話題になったのは左手に「飼っていた猫」の刺青を入れた女性だ。
彼女は単純なレーザー除去では対処できない刺青の痕を、皮膚を切り取り、周囲の皮膚を縫い合わせる切除術で消す事にしたそうだ。
この話題が紹介されたサイトでは、日本での刺青は「下劣な犯罪者」の烙印を押されるのと、同じだと事だと紹介されていた。
■野蛮だぜ。
■文化が違いすぎる。
■ここの住人の大半もイレズミ持ちだろ
■持ってるよ。持ってない奴は少数派だ。
■日本もそのうち気づくよ。
欧州における犯罪事情に対する予備知識も、犯罪に対する心の持ち方も知らない子供が差別者になって日本に帰ってきたあげく、他人に差別感情を吹きこもうとしているのはほっとけないので、ロマについて書き込んでおこう。
欧州の観光地にはロマと称されるスリがどこにでもいるのは間違いない。これは本当に常識だ。しかし他人に差別感情を垂れ流す前に、スリのことをヨーロッパではロマだからスリなのだいう形で差別を発露させていることをもっと知るべきだ。
芸術的なまでに練り上げられた集団プレーに対策は限られていて、実際のところロマっぽい人に注意していたらスられないかというのはない。観光地の人ごみという環境はスリの現場であり、注意して行き取られないようにし、多少取られても困らないようにリスクを分散し、取られたら運が悪かったのだと警察に行く。我々にできるのこれだけである。むしろ件の増田くんはロマっぽい人に注意をすればいいと思っている分、いい鴨のままだ。典型的なスリの手口である、ロマを追っ払ってくれる親切な奴が実はスリの一味、に一番引っかかるタイプ。某知人の言によれば、スリ型採集民にとってたわわに実った果実である。
さて差別言説としてあの記事の問題点はロマが何か全くわかっていないまま、憎らしいスリのエスニシティがロマなら、ロマに対する欧州人の自己中心的な偏見を大量に引っさげて事実と違うロマ像を練りあげてしまったことだろう。
定住をしており、一般のヨーロッパ人とそう対して変わらないロマもいくらでもおり、通常の労働者として働いている人々もいれば、そうでもない人がいる。キリスト教に改宗している人もいるし、そうでない人もいる。多様性のある個人の集まりなのだ。スリに対してロマと名付けるという行為についての想像力の欠如。もし、レイプ被害者がレイプ魔のことをその加害者のエスニシティでxx人と名付けても差別じゃないと考えるのなら世界は平和だな。
欧州人のロマに対するイメージは一般に悪いが、ロマが悪いからというより、ロマを都合のいい蔑視対象にしているからである。レイプ魔や誘拐犯が友人や親族に多いからと言って、友人を作らず親族を避ける人はいないが、前世紀につくられたゲットーに住むロマや遊動民(というより季節労働者であるが)に悪名をつけるのは簡単な話だ。ヨーロッパ人が誰も犯人を見ていないにも関わらず、ロマの少女(老婆、男...)の犯行である、ロマらしき人を見たと犯行を推測する逸話は、ロマ研究ではありふれている。
そもそも職業訓練の中身なんてたかが知れてるんだから、訓練してもしなくても無職ニートは採用しないよ。
キミらが採用される頃には日本は戦争中か滅んだ後かのどちらか。
余り物なら余り物らしくとっとと燃焼されて消えろよ。
きっと人間は、
人との中でしか生きられないんだろうなと、
年をとるたびに実感として思う。
でも
自分は他人との距離のとり方が極端に下手だなと感じる。
卑屈な考えが染み付いていて、異様にへりくだってしまったりする。
激しい円形脱毛症になってから、友人に会わず仕事だけして半年くらい。
毎日穏やかでいいなと思う。
無理しちゃだめなんだ。
いままで背伸びしていたんだろうな。
生きていけるだろうか
WEBデザイナーになるぞ〜
日々、知識がどんどん身についていく感じがすごく楽しい。
趣味でイラスト描いたりしてたけど、アイコン作りの時とか、活かせてる感じもある。
バイトでどこかに潜りこみたいなー
ところで、業界について調べてたら
本当に超絶ブラックだから辞めとけみたいな忠告がいっぱい出てくるんですけど。
なんとなーく忙しそう、残業ありそうくらいは感づいてたけど、
本当に?そんなに?辛いの?
まぁ、8時9時くらいまではしょうがないかなぁって思ってるけど
まさか毎日深夜まで・・・残業なんて・・・そんな馬鹿なことが・・・
また無職に逆戻りしそう。
体験してないのに逆戻りは馬鹿みたいだから、一回は働く予定だが・・・
そこのとこ、どうなんですか、現役さんたち。
素朴な疑問だけど
受診者が受診してるときにホンワカするっていうのは必要なことなの?
例えば良薬口に苦しっていう言葉があるし
厳しくて緊張する指導者の方が優しくて弛緩する指導者より高いところに連れてってくれるっていうのはあるよね。
カウンセラーでもそういう、なんらかの原因を抉り出そうとしていて必ずしもホンワカしないけど
君の理解は間違いが多すぎるから、wikipediaとかネットの断片的な情報を読むのはやめて落ち着いて教科書を勉強することをお勧めする。
力学で分かりやすい本ってあんま知らないからその辺の推薦はできないんだけど、普通の力学から始めて解析力学まで一通り勉強したあとにランダウの本読むといいんじゃね?
前半分と、後ろ半分は言いたいことが違うから。
に突っ込まれた。という事でいい?
