むしろ田舎は共働きなのかもしれないが、東京だと見てる限り意外とすぐ専業主婦になっちゃうケースが多い。
子供産んで復職〜とかいいつつなんだかんだでそのまま主婦化するのは凄く多いけど、それ以外にもちょっとしたきっかけで仕事辞めて主婦になってる。
妻に同じことをされていたとしても許せるならまぁそういうやつなんだろうなって思うけど
価値観が違うんだし別れたら
傷つけたのはそっちなんだし
そこら辺は多分、仏教の主流概念である因果と無我を説く際に邪魔になるんで語らなかったんだと思う
仏教はバラモン教と対峙するために自我を否定して純粋に因果関係だけで世界を説明しようとしたんだけど、
そこを突き詰めると世界は初期パラメータで決められたとおりにしか未来に遷移しないということになり、「じゃあ初期パラメータは誰がどうやって決めたんだよ」って話になる
「その問題を考えても苦しみから逃れられないよ?それはお前の目的なの?」みたいなことを言った。
というのが俺の理解。
この傾向は中国哲学でも同様で、諸子百家でも無神論の儒家は「怪力乱神を語らず」みたいに言って避けようとしてる
有神論で一神教の墨家はそうでもなかったんだけど、こいつらが生き残っていたらきっと今の西洋哲学みたいに発展していったんだろうなー。
追悼文というものは理解できるけれど、訃報が告げられるといきなり猫も杓子も追悼コメントやツイートを流す行為が理解できない。
そう思うことに対しては自分でもどうかと思う。
本当に死んだんだろうか?死ぬってなんなんだろうか?
死ぬまでは静かだと言うのに人が死ぬたびに騒いでいる。正しい反応なんだろうが、死んだということが理解できないというか、よく分からない。
人間誰だって死ぬだろ。ショックを受けれない自分がどうかと思ってしばしば考え込む。
そりゃ知人や友人が死んだら追悼はするだろうが、有名人はこちらなんて全く知らない。
自分はそこまでファンでないのだが、他のファンでは無いけれど作品を見たことがあるくらいであろう人たちが騒いでいるのが気に入らないんだろうか。
ショックを受けられない。祖父は高校生の頃に死んだが、まだべつに死んだという概念が薄い。
そんなに死って山みたいなものなの。大きな山のてっぺんで泣いたら終わりで人区切りつくのか。
タイトル通り。
婚約中にほかの女の子に告白していたことがバレた。浮気相手とのメールのバックアップを嫁が見つけた。
共用パソコンに保存していたのがマズかった。
自分では見つからないところに保存していたつもりだが、嫁(元プログラマー)からしたらテーブルの上に堂々と置いてあるような状態だったらしい。
けど、好きとか愛してるとか送ったメールは嫁に見られた。デート楽しかったね、といった内容のメールも見られた。
嫁が怒ったり泣いたり、発狂したり放心したりしている。
浮気相手とは今はまったく連絡をとっていない。
元から浮気は結婚するまでと決めていた。結婚してからは浮気をしない、と決めていたからこそ、遊びたかった。よい思いをしたかった。
嫁にいくら説明しても理解してもらえない。体の関係は一切ない、と言っても信じてもらえない。
嫁が憔悴していくのが辛い。突然怒り出すのが怖い。離婚を切り出されたらどうしようか、と不安でたまらない。
嫁は思い込みが激しいところがあって、嫁の中では、俺は本当は浮気相手と一緒になりたかったのに、嫁と婚約してしまっていたから仕方なしに結婚した、って解釈になってる。
そうじゃない、結婚するなら嫁しか考えてなかった。浮気しているときも、一生を添い遂げるのは嫁しかいない、と心に決めていた、といくら説明しても聞いてもらえない。つらい。
ジャニーズはなぜ一定のレベルまで売れると、変な曲を歌わなくなるのか。
Smap、キックベースやってた頃あたりまでは、ちょっと耳に引っかかるようなメロディ、ちょっと変な歌詞の歌を歌っていたと思うんだが
せーかいーにひーとつー、みたいな曲の後は、インパクトがないというか。記憶に残らないというか。
あおいいなーずまーが、ぼーくをせーめーる、ゲッチュ!とか、そういうさぁ、ゲッチュー的な要素はどこに置いてきたんだよ。
このところは嵐。嵐も、ちょっと前までもっと変なの歌ってたろ、木更津キャッツのあたりぐらいまで。
最近はどうも「ええ歌」系になってきてるんじゃないか。もともと大して興味もないから区別がつかん。耳が滑るねん。
と、ここまで思い起こしてみたものの、ジャニーズに限らずアイドル歌謡は全体的にそういう傾向あるよな。なんでだ?
ずっと、ちょっと変な曲で行ってほしいんだが。
そのうち、パヒュームとかももくろとやらとかも、耳滑りするええ歌とか歌いだすんかなぁ。
ジャニーズだと、今分岐点なのは関西の子たちのグループとか。もっと売れたら、今のまま色もん路線ではどうせ行かないんだろうな。
今共働きが主流なんで、奥さんだけが一方的に予算を管理、ってことにはならなさそう
よくあるのは共同の口座にふたりとも入れて、小遣いは二人の了解をとらずに自由に使える金として別管理する形。
共同口座から家賃やら食費やら服飾費床屋代その他全部出るんで、
正直小遣い使う場面は外食と飲み代くらい。大した苦労はしない。
釈迦はいくつかの物事を無記としました。無記とは議論するべきでない、考えてもしょうがない物事を指します。
生命と身体は同一か
生命と身体は別個か
修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
ではなぜ、釈迦はこれらを「考えても仕方のないこと」としたのでしょうか。これについて私見を述べたいと思います。
まず第一に、釈迦は決して「信仰」を求めませんでした。信仰ではなく、「実践」を求めました。
何を実践するのかというと、八正道というものです。また、悪いことをやめ、良いことをすることです。
釈迦は、なぜそれらをしなければいけないのかを、体系だった哲学によって、論理的に説明しました。
厳密に数学的な論理的ではないですが、哲学として筋の通ったものでしたし、個々人が実践によって結果を体感することができました。
ここに、輪廻転生や宇宙の構造について無記とした理由があると私は考えます。
その理由とは、輪廻転生や宇宙の構造は釈迦が悟りを開いてから超人的な力で知ったものであって、
悟りを開いていない一般の人々には「体感」することが不可能であることです。よって、実践によって「一般の人が」体感することができないもの、これは釈迦の言うことを信仰する以外にないのです。
輪廻転生については、釈迦が超人的な力で知ったものであって、論理的に導き出せるものでもなく、科学的な観察によっても前世を知ることはできません。
いまでこそ超ひも理論などの宇宙の構造について多少は知ることができていますが、完璧に知ることは未だできていませんし、完璧な宇宙の構造を一般人が身をもって知る、体感するということは不可能でしょう。一部の天才物理学者は数学や実験を通して理解できるかもしれませんが、それ以外の人達はやはり間接的にしか知ることはできません。
体感できない、観察できないのだとしたら、釈迦の言うことを盲目的に信じるしかありません。しかし、釈迦は「盲目的に信じる」という態度を否定していました。
だから、どうあがいても一般の悟りを開いていない人たちには知りようがない、体感しようがないことは「無記」としたのだと思います。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.47news.jp/CN/201501/CN2015011601001306.html
教育委員会だったら
文部科学大臣だったら
総理大臣だったら
天皇だったら
どう答え、どう行動し
どう批判されただろうか
凄い頭の悪さが滲み出てるなこいつ
凄い頭の悪さが滲み出てるなこいつ
親や親戚が経済破綻してまともに生活できなくなってるのに比べたら遥かにマシ
バカが余計な事が考えるなよ
勤務時間はサービス残業などないですが、精神的に非常につらいです。
お客様がいない時は暖房費節約してるのですが、自分のいる場所は死ぬほど寒いのに、家族は事務所でこたつに入ってテレビ見たり、昼寝したりお茶したりしていて、まず理不尽だと思い意欲がなくなりました。
仕事で不明点があって聞けば「あーもういい!私がやるから!!」と怒鳴られます。何が嫌だってとにかくこの家族(上司)にいちいちでかい声で言われるのが嫌です。素直に質問して学ぶことにビクビクして、笑顔でいることもできなくなってきました。
この人たちの思い通りに動ければ何もないのかもしれないけど、それが自分にはできないです。日によって怒鳴る基準も違うので。
このくらいで死にたいなどと、甘いことはわかっていますが、死にたいのには変わりないです。どうして自分のような人間が生まれたのだろうと思います。
そこでは今思えば同じ人間とは思えないほど評価されていました。だからなのか、意欲的に仕事をしていたし、楽しかったです。今は自分が無価値としか思えないです。
前にいた職場がたまたま甘くて、生きてこれたのかわからないけど、たとえ辞めたとしても、自分は社会人として生きていくことなどできない欠陥品なのだろうから、今のままいることも、転職する希望もなく、楽しみも支えも何もないのでどっちにしろ死にたいという考えに及んでしまいます。
死にたいと言いながら怖くて死ねないんです。本当はまた前みたいに楽しく仕事したいんだと思います。
家族経営を抜け出して命を絶たずに済んだ人、自分を無価値だと思ってたけど、ちゃんと働けたって人
いたら教えて下さい。甘くてごめんなさい。