ISILによる邦人誘拐の一報が出た時から、ネットやテレビでよく言われていたフレーズが、ずっと疑問だった。それは、「テロリストの要求に応じれば、更なるテロを招く」というものである。予め断るが、今回、政府が身代金を支払わなかったこと批判したい訳ではない。2億ドルを出さなかったのは間違いではない、と思っている。この疑問は、日本がテロリスト達とどう向き合えばいいのか、あるいは向き合わない(今回の日本の選択は後者だと思う)のか、という問題なのだ。
前述の主張の概要はこうだろう。「テロリストに身代金を渡した場合、新しい武器や、移動手段、その他の機器、また食料などを買う幅と量が広がる。それによって活動の範囲や攻撃力を増しテロが増える。また、日本は身代金を取れる国・要求に応じる国であると認識され、邦人の誘拐を誘発させる。だからテロリストとは交渉すべきでない」
この主張のうち前段部分は容易に理解できる。身代金の目的は活動資金の確保の訳だから当然だ。また、これをもって、「テロが増える」というのであれば疑いの余地はないし、身代金を支払わない理由には十分なりうる。これだけだったら疑問はない。(なので表題は正確ではない)
だが、後段の更なるテロを誘発するという部分が理解できない。理解できない理由は「要求に応じない国の人物は見逃されるだろうか。殺害されるだけではないだろうか。」ということである。つまり、「要求に応じない国」だからといって、テロなり暴力なりの対象から外れる訳ではないだろう。下手すれば、見せしめの生け贄要員にならないだろうか。暴力の対象から外れないのであれば、「更なる誘拐を招くから要求を受け付けない」という意見には「誘拐されるくらいなら殺される方がマシ」という下の句が付いてまわらないか。
人質にならずに単に殺害されるのであれば、悲劇は回避できていない。そうであるなら、私は賛成できない。やはり人命は最優先されるべきだ。「要求に応じる国」だろうが「要求に応じない国」だろうが悲劇は起きるのである。
だとすれば、先ほどの「身代金が活動資金になるから、更なるテロを招く」という点さえ解決できれば、要求に応じることは選択としてあながち間違いではないのではないか、と思うのだ。第1の声明の直後に、中田氏と常岡氏が外国特派員協会で「日本はイスラム国の支配地域に2億ドルの人道支援をすべき」「イスラム法に乗っ取ったイスラム法廷を開かせてはどうか」と主張した。また、私は当初、荒唐無稽だと思っていたが、よくよく考えてみると、ISILの暴力を促進しない範囲でお金拠出し、かつ、彼らが反論できない彼らのロジックによって言いくるめるというのは、そんなに悪いアイディアじゃないのかもしれない。いわゆる落としどころを探るということだ。果たして、政府はそうした交渉をISILとしたのだろうか。
テロリストと交渉をしない、という選択肢は、暴力には暴力で対峙するという決意と実際の能力が必要だ。そして、日本はその選択肢を取るべきではない。いま、テレビで盛んに言われている「世界で日本が”尊敬”されている」というのは、先の大戦で打ちのめされた先人達がその選択肢をとらなかったからこそ、得られた財産であると思う。暴力で対峙するのではなく、かたくなに要求に応じない、という訳ではなく、落としどころを見つけられる国家になれば、それこそ世界における日本のプレゼンスは向上し、”美しい国”になるのではないかと思うのだ。
自分の幼い頃、平仮名の書いてあるブロックを組み合わせて単語を作れる知育玩具が家にあったらしい。
「あんたはまだ文字も教えてなかったのに、そのブロックで『これが私の名前!』と自分の名前を並べてみせたので皆びっくりした」というのが、自分の幼少時を語る時のうちの母親の十八番だった。
実際小さい頃から本が大好きで、言葉は遅かったのに読み書きの上達はめっぽう早かったという。3つ年下の妹は逆に、読み書きはからっきしだが愛想が良くてぺらぺら喋るという対照的な育ち方をしていたようだ。
独りで勝手に文字を覚えられるわけも無いから、長い事「母親が見てない隙に父親が教えたんだろう」と勝手に思っていた。
子供にも育児にも全く無関心で、女遊びや散財に現を抜かした挙句家を出て行った父親がそんな事をするとも信じがたかったけれど、父方の祖父母は遠方、母方の祖父母は早世しており、他にあてが思いつかなかったので。
そうしたら最近、娘が35も過ぎた年になって、母の口から大変な新事実が明らかとなった。
曰く「(妹)が産まれた頃はお母さんも親戚や近所の皆も、産まれた赤ちゃん(妹)が可愛いんでついそっちばっかりちやほやしてたんだけど、一人だけそうじゃない人がいた。学校の先生をやってた女の人で『○○ちゃん(自分)は頭がいいね』と言って、あんたのことをとても可愛がってくれたんだよ」。
おいどう考えても平仮名教えてくれたのその人じゃねーか!! なんで気付かなかったんだよ!!!1
顔も悪けりゃ愛想も無い、運動音痴で頑固で、小さい頃からリア充だった妹が持っている可愛らしさのかけらもなかった自分には「本を読むのが大好きなので、自然と学校の勉強も得意になった」という唯一の取り柄があった。
