2015-06-27

保守リベラル

保守リベラルかという政治的立場のちがいは、人付き合いとかコミュニケーションのしかたみたいな日常的な生活態度のなかにすでにはっきりあらわれているもので、溝が深いなと思う。

職場飲み会の意義を全否定しつつも、それが当の社会慣行だとか常識だとか和が重要だとか権力をもつ側が要求しているとかい理由で、その飲み会に参加したり参加を促したりする友人がいる。

わたしは、現状の慣行がそうであるということそれ自体はまったく理由にならないと思うし、メリット個人的ものであれ集団的ものであれ)がないなら積極的になくす方向で動くべきだろうと思うが、わたしが友人の考えに納得できないのと同じ程度に、友人もわたしの考えに納得しないのだろう。

わたしはある主張や行動に対して合理性を求めて「なぜそうなのか」と聞くが、友人は主張や行動に対して端的に既存慣行規範権力との整合性を求める。

おそらく、リベラル保守の対立の根底にはこの態度のちがいがある。

実際、わたしはおおよそのことについてリベラルを自認し、友人はおおよそのことについて保守を自認している。

いずれの態度が正しいかということは、その「正しさ」の判定基準を双方の立場から独立に設定しないかぎりは言えないが、これは難しいかもしれない。

結局のところ、両者のちがいは、考えや行為原理としてどちらがより納得できるか、あるいは安心できるか、という心情のちがいでしかないかもしれない。

わたしは、ものごとが個々人の欲求や目的合理的に適っていることに心底安心する。

そして、互いの利害が対立するなら、それを明らかにしたうえで調整する(あるいはけんかする)というのが納得できる社会のありかただと思っている。

一方、友人が安心するのは、ものごとが、個々人の目的利益などとは関係なく、現行の慣習や規範に一致していることなのだろう。

それが友人にとって社会世界調和した姿なのだろう。

わたしと友人にできるのは、せいぜい、けんかすること、互いにかかわらないようにすること、対立が表面化しないようにごまかすこと、といったことだけかもしれない。

せめて、ものごとのありかたに対する根本的な心情のレベルでちがうということにお互い同意したうえで、そのうえでどういうつあいかたができるのか(あるいはできないのか)を話せるような、メタレベルコミュニケーションができるといいのだが。

  • 言っていることが抽象的すぎてさっぱりわからん。 そして、話を抽象的にして逃げようという人間の方が大部分だと思うよ。あなたもその一人。私もリアルではその一人。

  • 自分は合理的な思考の持ち主で、相手はそうではないと決めつけてるあたりからして保守ど真ん中だと思うんだが

  • 日本でリベラルを自称している奴等は節操が無さ過ぎて本来リベラルで落ち着くはずのまともな人達は皆離れてゆく。 結果沈殿濃縮された「日本のリベラル」という澱が異臭を放つのだ...

  • 性格や性向の違いで政治的立場が規定される、っていうのはある程度あるらしいね。

  • 脳の認知スタイルがリベラル/保守といった信条に影響している可能性 http://science.srad.jp/story/13/02/21/0948254/ …という話もある。認知構造が違う=そもそも同じ「世界」を見ていない、と...

  • 「合理性」という概念について誤解してるらしきブコメがいくつかあるので追記。 合理性は個人の感情や欲求と相反するものではなく、むしろそれを前提にしている。「なぜそうするの...

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