孤独であることはかならずしも寂しさを意味しないと気づいて、20代も終わりに近づいた今になって、やっと肩の荷がおりたような気がしている。
家庭での教育が厳格で、何でもひとりでできるようになることと、礼儀正しく振る舞い人に迷惑をかけないことを、幼いころから叩き込まれた。義務教育時代には、相互依存的で「がさつな」周りの子たちとなじめず、いつも浮いていた。ひとりでいる時間がもっとも心休まるときになり、人間関係にわずらされるくらいなら自分だけの力で問題を解決したいと努力した。この頃にはすでに、人と親密な感情を通わせることがどことなく怖いと感じるようになっていた。
大学や会社でも基本的な姿勢は変わらず、多くの場合は、仕事をきちんと機能させるための人間関係であって、人間関係それ自体を目的とすることはそれほど多くない。人間関係において、ふと気づくと私は観察する立場におり、親密な輪からは外れている。数人の親友やかつての恋人を除いて、世間一般に言うような友達はあまりいない。
最近まで、私は自分のこうした孤独に罪悪感を抱いていた。親密な友達や恋人がいないことは悪いことで、孤独であることは寂しいことで、私が人間的に欠陥をもっているためだとか、性格が悪いためだとか、そうしたことを心の底のどこかで考えていた。
それが、近頃になってやっと、孤独であることを私自身が肯定できるようになった。多くの人と親密な関係を持たなくても、私の場合は心身ともに健康に生きていけるし、ひとりの時間もわりと楽しく過ごせていることに気がついた。すこし前までは、ひとりでいることを寂しい寂しいと感じていたけれど、よく分析してみると、その思いは「孤独であることは寂しいことだ」という世間一般的な言説を内面化していただけだった。さみしいからといってにぎやかな場所に出ていったところで、気疲れして却ってストレスをためてしまうことは、自分がいちばんよく知っていた。
孤独と言っても無人島にひとりで取り残されたような完全な孤独ではないし、大なり小なり同じように孤独を大事にしている人と、たまにふと思い出したように逢って静かに話をすることで、さみしさのほうは消すことができる。
私はもう孤独を恐れないし、寂しさに支配されることも望まない。