はてなキーワード: グレンジャーとは
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以前、息子が見つけてきて「これ、変だよね」と言った消防少年団のポスターには、男の子がホースを持って前面に立ち、女の子が後ろで救急箱を持って控えていました。男性はメインの業務や力仕事を担い、女性は補助的な仕事やケアワークを担うという思い込みは、いまだに根強く残っています。
消防という人の命がかかった場面で「単に外形的な数的平等のために」大きな水圧で暴れる重いホースを女性にも持たせてさしあげる配慮をすべきかというと、私には疑問に思える。そういうときってホースは男が持ったほうがいいんじゃあるまいか。体重や筋力が平均的に男女同等ならいくらでもホースを持ってもらえばよいが、そうではないだろう。
というか、消火作業(ホース)も被災者の救護(救急箱)も、業務の重要度はイーブンだろうと思う。ホースがメインで救急箱がサブというのは序列が恣意的で、息子さんをよく調教されているようだけれど、男女平等にこだわりすぎて職業の平等を教えることをどこかに置き忘れてしまっているのではないか。
大学の学園祭を訪れたとき、男子学生がおそろいのピンクのTシャツを着ている様子を見て、しみじみと時代は変わっているなと感じました。娘が一時期、ピンクなどのパステルカラーばかりを欲しがるので、親として複雑な気持ちになったものですが、今の大学生は「ピンクは女の子の色」という意識さえ持っていない。偏見や固定観念に縛られることなく、男性がピンクを着ることが当たり前と感じる世代が生まれているのです。
とにかくピンクと女性の結びつきを断ち切りたくてしょうがないようす。
男子学生が揃いのピンクTシャツを着ていたからといって「男性がピンクを着ることが当たり前と感じる世代が生まれている」と判断するのはそそっかしすぎるだろう。学祭ということはサークルのユニフォームだろうから、その色を個人個人が好きで着ているとは限らず、女子もいるサークルで女子が決めたものをいやいや着させられているかもしれないのでは。
娘さんがパステルカラーを着たがることに「複雑な気持ちにな」るのは本当に親としてどうかと思う。娘さんが自由意志でパステルカラーを好んでいるのかもしれないのに、それを「社会に蔓延するステレオタイプに毒された結果」としか見られないのは、ひどい視野狭窄に思える。
子供の選択の自由を奪い、感性を自分の都合のいいように方向づけしようとしているという意味では「女の子だからピンクを着なさい」と押し付ける親も「パステルカラーなんか好んじゃいけません」と教える親も大差ないだろう。
例えばドラマを観ていると、なぜか悪役は男性、さらわれたり、狙われたりするのは女性ばかりです。我が家では、そんなステレオタイプのドラマを見ると、息子が「また女の人が逃げてる!」と突っ込みます。
現実に犯罪者数は男性が女性の10倍であるのだから、人をさらったり狙ったりする役は男性のほうが自然だし、粗暴犯が力の弱い女性を狙うのも自然な選択だし、そして、ここだいじだと思うんですけど、強者が弱者を狙うからこそ「卑劣で卑怯な手口」というプロットが成立するのであって、女が力づくで男をさらうドラマなんかがあったらそれこそ「何かおかしい」どころではなく、噴飯ものでしょう!
そしてですね、いわゆる2時間ドラマでは犯人が女であることもとても多くて(断崖で泣きながら犯行動機を語る中山忍が好きだ)、現実との比較としてはむしろこっちほうこそ不自然で不平等に思えるのだけれど、それはOKということなのかしら。
例えばアメリカのドラマでは、大統領やCIAエージェントのような仕事に女性が就いていることもめずらしくありません。最近のハリウッド映画では、コンピュータが得意な女の子が大活躍したり、男性の後ろに隠れずに、真っ向から敵と戦う女性ヒロインが登場したりしています。
もー、そもそもドラマの配役をもってジェンダーステレオタイプうんぬんを語ることじたいがスカタンとしか言いようがない。
エンタメに登場する女性は、その役柄がどれだけ威勢のいいものであろうと「画面の彩りやバランス」のために配置されていて、フェミニストであるならば本来そこにこそ疑問を感じるべきだと思うんだがそこは無視っていうね。フェミニストの旗手のように崇められているエマ・ワトソンにしたって、今の地位を築いたのはハーマイオニー・グレンジャーという「冷静な優等生というジェンダーステレオタイプな役」がウケたからなのですよ。
「男性の後ろに隠れずに、真っ向から敵と戦う女性ヒロインが登場したりしてい」ることをまるで近年のフェミニズムの手柄のように語っているけれど、ワンダーウーマンの例を引くまでもなく戦う女性を描いたエンタメはむかぁぁぁぁぁぁぁしからあるし、それは必ずしも実社会での女性の地位の向上や男女平等の意識の浸透を意味しているわけではない。女性でも「暴力」で敵と戦うのはスカッとするよねというだけの話で、現実にワンダーウーマンやプリキュアのような立場を担わされたら大半の女性は「迷惑」と感じるのではあるまいか。
これ以上くどくど書いてもしょうがないからまとめるけど、この治部れんげとかいう浅い浅いフェミニストは、言ってることのすべてが「表面的な数合わせだけの悪平等」の域を一歩も出ておらず、耳を傾けるに足る主張はない。それだけならまだいいのだけれど、この人、明らかに浅薄でズレた平等意識のもとでお子様の洗脳をなさっておいでで、まあこの人の子供がどんな人間に育とうと知ったこっちゃないのですが、ちょっと気の毒に思いましたまる
私が見たぶんの、二次創作物としての夢小説、狭い範囲の夢小説について話したいと思う。
とはいえ、そんな狭い範囲においても、夢小説というものの幅は広い。名前変換小説、という別名をとるだけあって、「名前変換機能」がついている二次創作小説は、すべて「夢小説」と呼ばれる。JavaScriptのダイアログでも、Cookieのフォームでも、投稿SNSサイト・ホームページ作成サービス付属の機能でもいい。
その形式。愛おしいあのダイアログは、そっけなく「苗字」「名前」、とだけ書かれたものもあれば、「御名前をドウゾ」「Please enter your name.」なんていう、意味はよく分からなくともすてきな言葉遣い。
なぜならば――それはインターネット上で行われている。
すてきなものは同人誌即売会にある。オフラインにある。二次創作というものを知って以降、私はそう覚えこまされた。「オフ本を作りたい」と作家さんは言い、「やっぱり本になるといい」「ちゃんとしてるように見える」と言う、「差し入れありがとうございました」「こんどのイベントは限定ペーパー作ります」「コピ本作ります」。
指を咥えながら見ていた。
愛が足りない、と言われればそうだったろう。小学生だって即売会に行くことはできる。通販を申し込むことだって不可能じゃない。けれど私にはそうするだけの愛が足りなかった。住所を入力する勇気もなかったし、新幹線に乗って大都市に行くお金を貯めることもできなかった。
夢小説は私の味方だった。
クリックひとつで手が届く、インターネット上で完結した世界だった。本になって、「ちゃんとしてるように見える」ことはなかった。同人誌はインターネットがはじまる前からあったらしい。夢小説は、常にインターネットとともにあった。メアリー・スーの存在は知っている。けれど「名前変換」。名前変換が出来なければ夢小説ではない。
振られるもの。振るもの。いじめられるもの。いじめるもの。嫌われるもの。嫌うもの。
ただ一瞬だけ人生が交わるもの。交わることすらなく通り過ぎていくもの。
主人公の性別に制限はなく、男の子になってキャラクタと交わる夢小説は女の子になる夢小説と同じくらいたくさん書かれているように見えた。百合夢小説だってある。少なくとも私は書いたことがあるし、『テニスの王子様』のヒロインたち、竜崎桜乃と小坂田朋香や、『ハリー・ポッター』シリーズのハーマイオニー・グレンジャーの夢小説はかなり読んだ。夢中で読んだ。
ハーレム夢小説が好きだった。登場人物が多いぶん、たいていは長編のラブコメだった。ジェットコースターみたいな展開に夢中になり、連載が更新される日はいつも待ちきれなかった。男の子たちと丁々発止とわたりあう聡い女の子たちに憧れた。女の子を大切に大切に扱う男の子たちは原作とはまたちがう輝きを放っていた。「キャラの立った」女の子たちは、ときに作品の垣根を越えた作品を生み出すことがあった。それもまた好きだった。
傍観者になる夢小説が好きだった。「無糖」という言葉はよく覚えている。夢小説の脇には、しばし「狂愛」「死ネタ」「悲恋」などと属性が書かれていたけれど、そのなかの「無糖」は、キャラクタのそばを、傍観者として通り過ぎていくことを意味していた。見つめるだけでなにも起こらないことが約束されていた。書き手の視点から切々と綴られた誰かの横顔は、どこまでもいとおしかった。
これらの、相反すると思えることが同時に起こり得たのは、すべて、「名前変換」というものがあったから。
夢を見なければ、夢小説は書けない。
夢中にならなければ、作品のなかに入り込むことがどうしてできようか?
夢小説を読むとき、書くとき、私はずっとずっと夢中だった、冷静な判断なんてなにひとつしなかった。ただ、情熱の赴くままに行動した。
文字通り夢を見ていた。