奇跡的に生まれつき本が好きだったおかげで、辛うじて「なんにも取り柄のない駄目人間」であることを免れたのだろうと思っていた。
なんの事はない、その時の女先生に褒めてもらった事がきっとよっぽど嬉しかったのだろう。
もしも本が好きじゃなかったら、唯一の取り柄の勉強すら出来なくて、もっと酷い人生を送っていたんだろうと思う。
見た目の優れた姉妹がいて、日本神話のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの話を聞いたことがある喪女なら誰でも知っているような気持ちを、例外なく自分も抱えて生きて来た。
これで「お姉ちゃんは頭がいいね」「○○さんはいい子だね」と褒められる事すらなかったら、自分はとてもまともに生きて行かれたかどうか分からない。今頃心を病んだ引きこもりニートか何かになってとっくに野たれ死んでいたかも知れない。
なのに顔も名前も、そんな人がいた事すらさっぱり思い出せないなんて恩知らずな話だ。
時々「ジョジョの奇妙な冒険」の4部で幼い仗助を助けたリーゼントの学生みたいに、3歳の自分に日本語を教えたのは、実は未来からタイムスリップしてきた自分自身なんじゃないかとバカな妄想をする事がある(4部の学生の正体は結局不明のままだったんだけど)。
湯川氏と後藤氏なら「社会への貢献度」に差があるから扱いが違うのはまだ理解できる。
より理不尽なのは、湯川氏みたいなのでも「日本人」なら大きく報道されるが、中東では毎日毎日大勢の住民が命を落としているわけで、
服の上から見て取れる下着の凹凸が好きすぎるのだ。
とくにブラジャーの胸元の柄による凹凸が好きで、Yシャツとか身体のラインがわかる服を着ている女性を見ると必死になって凹凸を目で追ってしまう。
でもTシャツじゃだめなんだ。柄が透けたら全くおもしろみがなくなってしまうからな。
柄から生み出される繊細な凹凸が好きなんだよ。
凹凸のないスポーツ系のブラは最悪だ。せっかくの胸の膨らみからのっぺらぼうみたく表情を奪ってしまっている。
なにより許せないのは某大手アパレルのブラトップとかいう商品だ。何なのだ。そのままでもつるっつるだし、シャツの下になんか着られた日には生クリームのないショートケーキみたく貧相ではないか。
着衣巨乳とか言っておいてノーブラなのも許せない。チクビなんて品がないものを透かされて誰が喜ぶというのだ。
貧乳でも構わないのだ。素敵なブラジャーを身にまとってそれが織りなす神秘的な凹凸を服に写しだしてくれさえすれば。
この間なんかすれ違いざまに露骨に胸を上着でぱっと隠される事件があった。
言ってやりたいね。アホかと。お前の胸なんて興味ねーよと。俺が見てたのはその胸を包んでくださってる下着様が織りなすであろう芸術的な陰影だよと。
もうほんと一日中見てられる自信があるよ。誰か分かってくれねーかな。
知人と話していて末子相続の話になって
チンギスハーンとかジョチとか言いたかったのに
英語でなんて言えばいいか分からないから話したくても出来ない事が多い
みんなこう言う時どうしてんの?
http://d.hatena.ne.jp/REV/20090810/p1
これ読んでて思い出したけど、自分は昔すごく本を大事にしていた。漫画から小説まで古本で買った本もすごく大事にしてた。本が好きだったから、本は大事に扱うもので、本は自分の知識の宝庫で、楽しみの象徴だったから。友人に貸した本にポテトチップスが挟まっていて、汚されて帰ってきた時はかなり怒ったこともあった。
子供のころはおこづかいは漫画と小説につぎ込み、図書館に通い、大人になってからはハードカバーの本を買って…幸せだなあ!って思っていた。
子供を産んで、子供がちいさいころに、ゲートをうまく越えたのか、いつもは入れなくしていた部屋の本をぐちゃぐちゃにしてたことがあった。すごく大事にしていた一群の本。一瞬かなりカッと来たけど、まあ、そんなのしまってない自分が悪いのはわかった。本より大事なのは、息子。当然である。
でもそれからは、本をあまり大事にしなくなってしまった気がする。本を買う分も減った。単に子育てや生活が忙しいからかもしれない。
でも、本がぐちゃぐちゃでカバーが全て外されていて、そしてその光景と、赤ん坊に怒りかけた自分を思い出すと、あの本に対する純粋な熱情みたいなのは、自分やいろんなことに良くないような気持ちになるし、そういう自分もいやになる。気持ちにけちがついてしまったような。子供のころの熱情を思い出して余計に悲しいなら、もう大事にするのはやめたい、みたいな。混じりけが無いような感動にけちがついてしまったら反動でもうどうでもいいやーってなったのかもしれない。
という息子がもう中学生になった。一緒に絵本を読むこともあったし、図書館にもいった。だんだん本を読むことが復活していった。今は私が昔読んだ本を息子が読んでいたりする。昔のような気持ちではないけど、本を読むこともまた増えた。私が昔読んでいたラノベの作者の本を息子が読んでいた。
本を集めはしなくなったけど、読むことは今でもやはりすばらしい。たのしい。