なるほど。確かにそれは説得力がある。
あなたの言うとおりなのかもしれない。その仮説の真偽は分からないけれども、イメージ(俺の見てきた限りの傾向)としては2005年以前から個人サイトで活動してる人は割とその辺気にしないんだよね。俺はチキンだからもともと申請とかしないけどさ。あと、その人らのほうが活動長い分攻撃されてると思うけれども。
人って生き物は共感できない相手と分かり合うのは難しいもんだし、共感できる人間で群れるもんだろ。
自分が苦しんだなら、苦しんだことがないやつを馬鹿にしたり、同様に苦しんだ(かもしれない)人を勝手に仲間認定したりな。
それがいいことだとは思わんが、心理的・社会的な帰結なのか知らないが自分もそういった傾向のある生き物だという自覚があるし、あるいは本能的なものだと思えば怒りすらわかん。
初めて風俗に行ってきたので考えたこと、感じたことをつらつら書いていこうと思う。
以下感想。
※ブコメで頻出している「1万6千円って安すぎだろう」という突っ込みに対する応答も含め、補足を書いたのでそちらも参照してもらえると幸いです。
どうも、村上春樹の小説なら昔の恋人が2人ほど死んでいるくらいの年齢の男です。
こういうことをするのは人生で二度目。それも相手はその時と同じで、彼女とは以前はちゃんと付き合っていた頃もあった。わりに長い間。
彼女がちゃんと付き合っている彼氏も前の時と同一人物で、以前と違うのは、彼女が結婚を控えているということ。
色々と思うところもあったんで書いてみようと思う。
こんな事日常の人付き合いの中で重々身についているとは思っていたんだけど。
その気になればと言ったところで人はおおよそ「その気になる」だけのエネルギーを持ち合わせていない。現代人は生きるだけでも複雑でそんな余分なエネルギーがない。「進めてる結婚の話だってその気になればどうにかなるしあなたさえ良いなら彼と別れてあなたと一緒になる」とその人が言ったところでその気になる確率はいかほどのものかって話。
自分の言動に自信が持てなくなったり、誤っている点を無視するようになると、自分を認めてくれる意見なり理論なりが欲しくなる。不安だからだ。そういう時に人は他人にそれを求めたりするけど、それがとても出来ないようなケースの場合、面白いことにそれをなんとか自分で捻出しようとする。そうすると自己の体系の中の欠けている部分を補強するいわば部分工事のような意見なり主張、それに基づいた言動が出てくる。成り立ちが無いのでそれは脆く破綻しやすい。
人のそれもそうだけど、自戒をこめて。
まだぼんやりとしたものだけど、傷付いても良い覚悟、磨り減っても良いと思える覚悟のようなものだと思う。
第三者の深みまで足を踏み入れる時、摩擦が生じる。自分がそれなりのエネルギー・勢いを持って踏み込むのならより一層。
自分は過去にこれで痛い目を見た。その覚悟がなかったために色々な人や物を恨まずにはいられなくなってしまった。その学びがあっただけ今回は良かった。一時的なキツさなんて目を瞑っていれば良い。傷が消えそうにないならそれもまた仕方なく引きずれば良い。恨み続け許せない生活が一番キツい。
疲れたわ
何が辛かったって、完全に「二人だけ」だったこと。「いや、それ間違ってないか」と主張したところで、それを正しいとしてくれる人はいない。先述の「自信がないと云々」って話でもなくむしろ自信があった。声を大にして言いたかった。それでもそれを認める人も裁く人もいないんで自分の声は虚しく響くだけだった。
全然関係のない些細なことで痴話喧嘩するのも、夜の駐車場に停めた彼女のパッソの後部座席で、勢いづいて変なぬいぐるみをどけてセックスするのも、公園の桜の下で膝枕で眠るのも二人だけで、それぞれの日常に帰ればそれを知っている人は誰一人いなくて、自分は自分で何食わぬ顔で生活する。彼女は彼女で式の準備なりをして、きっと久しぶりに再開した友人に「結婚もうすぐだねー楽しみだねー」とか言われながら談笑してたんだろう。
