。

 まおゆうガンダムを踏まえて、より先へ行こうとした部分があるとすればここだし、物語の類型を一歩進めた部分も、まさにここにある。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん