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2012-09-10

リア充と、コミュ障と、そのはざまに

日本人は二つに分けることができる。リア充コミュ障である

リア充コミュ障についての一般的理解についてはすでに得られているものと仮定する。ところでこれは世界一般の傾向とは言いがたい。コミュニケーション力のあるなしは、たしか社会での成功につながったり、リーダーとして選ばれる資格ではあったりするものの、社会全体を二つに分けたりはしない。同じ趣味を共有する者たちは、リア充であろうとコミュ障であろうと仲良くする。同じようにリア充であっても価値観、例えば政治信条が違うなどすれば必ずしも仲良く話したりはしない。これは西洋社会のことを説明したのだが、アジア中東アフリカがそれぞれ違うかもしれないが、いずれにせよ世界で一般的な社会構造はいえない。

日本での特徴は、コミュニケーション力が高く集団リーダーになりうる人間に、その他大勢のある程度コミュニケーション力ある人間がコバンザメのように付着し、そしてその外的構造であるコミュニケーション力がかなり低い人間自分たちの場にいれないように蹴落とそうとするところにあると考える。ある種のコミュ力の低い人間、たとえば極めて知能の高い人間や有名スポーツ選手などはリア充集団に歓迎して迎えられるが、それはリア充集団が彼をどう捉えるかによって決定されている。つまり社会構造の決定因子はリア充クラスタ集団意思に拠っている。

ここでアニメゲームをはじめとするオタク文化考察すると、ここは実のところ必ずしもコミュ障アニメオタクという符号が成立しないことには、この分野に詳しい諸家はすでにお気づきのことと思う。大方コミュ障アニメ好きを許容し、リア充アニメを毛嫌いするような一般的合意があるように思われるものの、その結果としてリア充クラスタにおける「アニメ好き」趣向は、まるで韓国における「親日」と同じレベルタブークラスタからの脱落を意味しかねない極度にセンシティブな因子なのである。かくしてリア充構成員はたとえアニメ好きであったとしてもそれを隠蔽する傾向にあると推察される。一見すると強力に両クラスタ間を分別する因子がオタク文化のように感じられるかもしれないが、実のところ本質的な差異であるコミュニケーション力(あるいは空気を読む力)」に比較するとオタク文化の識別能力はさほど高くない可能性がある。リア充クラスタにおいて本来オタク文化を好む傾向を持つものは、宮崎アニメ好きやゲーム好きなどという仮の衣をまとっていたりすることがあろう。

ここでコミュニケーション力の高い人間の中でもリア充クラスタを引っ張るほどに実力の高いものには、上記のタブー要因が作用しないことにも注意したい。かくしてリア充リーダークラスに認められたオタク文化、例えばゲームであるとか、エヴァンゲリオンなどと言ったものは、一時的ではあってもリア充クラスタに受けいられることはある。しかしその発言権を有するのはリーダークラスだけであって、構成員はたとえエヴァンゲリオン面白いと感じてもそれを口にだすべきではないわけだ。

もしこれを読むリア充構成員が、そんなことはなくて本質的アニメなどくだらなくて毛嫌いすべきもの自分はどこまで言ってもあんなものを理解することはない、と思うとしたらそれは知性のなさを吐露するものと捉えられよう。どんな文化にもその文化の理解と経験からなる文脈的解釈があって、たとえば夏目漱石を読みたいたいならその背景のあの時代日本小説文化をわかっていないと凄みがないし、ゴダールを楽しみたいならヌーヴェルバーグについての一定の知識がないと到底わからないだろう。これらのマニアック趣味ならばこの発言はすぐに受けいられるが、これはたとえばレディー・ガガだって浜崎あゆみだって、「読モだって同じ事だ。「読モ」なんていうのはあからさまに文脈的文化であり、芸能界大衆一般文化特に女子高生文化との異常な接近を意味しているに過ぎず、これがたとえば欧米社会に言って受けいられるようなスター性がある人間たちだとは到底思えない。それはしかし逆も真であって、現在欧米セレブリティ普遍価値を持っているわけでもない。さら欧米であったって、日本アイドル文化の文脈を理解した者たちは、熱烈にモーニング娘を支持したりする。結局のところ文脈だ。そしてその文脈を理解した時、アニメ面白さというものが血となり肉となって味わうことができるのであるが、アニメの文脈を捉えようとしたことのないリア充が「アニメなんて子供のものでつまらない」と言った時、文脈をきちんと理解した時彼が同じようにつまらないと思うかどうかはわからない。本当はそのアニメの強力な支持者になりうる資質をもっていたかもしれない。

ここでまず第一の議論に入ろう。先日、プリキュア好きのアホな若者未成年略取の事件を起こした際、プリキュアを見るような成人男性は幼い女の子誘拐しかねないか監視すべきかという議論があった。ここで、金銭目的ではない幼女略取事件を起こすための決定要因はロリータ・コンプレックス存在にあるとする。これはいいだろう。

そらコミュ障ロリコン人間プリキュアを見ている。それは否定しがたい。相関も出るだろう。コミュ障ミリタリー好きな人エリア88を好むかもしれない、そういった趣味傾向の行先として当然の帰結であろう。しかし、リア充ロリコンは、上記の社会的プレッシャーによりプリキュア好きを公言しないか、もしくは好まないもののそれは文脈理解の不足によるもので、コミュ障と同じだけのアニメ文化洗礼を受けた上で見てみると、その人間本質的な趣向はプリキュアを是とする可能性がある。プリキュア視聴という因子は、リア充ロリコン人間を識別する能力を全く持たないと考えられる。

そこで、プリキュア視聴の幼女略取事件発生に関する精度が高いためには、コミュ障の条件付けでは相関があるものの、リア充の条件下では相関が出ないと思われることから、そもそも幼女略取を起こすのはコミュ障であってリア充は起こさないかもしくはとても可能性が低いという前提が必要だ。しかしこれは確認されていない思い込みである。過剰な前提であるコミュニケーション力の有無によって幼女性愛傾向が決まるというのは過剰な前提だ。そもそも幼女に話しかけてつれさってどこかで何かしようという行為コミュニケーションによって成立しているように思われる。

であるから現在情報をもとにプリキュア視聴によって幼女略取を推定できると考えられるとは思われない。しか研究対象としては興味深い。本当にコミュ障プリキュアを見てという人がほとんど幼女略取事件を起こしているのか、それとも実はリア充で、社会的理由によりプリキュアを見ていない者が、ロリコンなので幼女略取事件を起こすのか。報道などを総合する限りは、野球選手幼女にイタズラした事件なども含め、必ずしもコミュ障けがこの手を事件を起こしているとは思われない。私の直感では、「プリキュア視聴」の識別能力はさして高くないものと思われる。私はここでことさらプリキュア好きな人を擁護したいのではなくて、我が子を守ろうという社会的行動にあってプリキュア好きを調査する行為はおそら無意味であって、それよりももっと他の面を充実させることで犯罪抑制を図ってもらったほうがよいだろうという思いから述べたものである

次に第二の議論に移りたい。

最初に述べたようにリア充クラスタにおいて、アニメ好きというのは集団からの集中攻撃を受け、個体として排除される可能性を生むほどの強烈なタブー因子である。それでは、人生のある時点においてコミュ障クラスタからリア充クラスタに移動した人間においてはどうであろうか。これは一般には「大学デビュー」などと称される現象として観察されている。

これは私の話である。高校時代エヴァガンダムW、3x3アイズやああっ女神さま、ロードス島戦記といったそんな世代だ。コミケは所要で行きそびれたが、今から考えると正解だったか萌えかい言葉はなかった、と思う。大学に入った当初くらいはエスカフローネウテナを見ようとしていた記憶もある。しかし内容については一切記憶が無い。私は結果として、アニメ好きを決して公言せず、周囲に同調して「この年齢でアニメ見るとかヤバい」「twitterアニメアイコンキモい」とか言い始めるようなそんな人間になっていた。実際には周囲の人間は、「こいつちょっとオタクくさいよな」とは思っていたかもしれないが、リア充クラスタというものは、大学レベル就職なども視野に入りポリティカリー・コレクトな発言を志すようになると、「僕はリア充クラスタに入信したいです!過去のことは水に流します」という気持ちでありさえすれば受け入れてくれるものである。そしてなれないおしゃれな服を買ったり、カラオケではやりの曲を歌ったりするのである。高校まではバカにしていたような、軽薄な恋歌を。そうやっていると、「彼女」が得られるのだ。現代日本社会において、古代ローマ帝国における「ローマ市民」を意味する社会階層に移ることができる。

ところで彼女を得たり、彼女を得るための努力をしたりしているうち、軽薄だと思っていた恋愛の歌が、実際に経験してみると自分の気持ちや彼女の気持ちをわりとうまく表現しているということに実感が至り、そうそう軽薄といってバカにすべきものでもないなとも思う。とはいえ思ったこと感じたことを書いただけで、より深い洞察はどこにもないが。ショッピングも、自分がその中で役割を演じる主体となってみると、無駄時間と思っていたそれがわりと楽しいものと感じる。買ったもの無駄であることに変わりはないが。

結局のところ彼女に最高のプレゼントを購入し、サプライズ込みの記念日を演出する自分がいながら、その傍らでそれを冷めた目で見つめている自分がいる。オタクコミュニティの言説への親和性はその後もずっと高く、それになんとなく寄り添う気持ちは持ち続けている。

ところがだ。たとえばネットで、オタクへの攻撃的言説があったとしよう。両世界を知る人間としては私は言うが、そのほとんどは謂れ無き差別、思い込み、妄想オンパレードで、リア充側に理があるといったことはほとんどない。実のところ私と同様に二つの世界を移った人間が、コミュ障世界への決定的決別を宣言するがために、わざと理不尽な攻撃を繰り出しているのではないかと思えるほどである(そもそもネット系ツールで自分の主義主張をかましてしまうような人間が、オタク文化に一度も染まったことがない可能性はどれほどなんだろう。はてなならまずそれはないと言い切れるが、twitterなら真っ当な人間もいるのかもしれない)。ここでわたしは実名世界ならば「まあまあ」といったところでお茶を濁すところだ。一方匿名であれば、コミュ障側への深い理解と共感リア充の身勝手さへの反感を述べるのである。それができるのがネット世界であった。わたしの年齢だと、大学くらいから徐々に浸透してきたものだ。

ところがそれに対する反応はどうか、「上から目線だ」「こいつオタク装ってオタクじゃねえ(やはり短期間でも離れると会話についていけなくなる世界だ)」「とにかくむかつく」というような、つまりリア充リア充のものの発言をした時よりもよりいっそうの猛烈な反発をくらっちゃったのである。うん。くらっちゃった。僕はコミュ障オタク達を助けたかっただけなのに・・・

大統領発言である

ここでは韓国において、日本リア充にあたるのが「反日」、コミュ障が「親日」と考えよう。親日っていうのがいるのかいないのかわからないと言われるかもしれないが、私は少なくともそれなりに知っている。しかし強烈なプレッシャーがあり口にだすことができないという。社会で生きていくのに困難さすらともなう場合によっては転向を要求される、転向しさえすれば許される。これがコミュ障クラスタと似ていないと言えようか。一方、反日クラスタの中では、ちょっと過激すぎて理不尽とも思われるような反日的発言(日本高校生バットは圧縮バット、みたいな)が容易に許される、やや知的に劣等な面が見られる。そう、これがリア充クラスタだ。「親日」側は日本の「コミュ障」よりもはるかに強烈に弾圧され法律まで持ちだされて言論封殺されているような環境ではあるが、構造としては似ている。

そこで李大統領は、就任前の経緯や就任当初の発言を見るに基本的には「親日」側の人間であるように思える。韓国政界でもそのように攻撃されていた。であるが、そこは韓国だ。私が実は井上喜久子姉さん(17)が好きなんですーなんて口が裂けても言えないのと同様に、李大統領も本来の親日発言をすることはできないのだろう。した瞬間に引きずり降ろされる。しかしそれでもなんとかしてやりたい。僕はもうアニメ好きには(親日には)決別してしまったように社会的には行動していたとしても、自分自分として評価されなくてもいい、ただし何か一つでもアニメ好きの人たちが嫌われない、少しでもよく思われるように、こちらがわ(反日側)の内部からそのクラスタを説得できるようなことができないものだろうか・・・

アニメ危険ものだなんて証拠はないって言わなければ(過去記憶だけにとらわれず前向きに行こう)、でも僕自身はアニメ好きなわけじゃないって付け加えないとねリア充の人たちから疑われるし(従軍慰安婦への謝罪が不十分だ)、あとアニメ好き側の人も振る舞い方を少し気をつけたほうがいいよねって書こう(天皇陛下に来てもらって謝罪をするなど大胆な行動が必要だ)、そうするとリア充側も納得するだろうし・・・

で、もちろんリア充の方に向けて発言してるわけだから自分アニメを支持するわけではないっていうニュアンスをちゃんとただよわせなきゃ(来たいなら来ればよい)、そうしないとむしろ自分が攻撃されてしまうしね・・・

それで猛烈な反発を食らってしまった。ほんとは僕はあなた方のために行動したかったのに・・・日韓関係の専門家を集めて、真意が伝わっていないと不満をもらす)

どうだ、見事にハマっているわけではないか。李大統領はかつてオタク文化にハマったコミュ障住人で、ある時点でリア充クラスタに移ったのだがあの時のオタク文化に恩を返したい、そんな義理堅いやつなんだ。だけどそんなことしてオタクから猛烈に反発くらっちゃったわけなんだな。

という壮大な妄言はここで終わりです。

2011-01-30

CRエスカフローネへの不満

CRエスカフローネはひどい。こんなのってないよーっ。

CM時点ではもう少し面白そうにみえたのだが

音量が小さすぎる

BGMも歌も台詞もぜーんぜん聞こえないんですけど。エスカフローネといえば、あの「エスカフローネっ、エスカフローネッ!エスカフローネ、エスーカーフローネエー」って歌だと思うんですけど、なんであれないねん。その割に役物の羽根がうごくのはピュインピュイインとうるさいぐらいなので、単純に設計に失敗してるんじゃないか

演出絵の画質悪すぎ&喋らなすぎ

絵は全部当時の絵をつかってるんだが、どうも単純に引き延ばしたみたで非常にジャギーが目立つ。新緑が極端にすくなくって、みんな喋らない。こう、目ちからカットインが入ったときとか、一言しゃべっても良いと思うんだ。とくにフォルケン兄さんが何かしゃべっての、記憶にないんすけど。

ガセが多すぎる疑似連

羽根のお母さんが登場すると疑似連なのだが、これが面白いぐらい当たらない。疑似連3で外れるのがザラ。これがミドル機種ならまだわかるんだが、遊パチでやることじゃないと思う。

エスカフローネがなんなのかよくわからない

せめて人物説明とか、ストーリーの大枠説明とか、もうちょっと織り込んでもいいと思った。羽根お母さんが誰なのかとか。バルガスが誰なのかとか、シド王子がだれなのか。

2010-09-25

SFロボットアニメが急速に陳腐化しつつある件について(再論)

 

 俺が前に書いた表題の床屋談義について(http://anond.hatelabo.jp/20100923234530)。

 暇なはてな民の方々からそこそこ意見が寄せられてきたのでここらでみんなの意見を踏まえつつ再論する。人によってはSFという言葉過剰反応したり、「SFロボットアニメ」の定義がわかんねえよとの声があったが、語義を巡る議論に深入りするのは主眼ではない。ここでは差し当たって「巨大なロボットとそれを指揮するキャラクター物語の中心となる近未来アニメという意味として便宜的に使わせて頂くのを許して欲しい。近所のレンタルビデオ屋にある「SFロボ」のコーナーはこれで並んでおり、一般的な認識ともそう離れてないと思う。(これだとたとえば、「鉄腕アトム」や「攻殻機動隊」は近未来だけどOUTとなる、一方で「パトレーバー」はINとなる。)

SFロボットアニメ陳腐化現象について

 で、上記のように定義づけると、「トランスフォーマー」のように「テレビくん」で販促しているようなキッズ向け作品に関しては好調なものはあるものの、従来の大きな柱であった「アニメージュ」で取り上げるようなティーンネイジャー以上をターゲットにしている部類では、陳腐化は間違いない。

 たとえば最も有名なタイトルであるガンダムシリーズは、作品数の減少が顕著だ。90年代には「V」から「∀」まで5つのテレビシリーズ(加えて複数のOVA、映画)がリリースされた。しかし、00年代に入ると、テレビシリーズの新タイトルは「SEED」(続編含む)、「00」の2つだけだ。

 ガンダム以外にも、90年代には「エヴァンゲリオン」「機動戦艦ナデシコ」など今も語り継がれる新タイトルのヒットがあった。今冷静になって振り返るとこれロボット出す必要あんのか、という作品までロボットが登場していた。具体的には、「神無月の巫女」や「エスカフローネ」、「サクラ大戦」(これはアニメというよりメディアミックス作品だが)などだ。00年前後までは「ロボット」は登場人物を引き立たせる定番の構成要素だったと言っていいかもしれない。

 しかし00年代にはいって、男の存在を抹消した萌えアニメの隆盛と入れ違うようにしてSFロボットアニメプレゼンスが消えていった。中でも象徴的な出来事は07年の「グレンラガン」だった。久しぶりにガイナックス制作するSFロボットアニメで、内容的な出来も(個人的には)期待を裏切らないものだったが、その影響力は同時期に放送していた「らき☆すた」の方が完全に上回っていた。「エウレカセブン」や「創聖のアクエリオン」は、事前プロモーションメディアミックスで力をいれていたものの、作品としてはことごとくコケた。この2作品が今でも人々の記憶に残っている理由は、アニメの成功ゆえではなくパチンコで行きを吹き返したおかげだ。

 結局、世紀が変わった当たりからSFロボットアニメは定番タイトルの続編が少なく新タイトルもろくなヒットが出てこなかった、ということになる。

どうしてこうなった

 はてな民からのコメントに、「企業が興味を示さなくなったから」というのがあったが、これは結果と原因を取り違えている。企業側の主導で消費のトレンドを作るのは電気製品などではよくあるが、アニメトレンド消費者が主で企業が従、がこれまでの流れだった。重要なのはなぜ消費者が興味を示さなくなったかだ。

 それは「21世紀の現代に適応できた新しいSFロボットアニメ像を提示できていないから」。繰り返しになるが、やはりこれが一番大きいと私は思う。「ロボが出てくる未来のおはなし」だけではもう飽きた、というわけだ。前回のエントリに対し、別のはてな民も『電脳コイルゼーガペイン見たときに思ったのが「これ、ロボアニメである意味あるか?」だったなぁ』と回顧している。SF的な未来世界の中に「巨大な人型ロボット」の存在は間違いなく時代遅れになりつつある。

 実際、ストーリーはすでに出尽くされ感がある。たとえば、

14歳の少年早瀬浩一は、ある日“事故”により、少女と出会い、巨大人型メカ「ラインバレル」を手に入れた。何も出来ず、正義に憧れているだけだった少年の周りは、彼が圧倒的な力を手に入れたことでめまぐるしく動き始める。新しい仲間と出会い、友人と別れ、守るものを背負い、自らを囲む世界と向き合い、やがて少年は成長してゆく。

 これは2008年に放送された「鉄のラインバレル」のストーリー紹介だが、これにたいして海外掲示板にすら「俺たちは同じようなアニメを幾つもみてきたんだよ!」って放送当初からキレていた人がいた。

 設定や描写も現代では通用しなくなっている。空気のない宇宙でバキュンバキュンする銃撃戦は15年前までならOKだったが、今そんなことやったら恥ずかしくて目も当てられない。ネットでも炎上する。それと、お互いを「○○少尉」とか軍隊風の呼称で呼ぶことも、あのコクピット内の絵面(ごちゃごちゃした巨大なマッサージチェアみたいなところに腰かけて膝の横辺りにある操縦桿を握る)もそう。そもそも2足歩行があれだけ一般的な形式であり続ける工学的な理由は何?陸上を移動するならば足よりも車輪の方が機能的じゃね、と外人でなくてもそうツッコミたくなる。

 もっと根本的に、少なくとも目の肥えた「大きなお友達」にとってはSFの持っていた神通力が衰退したことも大きい。前回のブクマコメントにあったように、SFはかつてテクノロジー未来を提示する役割を果たしていたけど、今やSFにその力はなくなってしまった。小さな通信端末はもちろん、ファーストガンダムアムロがいじくっていた電子書籍端末も今年Ipadが出てきた。20世紀にワクワクしていた未来技術世界は、21世紀の今になって確実にワクワクできなくなっている。深刻なのはそれを21世紀の私たちがワクワクできるような形に上手くリニューアルできていないことだ。「SFロボットアニメがどうこうより科学の発展に大した希望をもたなくなった」という悲観的なコメントもあった。

これからどうなる

 だから結局、オーソドックスSFロボットアニメが受入れられなくなってきたから、今はなんとかして新しいそれに代替するSFのあり方というか表現方法を模索してる、という段階なのだと思う。1つの流れとしては、『プラテネス』みたいな、自分と割と身近な人が宇宙に行って、みたいな話だ。ロボットなんてシロモノをあえて登場させず現実的な想像力で捉えられる範囲で、人間同士の関係を描写する。もう1つの流れは、SFロボットアニメの突飛さをあえて逆手にとり、腐女子的な暴走ノリを表す手段として借用する流れだ。ちょうど「コードギアス」がそれをやって大いに受けたし、近々放送される銀河美少年のやつもおそらくその形だと思う。「ガンダム00」?あれは本来やるべきワクワクするような未来世界を提示できずに単純な現代の延長でお茶を濁した失敗作であり、SFアニメの屈服だ。

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