2年前は、月収10万円だった。
スーパーで買う「鳥胸肉1キロ380円」がメインのタンパク源で、
飲みに行くなんて自殺行為。
出かけると「モノ」が欲しくなって精神衛生上良くないので、
その頃、少ない友達たちの誘いを全て断り、
家の中でPCに向かってひたすら作業をしていた。
悶々とした感情を抱えながら、カーテンを締めきった部屋の中で、
「負けねえ、負けねえ」そう呟いていた。
嬉しいのは嬉しいのだが、更に外に出れなくなった。
1日中部屋の中で液晶タブレットに向かい、イラストを描く日々。
複数社の依頼を請け負ってしまい、締め切りに遅れた時はクライアントから怒りの電話が鳴り響く。
怒りのメールが複数の会社から来たときは布団から出れなくなった。
そしてわずかに残った友人の誘いをひたすら断り続け、
「今なんだ。今は仕事以外は捨てるんだ。俺は今、仕事をしなくてどうする!」と自分自身を追い込み、
親しい友人とは誰とも会うこともなく、顔を見たこともないメールの向こうのクライアントへ向け、絵を描きまくった。
まだ全ては入金されていないが、年収100万程度だったのが1000万規模になった。
ようやく終わった。だが、異様にむなしい。
友だち何人かにメールをしたが、そのうち2人もアドレスが変わっていた。
1人会って軽くメシを食べたのだが、何かうまく会話ができなかった。
それ以上の薄い関係だった連中には、もはや数年ぶりにメールを送る度胸がない。
カネは入った。
カネが願いだったのか? 俺はカネの為だけに頑張っていたのか。
稼いだカネをどうやって使ったらいいかわからなかった。
一緒に稼いだ事を祝って焼き肉を食べる仲間たちがいなかった。
だから、俺は学生の頃にように松屋へ行き、ひとりで牛丼を食べた。
年収1000万。だがむなしい。次回の確定申告で4割近く取られるだろう。
今は仕事が切れ目の時で、これから仕事が続くかわからなすぎて不安だ。
日本は否定しているというか、
取り合っていないし、そういう問題を抱えてる人が
表面に出てきていない。それについて考える人も少ない。
たぶん否定はしていないが、問題意識を持っていない。
見たところ、日本ではそういう人は少なそうに見えるが、
そんな人いないように見えるが実際にはそういう人は結構いると思う。
頭良い親の下に産まれただけで超上澄みなので、それ以上望むのはあまりにも贅沢。
孤独であることはかならずしも寂しさを意味しないと気づいて、20代も終わりに近づいた今になって、やっと肩の荷がおりたような気がしている。
家庭での教育が厳格で、何でもひとりでできるようになることと、礼儀正しく振る舞い人に迷惑をかけないことを、幼いころから叩き込まれた。義務教育時代には、相互依存的で「がさつな」周りの子たちとなじめず、いつも浮いていた。ひとりでいる時間がもっとも心休まるときになり、人間関係にわずらされるくらいなら自分だけの力で問題を解決したいと努力した。この頃にはすでに、人と親密な感情を通わせることがどことなく怖いと感じるようになっていた。
大学や会社でも基本的な姿勢は変わらず、多くの場合は、仕事をきちんと機能させるための人間関係であって、人間関係それ自体を目的とすることはそれほど多くない。人間関係において、ふと気づくと私は観察する立場におり、親密な輪からは外れている。数人の親友やかつての恋人を除いて、世間一般に言うような友達はあまりいない。
最近まで、私は自分のこうした孤独に罪悪感を抱いていた。親密な友達や恋人がいないことは悪いことで、孤独であることは寂しいことで、私が人間的に欠陥をもっているためだとか、性格が悪いためだとか、そうしたことを心の底のどこかで考えていた。