そしてその二人だけの小さな世界にあっては結婚数ヶ月前にモトカレと大好き大好きと言いながらセックスすることだって、「私には自分の幸せより自分が如何に相手を幸せにできるかという考えしかない」と言いながら「あなたは自分の幸せしか考えてないのね私はもっと私の幸せを考えてくれる人がいい」と主張することだって、なんだってまかり通るわけだ。
とにかくそんなこんなで自分の「おかしい」という疑念だけが空回りしてキツかった。それなりに消耗していって、最後に「お前の言葉を信じた俺が馬鹿だったよくそったれ」と暴言をはいたところ「さっきまでホテルであんなに好きだよと言ってくれたりしたのにそんな事言えるんだね」と言われたけど、もう「さっきまでホテルであんなに好きだよと言ってくれたりしたのに他の人と結婚できるんだね」と言い返す気にはなれなかったなぁ。
誰だって自分がかわいい。みんな自己の中でバランスをとるのに必死で、それと同時に大切にしたい人がいたりする。自己愛と他者への愛はそれぞれ独立なもので絶対的にあるもんで、互いの差はあれどどちらに偏っているとかってものでもない。その人の存在が大切なのか、一緒にいて満たされる自分のためにその人が共にいてくれることが大切なのか、とか、そんなの両方大切に決まってるじゃん。当たり前のことなのだけど、前にも書いたように追い込まれるとそういう事すら見失う。だから相手の幸せ自分の幸せみたいなしょうもない事を引き合いに出して、格好良い上辺の意見の裏の本音を露見みたいなだっさい真似をしてしまう。
そんな事は初めからわかっていて、そういう全てをひっくるめて受け入れようという姿勢が大切なんじゃないかと思う。
結婚ってのは高校生カップルが「ずっと一緒にいようね」って言い合ってるのとは違ってさ、他人同士が家族になるという割りに重大なことなわけで。
家族ってのは(少なくとも良い関係を構築したいのなら)、そこに必要なのは慈愛であって、それは無条件に相手を受け入れ抱きしめられることだと思っている。
簡単なことじゃない。他人同士がすぐにそんな関係になんてなれないだろ、と思う。けど少なくともそうなろうという前向きな姿勢が大切なんじゃないか。俺は許すよ、私は受け入れるよ、という。
それも理想的に過ぎるのかもしれないけど。若者の戯れ言と思われるかもしれない。現実はそう上手くも運ばないかもしれない。
まぁとにかくそんなこんなで春先からのドタバタは終結。俺はまた冴えない生活に戻る。結婚どうこうなんて言ってらんない。
でもまぁ少なくともあんな結婚はしたくないな、俺は。
1行1分
ここからはもうただの深読み推測なんだけど、その絵師たちは、絵師やってることで何かと嫌な目にあったことがあるんじゃないかな
絵に限らず、作品公開してる人間ってのは、外野から容赦なくこき下ろされうる不利な立場の存在だしね
で、絵師からすれば、そういう外野の攻撃者というのは「絵を描く努力も苦労も楽しみも知らない知ろうとしない奴」に見えるものなのかも知れない
そうか。
俺は絵を描ける人とも作曲できる人とも勉強できる人とも運動できる人とも何もできなくとも俺の意見に耳を傾けてくれる人とも、とりあえず交流したいと言ってくれる人とも、交流したいと思うけれども、
そうじゃない方が普通で当たり前で当然でよくあることだったんだな。
確かに「人による」し、「絵師活動に関わるコミュニティの人間との交流専用」に使おうって姿勢自体は分かる。
同好の士を求めるってことなら俺も納得する。だからとりあえず「絵描きに限らせてくれ」っていうなら俺も何も思わない。学士会とか学歴(+一部職歴)だけで人を見るわけだしな。
でも、「絵を描く努力も苦労も楽しみも知らない知ろうとしない奴は来るな」ってこと こんな物言いはないと思う。
「絵を描く努力も苦労も楽しみも知らない知ろうとしない奴」っていう表現に物凄く見下したような、変な傲慢さを感じるし覚える。
「絵を描く努力も苦労も楽しみも知らない知ろうとしない奴」とは人間として違うんですよ、みたいな。
一方でプロフィールには「見てくれてありがとうございます。」とか抜かしてるから余計に。「ありがとうございます。」はいい顔したいだけかよって思う。
http://anond.hatelabo.jp/20110623053845
一度でもいいから言ってみたい。
エッチさせてください!