位置エネルギー というか ポテンシャル 単体は 定義しようと思えば テンソルでもベクターでもスカラーでも そのいずれでも定義可能であるが(ベクトルポテンシャルが存在している)
エネルギー交換の法則をベースに考えると、ポテンシャルエネルギーはスカラー量であるほうが便利であるから、ポテンシャルエネルギーを位置エネルギーとしたんだなぁ。という話。(和訳したと言うよりもスカラーポテンシャルが持つエネルギーをポテンシャルエネルギーと命名した)
ポテンシャルのエネルギーは スカラーポテンシャルとベクターポテンシャルがある(らしい)し ベクターやテンソルと考えることにも非合理性はないのに
なぜ、ポテンシャルのエネルギーであるところのポテンシャルエネルギー=位置エネルギーを わざわざスカラー量に限定したのか? という話で 繰り返しになるけど エネルギー交換の法則をベース にしているんだなぁと。
思った ということ。
つまり僕は ポテンシャルのエネルギーと ポテンシャルエネルギーの違いがわからなかったけど、うっすらわかって、まだまだ趣味の範囲で勉強するよという話。(用語が不正確ですまんね)
逆に言えば、仮に 運動エネルギーをベクターで表す社会があったとしたら、位置エネルギーもベクター量だった可能性が高いんだなぁ。という 話。
命名規則の話かね。
本職ではないけど大学で心理学やったりして全くカウンセリングの知識がないわけではない。
現状、カウンセリングというのは、言ってみれば欧米の文化で生まれたものを、ほぼそのまま輸入してる状態なんだと思う。
カウンセリングのもっとも基本にある「会話」は、あちらさんの文化的スタイルありきで発展し、確立されてきてるんだけれど
そういう長年の研究の成果として作り上げられた、増田の言う「マニュアル的な話しやすい雰囲気」ってのは、欧米圏ベースでまだまだローカライズされきってないんじゃって思った。
よく言われるように、日本みたいなハイコンテクストの文化と比べて、あちらさんは、会話時の雰囲気に、こっちほど細かさとか丁寧さとかが重視されないんだよな。
良くも悪くも率直だったり、暗黙の了解みたいなのがなかったり、日本人からすれば自己主張強すぎみたいなのもあったり。
昔知り合いのスペイン人が、欧米、特にアメリカ人の会話はドッジボールで、日本人の会話はボーリングだって言ってたんだけどまさにそんなイメージ。
会話をぶつけて戦わせるアメリカ的会話の文化と、一人が話すのを見守ってから話しだす日本的会話文化。
だから欧米のカウンセリング研究では、クライアントとカウンセラーが日本人が思うような穏やかな雰囲気というよりは、ちょっとした議論みたいな感じでやってくスタイルが確立されていったんだと思う。
で、そういう文化的背景では、増田が体験したような「目を見てうなずいて、共感して肯定して、質問して話させてやって」ってのはすごく効果的な方法なんだよな。
あとカウンセラーが読んでる論文とか研究というのも、心理学研究が全体的に欧米、ってかアメリカ主流だから、どうしてもあっち寄りの情報ベースになってきてしまうんだと思う。
仕事&研究熱心であるほど、欧米スタイルの最新の研究結果を取り入れていく→なんとなく(日本人の増田としては)コレジャナイ感 が生まれてもやもやの原因となったのかな、と思った。
教授なんて欧米の研究社会のまっただ中にいる人だから、日本でやっていくのに向いてないかどうかは判断しにくい。
自分に知識が無くて、説明してくれる人の話を理解出来ないなら、単語から調べれば良いでしょう。
その単語が何のためにあるのか調べれば良いでしょう。
そういう流れは、周りで失敗している人が多かったりする。結婚まで行かないって意味ね。
いわゆる玉砕。
20代前半で、同じ相手となんやかんやあって、20代後半でゴールに向かうのが結婚に多いと思う。
そうなると、職場で20代後半の男が、20代前半の女子を狙うのが多いってなる。
数打てばってのもあるけど。
定義を証明しろというのは、定義を証明しろと言ってるのではなく、
そういうふうに定義することが 合理的であり かつ 他と矛盾がすくない という事を証明してといっているだけ。
つまり、なぜ、そういう実験をして、なぜ、そういう定義があることを確認しようと思ったか?という科学者の心理状態について述べているのであって
定義の内容について述べているわけではないのに 定義の内容を言われても困る。
つまり、歴史の話をしているのに、理科の話をされたようなもの。
どちらかというと、そういう定義を作った理由(歴史的経緯) と その定義の存在意味についての話で会って、定義の内容ではない。
そして私は機械工学のしごとをしているわけでも、学者でもないので、定義の意味をコミュニケーションのネタとして知ることに徳はあるけど
位置エネルギーで言えば、空間中の適当な力場F(r)中で、点A(座標r_A)から点B(座標r_B)に物体を移動させたとき、仕事
ΔE = \int_{r_A}^{r_B} F(r)・dr
が経路によらないとき、ΔEを(r_Aに対するr_Bの)位置エネルギーと定義する。というだけ。
定義が正しいとか正しくないとかそういう問題ではなく、そういう性質を満たす力場Fが自然界に存在するのかどうかを実験的に確認することしかできない。
例えば重力場は(非相対論的極限では)実際にそういう性質を持った場であることが増田の想像を遥かに超える膨大な実験事実によって確認されているわけ。
フランス人相手に「colonialist」って、本当に最高クラスの罵言になるのか試してみてよ。
それともありゃ60年代限定の話なのかね?