それが、近頃になってやっと、孤独であることを私自身が肯定できるようになった。多くの人と親密な関係を持たなくても、私の場合は心身ともに健康に生きていけるし、ひとりの時間もわりと楽しく過ごせていることに気がついた。すこし前までは、ひとりでいることを寂しい寂しいと感じていたけれど、よく分析してみると、その思いは「孤独であることは寂しいことだ」という世間一般的な言説を内面化していただけだった。さみしいからといってにぎやかな場所に出ていったところで、気疲れして却ってストレスをためてしまうことは、自分がいちばんよく知っていた。
孤独と言っても無人島にひとりで取り残されたような完全な孤独ではないし、大なり小なり同じように孤独を大事にしている人と、たまにふと思い出したように逢って静かに話をすることで、さみしさのほうは消すことができる。
私はもう孤独を恐れないし、寂しさに支配されることも望まない。
同姓婚を認めても誰も傷つかないよ。
でも、キモイと思う人もいる。
そういう人から同姓婚をしている人は嫌われることになるわけだが、
そうかもしれない。
合理化することで利益をうむようなことが仕事なので、理不尽を受け入れる性格になってたら発想が無理なのかもしれない。
自分はもうすぐ30歳なのであと30年は働かないといけない。
そして、誰かに言われるままに犯人かどうかも分からない人間を取り押さえて
あまつさえ逮捕能力がないにも拘らず勝手に拘束して探偵を気取ってみせるその姿勢は
それなのにこの世の中は勧善懲悪でまかり通っている。
しかしながら、その勧善懲悪主義も真実が根底になく、あくまで自らをアピールする場と化しており
そして警察や鉄道警備隊、駅員の仕事さえも奪いかねないのである。
冤罪事件の多くは、そうした身勝手な信条で以って犯人かどうかも事前に見ない歪んだ正義感出しまくってる
勘違い野郎の責任であり、本来当事者同士に公的な立場の第三者の仲裁によって事件解決に向かっていくはずが
ただ、どこまでこの勘違い野郎の介入が許されるべきか法律上定まっていない事が甚だ冤罪被害者にとって悲劇といえよう。
痴漢被害者などが「この人、痴漢です!」と叫んだ瞬間から冤罪の可能性が孕んでいるにも拘らず
己が信条に揺り動かされた自称正義漢が悪を倒すヒーロー物に憧れて目の前の悪を防ぐ事について、一瞬でもいいので
考えて欲しい。
本当にそいつが犯人なのか瞬間的にでもいいのでよく調べてみることだ。
冤罪被害者にとって悲劇なのは痴漢被害者などがあくまで主観でしか判断できないという点を以って警察など司法は有罪に持っていくのだから、
為す術がない、いわゆる弱者的立場なのだという事をよく考えて行動して欲しいのである。
もしも本当に冤罪だった場合、この勘違い野郎は果たして自らの行動に反省するだろうか。
いやしないだろう。
何故なら正義感を持った殆どの勘違い野郎は、それが勘違いである事にさえ気付かない夢見がちな少年の心を持った甘い奴なのだ。
だから、
「自分が存在するのに必要なものなどない」のだという考えなら、
生まれ変わりガ存在すると思えば持つことができる。
死んでも生まれ変わると思っていれば、
こういう考えを否定する、拒絶感を感じる人は多いが、
幸せを感じるにはあったほうがいい考えだよ。
すっごいマラソンなんだよね。公務員で底辺みたいなやつが10年後王様みたいなのになってるんだよな。ああ、でもそうなる才能がない。悲しい。
おもしろそうな本だね。
直感だと、
衰退→愛知県を中心とする東海地方(トヨタを含む自動車産業の低迷)
人が、人の自然の食欲に文句付けんじゃねえよなあ。
日本社会の押し付けてくる価値観に合う合わないはある訳で、それにどう対応できるかで幸せ/不幸せが決まる。
幸せな人
①何も考えずただ生きてる人たち
不幸せな人
④日本社会が押し付けてくる価値観に合わないのに、それが絶対だと信じきってる人たち
⑤日本社会が押し付けてくる価値観に合わず、他の価値観があることも分かってはいるが、ついつい前者を優先しちゃう人たち
こんなイミッジ。あなたはどれですか?
みんな仲良くしようよー
周りについていけてると思ったら、