法律で禁止はもうされてるだろ
ようするに、外で他人と遊ぶことをしないで、コミュニケーション能力が育たないで、
だから、恋愛でもコミュニケーションはとれないし、挑戦してうまくいかないとすぐ諦めちゃう。
あー、そういうことか。
がてんがいった。
もう見ていないかもしれないけれども、何十年も前に大学で合唱をやっていたおっさんとして書いておこうかと思う。
ぼくは元増田よりも遥かに音楽に疎いのに合唱を始めてしまった。高校での選択は美術だったし、合唱団に入った時点では音符の読み方すら怪しかった。
それでも4年間続けたのは、合唱団の技術志向が弱かったことに加えて、大学での人間関係の中心が合唱団になってしまったからだ。さすがに音符は読めるようにはなったものの、音感とリズム感が悪いままでも引退まで居座ってしまった。
とはいえ、さすがに居心地が悪くなった時期はあった。技術的にはお話にならないレベルなので、運営のほうに回ろうとしたのだが、人間関係をこじらせてしまい、結局は平団員として4年間を過ごした。技術もない、人間関係も良くないということになれば、さすがにこのまま合唱団に居続けてよいものか悩むことになる。後輩からすれば、存在価値のない先輩という位置づけになっていたかもしれない。
なので、元増田の
辞めたらサークルの人達には何と思われるのだろう。あいつらは口では「いなくなってさびしい」などと言うのだろうが、本心ではきっと「お前みたいなやる気のない奴はさっさと辞めてくれ」と思うに違いない。少なくとも俺の本心を知られたらそうなることには間違いない。友達を失うのは怖い。なんで上手くなる義務があるんだ。俺は歌うのが好きなだけなのに。
という心情はわからないでもない。ぼくも「自分なんてサークルからいなくなったほうが、みんなが喜ぶに違いない」「自分は合唱団にとっての癌だ」とかよく思っていた。
けれども、おっさんになって思うことは、それはそれで自意識過剰だったということだ。周囲の人は元増田がいようが、いなくなろうがたいして気にしない(と思う)。企業のような営利組織であれば話は別だが、大学のサークルで「いなくなってほしい」と思われるためには憎悪の対象にまで上り詰めなくてはならない。そこまで至っていないのなら「いても、いなくても構わない」だろうし、ステージのチケット負担などを考えれば「いてくれたほうが助かる」というのが本音に近いところだろう。
あと一つ言えば、元増田は合唱団をやめる必要はないが、どこか別のところに居場所をつくったほうがいい。合唱団にしか居場所がないから、なんとかしてそれにすがりつこうとする。だが、その必死さがかえって合唱団に居続けることを難しくしてしまう。ぼくの場合には大学のゼミだった。ゼミでも大して馴染めていたわけではないが、ゼミが駄目ならサークルが、サークルが駄目ならゼミがあると思えるだけで、ずいぶんと心理的に楽になる。そうなれば、合唱団の友人たちとも余裕をもって付き合えるようになるのではないかと思う。
もちろん、元増田の状況はぼくの状況とは違うかもしれないが、もうちょっと気楽に考えて良いと思う。良くも悪くも、周囲の人間は元増田のことをそこまで気にかけて生きているわけではない。
オチをつくってわざわざ投稿する増田フィクション大賞ねらい(そんなものはない)、おつかれさまです。
「つけまつげが鏡の裏におちてもみつからないくらい乱雑」くらいにしかリアリティかんじられないです。
同じネタで3万字ねばってみましょう。
インターネット黎明期に学生だった自分は、試行錯誤を繰り返し、時には取り返しの付かない失敗をしでかし、泣く泣くOS再セットアップしてノウハウを得たものだ。
そんな時代に比べれば今は恵まれすぎるほどに情報が溢れている。たとえば書店にはパソコンのハウツー本が山のように溢れている。何か一冊でも買って通読するくらいの時間は捻出できるはず。
本当にパソコンを使いこなしたいと考えている人はならば、私に頼る前にとっくに行動を起こしていて、今頃はもう一通りの操作を習得している。それをせずに私に頼ろうとしている時点で、それは学びたいのではなく、召使いを欲しているに過ぎない。
まあこういう間接的な説得の仕方はどうかと思うけど、http://anond.hatelabo.jp/20150627123755が言うように、
沖縄タイムス・琉球新報は「百田氏への抗議」では無く、「公人で有り勉強会を主催した自民党国会議員への抗議である」体裁を整えてんだよね。
「合理性」という概念について誤解してるらしきブコメがいくつかあるので追記。
合理性は個人の感情や欲求と相反するものではなく、むしろそれを前提にしている。「なぜそうするのか、そうあるべきなのか」という問いに対して、最終的に「自分の感情や目的がしかじかだから」と答えることはまったく合理的だ。合理性にもとづけば、前提(欲求)がちがえばちがう帰結(どうあるべきか)が出てくるのは当然である。だからこそ、お互い求めるものがちがいますね、じゃあどうしましょうねという話ができる。
たとえば、伝統を大事にしたい人が「伝統に即さないものを見ると自分の感情を害されるから、伝統を大事にすべきだ」と主張するのはまったく合理的だし正当なものでもある。リベラルな立場からすれば、それを認めたうえで、その個人的な欲求が、ほかの人の欲求と照らし合わせたときに押し通すことができるものなのかどうかという話になる。
しかし、保守的な思考をする人は、そういうしかたで自分の主張の理由づけをしない。端的に「これが現状だから」「過去こうだったから」という説明しかしない。それではリベラルは納得しないが、保守はむしろそれで納得するのだろうという話。
あとついでにいうと、現代の日本(のネット)において「保守/リベラル」「右翼/左翼」とラベリングされているものには関心がない。もっと根本的なレベルでの考えかたのちがいの話をしている。そして、そのちがいは、従来「保守」と「リベラル」と呼ばれてきた政治的対立の根底にあるものだろうと。
「保守/リベラル」というラベルは、たとえば幕末期の「尊王/佐幕」とか「攘夷/開国」と同じように、多様な対立軸をごっちゃにしたかたちでつかわれていて、もはや有意味な内容をもっていないかもしれない。その意味で、このラベルを持ち出したのは失敗だったかもしれない。たぶんノーランチャートのような2軸4象限あるタイプのスペクトラムを持ち出したほうがよかった。
女子高に通っていたんだけど、高校3年生の春くらいまで、殆どクラス替えとかもないのに、クラスになじめなかった。いじめられていたわけじゃないんだけど、シャイでなかなか皆の輪の中に入れなかったんだよね。でも、クラスメイトは皆おもしろい話をしてて、私も皆ともっと仲良くなれればいいな、私もおもしろい話したいな、とずっとモヤモヤ悩んでいた。
そんなさなか、おばあちゃんに誘われて、地元の温泉に行った。地元ではかなり有名な温泉で、利用客も多い。ゆとりっ子の私は、慣れていないのであんまり温泉とか好きじゃなかったんだけど、大好きなおばあちゃんの誘いだったので行った。行った日は土曜日で、人が多かった。マイペースのマイグランマはさっさと脱いで先に身体を洗いに行ってしまって、裸眼0.05以下の私は危ないからゆっくり段差に気をつけながら温泉に入って歩いていた。
そしたら、「良いお尻してるねー!!」っていきなり、知らないおばちゃんに後ろからパァン!って尻を叩かれたんだよ。パァン!って。結構な勢いで。軽快な音が温泉に響き渡った。当たり前だけどびっくりした。お尻を叩いたおばちゃんを振りかえると、おばちゃんがすごくびっくりした顔をしていた。目をこらしてみたけれど、やっぱり普通に知らない人だ。多分、知り合いか誰かと勘違いしたんだろう。私も再度びっくりした。「あっ…すみません…」っておばちゃんがぎこちなくモニョモニョ言って、私も「あ、いえ、すみませ…」て何故か謝った。それから何度かヘコヘコお辞儀をしながら別れたけど、今思ってもかなり気まずい雰囲気だった。お尻がひりひりした。
その話を、何気なく学校ですると、何故かすごいウケた。大人しい私がそんな話をするから、ギャップでおもしろかったんだろう。そしたら、クラスメイトが集まってきて、あっという間に私の「良い尻」エピソードが広まった。そしたら、「◎◎ちゃん(私)のお尻、前からいいって思ってたんだよね」って言う子があらわれて、ますます私の(お尻の)株が上がった。その頃は隣町から自転車で高校に通っていて、毎日15kmくらい自転車で走っていたから、お尻がひきしまっていたんだ。それはともかく、そんなこんなでその一件から本当に笑いの絶えない高校生活になった。一年間くらい、お尻揉まれまくったけど。でも、本当にあの時お尻叩かれてよかったなぁ。あの時のおばちゃん、ありがとう。きっかけって大事だね。
えーっと、表現の自由の話ではないことは何度か言ってると思うんですけど…
字が汚くて読めませんって素直に言おう