おっぱいチューチューさせてください!
今日も頑張って抜くぞ!
そこは「人による」で片付く部分じゃないかなあ
あるいは、方向性を変えて見るならば、「絵師をやっている個人が“絵師として持っているアカウント”をどう使うか」って話でもあるわけで、
十分すぎるほど、筋の通った説明だと思うけど。
「わかりたくない(有罪を認めたくない)」だけの人間だろう。
違う筋で説明できるなら、ぜひしてもらいたい。そういう異論は「あり」だと思う。
あーごめん。元記事消したわ・・
つーかまじかよ。
誤用にツッコミ入れまくるのも無粋だし、でも話がかみ合わないのもアレだしと思って、いろいろ勉強中なんだけど
もうだめだ心が折れそうだ
そういう感覚はあるのかもしれないけれど、それとしか交流したくないっていうのは階層意識に感じてしまうな。
やや古い辞書の「広辞典」(広辞苑じゃないよ)に、「ニュートラルな意味として」載ってたじゃん!!!!
あーよかた。俺が間違ってただけだったわ・・・
いろいろ納得。
小町でやれ、って言わないで。ここで書かせて。
で、思ったこと。
うちの小学校ではプリントで「撮影禁止です!」を謳ってるわけじゃないから、
尚のことなのかもしれないけど。
いやー、びっくり。あれって、何の文化なのだろうか。
暇だから(いや、授業参観って結構暇だよね。自分が参加できる場面があるわけじゃないし)
他の父母観察していたのだけれど、
自分の観察範囲における考察としては、ビデオ撮影してる人って父親率が高い。
たぶんさ、お母さんはやっぱり他のママさんとの繋がりがあるからさ
いわゆる女の同調圧力ってやつがね、
だから、「ビデオ撮影」っていう若干後ろめたいことはおおっぴらにはできないんだと思うんだよね。
でもお父さんって、あんま、パパ友とかないじゃん。
だから人の目とか、気にならないんだろうね。
授業参観の科目は図工だったんだ。厚紙使った工作。
先生がさ「お父さんお母さんも、そんな端じゃなくて奥のほうに入ってお子さんの様子見てください」
なんて言うもんだから、みんな自分の子どもの隣にばっちり着いたんだよ。
そしたらさー、うちの娘の隣の席の子どものお父さんが、やっぱりカメラ構えてて
「自然な感じで!そう、手動かしたままでいいよ。カメラ目線は要らないから!」って
指示飛ばしながら撮影してたのに超うけた。
見た感じ、普通のお父さんっぽいのに。どうしてそうなっちゃうんだろうね。
指示出すと言えば、他のお母さんたちも凄かった。
「同じ色の紙ばっかり使わないで、そっちの紙も出して使いなさい!」
「もっと細く真っ直ぐ切らないと、うまくいかないわよ!」
「それで完成なの?だめだめ、他の子の見てみなさい!」
10年後にはきっと、せめて10年でいいからもどってやり直したいと思っているのだろう。
今やり直せよ。未来を。10年後か、20年後か、50年後からもどってきたんだよ今。
これ思い出した
画像見えねえよ(`Д´)どうせわかんないと思うけど